番外編・未来のノート
春のはじめ、木かげ町の駅に電車が止まった。
ホームに降り立った柚木つむぎは、スーツケースを引きながら深呼吸した。
東京での暮らしに慣れ、働き始めて三年。
久しぶりに帰る故郷の空気は、少し甘くて、少し懐かしかった。
「……変わってない」
つむぎは思わずつぶやいた。
町の風景は少しずつ新しくなっていたが、駅前の桜は今も花を咲かせていた。
彼女はバッグの奥から、分厚いノートを取り出した。角はすり切れ、ところどころシミもある。
けれど、それは彼女にとってかけがえのない宝物だった。
◇
その夕方。
神社の境内で、ひとりの青年が手を振っていた。
「おーい、つむぎ!」
はるとだった。
少し背が伸びて、声も低くなっていたけれど、笑った顔は昔と変わらない。
二人はクスノキの下に並んで座り、しばらく言葉を交わさずに風を感じていた。
「懐かしいな……」
「うん。ここから全部始まったんだよね」
つむぎはノートを膝にのせた。
はるとが目を丸くする。
「まだ持ってるのか」
「当たり前じゃん。だって町の記録なんだから」
ページをひらくと、そこには子どもの字でびっしりと書き込みが残っていた。
桜の声、川の精、夏祭りの灯、星のかけら……。
はるとは指でたどりながら、思わず笑みをこぼした。
「……俺、こんなこと言ったっけ」
「言ったよ。『灯が消えたら一緒に取りに行こう』って」
つむぎは笑って読み上げる。
はるとは耳まで赤くして、「覚えてないな」とつぶやいた。
◇
ふと、クスノキの枝がざわりと揺れた。
葉の隙間から差しこむ夕日が、ふたりの足もとに影を落とす。
どこかで風鈴のような声がした気がした。
『よく帰ってきたね』
二人は同時に顔を上げた。
声の正体を問うことはしなかった。
ただ、心の奥で「ああ、まだここにいるんだ」とわかったのだ。
◇
夜。
二人は境内に腰かけたまま、満開の桜を見上げていた。
夜風にのって花びらが舞い落ち、ノートの上にひとひら落ちた。
「なあ、つむぎ」
「ん?」
「このノート、まだ続けるのか?」
つむぎは少し考えて、にっこり笑った。
「うん。だって町はまだ生きてるもん。大人になった私たちにしか見えないこともあるでしょ」
はるとは苦笑した。
「そうだな。じゃあ俺も、助手続けるか」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
ノートの最後のページはまだ白紙だった。
そこに、つむぎは今日の日付と一行を書き加えた。
『未来のノートは、これからも続いていく』
その文字を見て、はるとは深く頷いた。
彼らの記録は、子どものころの思い出にとどまらず、これからもずっと続いていく。
春風が吹き、桜の花びらがノートに散った。
それはまるで、新しい一章の始まりを告げる合図のようだった。




