金木犀の道しるべ
九月の終わり、空気がほんの少し冷たくなり始めたころ。
木かげ町のあちこちで、甘い香りが漂いはじめた。
道ばたの生け垣いっぱいに咲く金木犀の小さな花が、風に乗ってオレンジ色の花びらを散らしていた。
夏の終わりと秋の始まりを告げる、その香りは、子どものころからずっとこの町に息づいているものだった。
「いい匂いだな」
はるとが足を止め、両手をポケットに突っ込んで空を見上げる。
「うん。でもね、この匂いをかぐとちょっと胸がきゅっとするんだ」
つむぎはそう言って、リュックからノートを取り出した。
ページの端に花をひとつ貼りつけ、さらさらと書き込む。
『金木犀の香りは、なつかしい気持ちになる』
ボールペンのインクが紙にしみこむ音だけが、しばらくのあいだ響いた。
そのときだった。
ふわり、と強い風が吹き、金木犀の花びらが道いっぱいに舞い落ちた。
散った花びらはただ風に流されるのではなく、ゆっくりと並ぶようにして、まるで細い道を描いていた。
「……これ、道しるべみたいじゃない?」
つむぎが小声で言う。
「またお前、そういうこと言う」
はるとは呆れたように笑ったが、その目には少しだけ興味の光が宿っていた。
「でも……」
つむぎが足もとを見つめる。
花びらの列は、町の古い小道のほうへと続いているように見えた。
「ね、行ってみない?」
はるとは肩をすくめてため息をついた。
「お前と一緒にいると、こういうことばっかりだな」
それでも結局、二人でその道をたどることにした。
◇
花びらの道は、木々に囲まれた細い小道へと続いていた。
そこはふだん誰も通らないはずの、町の外れにある古い道だった。
昼間ならただの雑草だらけの道に見えただろうが、今夜は花びらが淡く光って見え、まるで別世界に足を踏み入れるようだった。
足音が落ち葉を踏みしめ、風が木の葉をざわめかせる。
遠くで虫の声が重なり、二人の息づかいだけが近くにあった。
「……ここ、どこまで続いてるんだろう」
「さあな。でも、なんか懐かしい感じがする」
やがて、小道の奥に小さな石の祠がぽつんと立っていた。
苔むした石の表面に、かつての人々の祈りが刻まれているように見えた。
その前に立つと、ひときわ強い風が吹いた。
『……来てくれたんだね』
どこからともなく声がした。
驚いてあたりを見回すと、祠のそばで花びらが集まり、ひとつの姿をつくった。
それは金色に輝く、少女のような影だった。
「だ、だれ……?」
つむぎが一歩あとずさる。
『わたしは金木犀の精。秋になると香りで人を呼ぶの』
「どうして?」
はるとが息をのむ。
『さみしい人を道へ導いて、思い出を思い出させるために』
声はやわらかかったが、どこか切なさを含んでいた。
花びらの影がゆらゆら揺れるたび、香りがさらに強く漂った。
「思い出って……」
つむぎが言いかけたとき、はるとがふとつぶやいた。
「そういや、俺、小さいころにここで遊んだ気がする……」
すると、少女の影が頷いた。
『そう。二人はここで初めて一緒に遊んだ。けれど忘れてしまっていたんだよ』
つむぎの胸が熱くなった。
小さなころの記憶が、風の匂いとともにぼんやりと蘇ってくる。
はるとの顔も、そのころと同じように見えた。
「そうだったんだ……!」
つむぎはノートに急いで書いた。
『金木犀は思い出を道にして、友をそこへ導く』
書き終えた瞬間、影の少女はにっこり笑ったように見えた。
『ありがとう。思い出してくれて。これでわたしもまた一年眠れる』
その言葉とともに、精は花びらとなって散り、風に溶けていった。
祠の前には、ただ金木犀の香りだけが残っていた。
◇
帰り道、ふたりはなんだか少し照れくさかった。
何も言わずに歩きながら、足もとに散る花びらを踏んでいく。
秋の夜風が頬をかすめ、月の光がやさしく道を照らしていた。
「なあ、最初に会ったの、ここだったんだな」
「うん。忘れてても、また思い出せるんだね」
つむぎは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
金木犀の香りがやさしく漂う中で、ふたりの歩幅は自然とそろっていた。
風が吹くたびに花びらが舞い上がり、道しるべのように未来へと続いていくように見えた。