第3章 — 落下と憤怒
夜明け前の冷気がまだ残る頃、カイトは再びトレーニング用プラットフォームへ戻ってきた。
工業用天井の隙間から、街の光がまだ震えるように差し込み、
しかしこの地下では、低く重いビートだけが彼の呼吸と並走していた。
ローカルトーナメントまであと三日──
そして彼は、昨夜のあの出来事を再び手放さぬよう、確かめなくてはならなかった。
ディストーションの感覚はまだ残響していた。
それは胸の奥で鼓動とは別の脈を刻む何かで、許可もなく姿を現すもの。
それが力なのか、本能なのか、呪いなのか──カイトには分からない。
ただ一つ確かなのは、それが来ると、すべてが簡単になりすぎるということ。
危険なほどに。
彼はプラットフォームに乗り込み、起動した。
床が応えるように震える。
パネルが傾き、レールが滑り、障害物が生きた歯車のように回転し始める。
それは訓練場を装った戦場であり、精密さのない者を容赦なく落とすための床だった。
カイトは緑のダイヤのピアスを整えた。
まだ冷たい──変化の兆しはない。
よかった。
彼は自分自身として動きたい、崖っぷちに現れる“軍人の影”としてではなく。
ルーティンを開始する。
ステップ、ピボット、ローキック、ドロップ。
続いてフリーズに見せかけたクリンチ。
ビートは空間にも内側にも響く。
ひとつひとつの動きが、「自分が人間であり、限界がある」という事実を体に思い出させる──
ディストーションが無視する、その限界を。
より攻撃的なコンビネーションへ移った瞬間、
プラットフォームが“モード3”を起動した。
高速の横移動。
床が足元から逃げ、カイトは腰を使って重心を調整した。
回転、固定、空への蹴り。
同期は良い。
だが──完璧ではない。
背面パネルが乾いた音で開く。
カイトの反応は一瞬遅れた。
足が金属の縁に触れ、滑り、身体が後方へ倒れた。
また、落下。
かかとに虚空が触れた、その刹那。
内側で何かが“音もなく叫ぶように”開いた。
それは恐怖が押したのではない──ディストーションだった。
今回は計算された暴力とともに現れた。
目が焼けるように熱く、視界が狭まり、兵士が領土に突入する寸前の呼吸。
ピアスが変わった。
緑 → 赤。
戦闘の光。
身体は、訓練すらしていない動きで反応した。
軍隊式の回転、床に肘を突き刺して反動を生み、逆さまの跳躍で金属へと帰還する。
センサーが「落下」を記録する前に。
着地は鋼を砕くように鋭く、重く。
プラットフォームが停止した。
システムが異常反応を検知し、一時的に環境を凍結させたのだ。
カイトは中央で立ち尽くし、
抑え込んだ獣のような呼吸を吐いた。
そして痛みが来た。
強烈で、脈を打ち、
こめかみを光の鞭が叩くような痛み。
視界が一瞬ぼやけ、記憶が古い電灯のように点滅した。
気がつくと彼は膝をついていた。
顎から汗が滴り落ちている。
プラットフォームは警告灯で赤く染まっていた。
「……くそっ……」
吐き出した声には、ディストーション特有の軽い吐き気が滲んでいた。
分かっていた。
訓練で出たのなら──大会でも必ず出る。
そしてそれは、何百もの視線の前で起こる。
このままでは制御できぬまま飲み込まれてしまう。
助けが必要だった。
あの家系に流れる正体不明の“血”の重さを理解する誰か。
ダンスの裏に隠された武術を知る者。
──サトウのような。
そう考えた瞬間、
倉庫に新たな気配が現れた。
ゆっくりとした足音。
一定のリズムで。
まるでこの部屋そのものが、その足音に呼応しているかのように。
カイトが頭を上げると──
そこにいた。
腕を組み、サングラスをかけ、髪を後ろで束ね、
戦いを知りすぎた者の姿勢。
サトウ。
元・軍所属のダンサー。
元・リーグのインストラクター。
サーキットを知る者にとっては、半ば生きた亡霊のような存在。
「ディストーションを呼んだな。」
サトウは遠慮なく言った。
カイトは拳を握る。
「呼んでない。ただ……来たんだ。」
サトウはプラットフォームに歩み寄り、
金属を踏み鳴らした。
警告の銃声のように響く。
「ディストーションは“ただ来る”ことはない。
お前の家系の最も古い本能に応じて現れる。
制御できなければ、自分を傷つける刃になる。」
カイトは立ち上がろうとしたが、ふらついた。
頭痛が目の奥で燃えるように鋭い。
「教えてくれ……」
避け続けていた言葉をついに吐き出す。
「大会までに……制御したい。」
サトウは彼を長い沈黙で観察した。
そして、うなずいた。
「訓練する。だが覚えろ。
“制御する”のは“支配する”ことではない。
せいぜい数分、鎖でつなぐ程度だ。
そして使うたびに代償は増える。」
カイトは喉を鳴らした。
知っていた。
今、身をもって体験したばかりだ。
サトウは制御パネルを指差した。
「モード5を起動しろ。」
カイトの背が固まる。
モード5──通称“戦争モード”。
ベテラン以外は触れない領域。
回転床、急角度の傾斜、広い溝。
大会そのものとほぼ同じ難度。
「死ぬ……」
カイトの声が漏れる。
その時、サトウが初めて笑った。
それは優しさのない笑みだった。
「ディストーションが出れば、お前を救う。
そして──いつ呼ぶべきか、いつ遠ざけるべきかを学べ。」
カイトは深く息を吸った。
パネルへ向かう。
指が震えていた。
モード5──起動しますか?
彼は YES を押した。
照明が落ちる。
床が震える。
全体が金属の怪物のように目覚めた。
サトウが手を上げる。
「最初の試験だ。
六十秒、生き残れ。
──ディストーションなしで。」
カイトの胃が沈む。
プラットフォームが激しく傾いた。
人工風が左から吹きつける。
モーターが捕食者のように唸る。
カイトは一歩下がりかけ──
危うく落ちそうになった。
六十秒。
ディストーション禁止。
床が揺れた。
心臓が跳ね上がる。
---
次の章へ続く:
タイマーが鳴り──
最初の傾斜でカイトは、開始二秒も経たぬうちに奈落へ弾き飛ばされそうになった。




