番外編・くすのき様のひとりごと
わたしは長いあいだ、この町に立っている。
芽吹きと散りゆきを幾千度も見送り、幾百もの人の世を見守ってきた。
子どもが生まれ、育ち、年老いて旅立っていく――そのすべてが、わたしの根の下に積もっていった。
わたしの名を呼ぶ者は、昔は多かった。
祭りの日にはしめ縄を巻かれ、どんど焼きの煙に包まれたこともある。
けれど時がたつにつれ、ただの木としてしか見られなくなった。
風にざわめく声も、もう誰の耳にも届かなくなっていた。
◇
あの春の日。
小さな少女がノートを抱えてやってきた。
名は柚木つむぎ。
そのそばには、少し照れ屋の少年、はると。
つむぎは花の声を聞いたと、嬉しそうにノートへ書きつけた。
はるとは半信半疑の顔をしていたが、彼女を止めることはしなかった。
そのとき、わたしは思った。
ああ、この子なら、きっとわたしの声にも気づいてくれる、と。
そして春の終わり、わたしは勇気を出して声を届けた。
「よく来たね、つむぎ」
彼女は目を輝かせて耳を澄ませ、はるとは驚きながらも一歩そばに立った。
その瞬間、長く眠っていたわたしの心は、ふたたび息を吹き返したのだ。
◇
夏、二人は川に出かけた。
わたしの枝からは見えなかったが、風の便りに聞いた。
川の精が現れ、光の魚となって彼らを導いたと。
それを見届けたとき、わたしは確信した。
この町の小さな不思議たちは、彼らを選んだのだ。
秋には金木犀が香りを放ち、忘れていた出会いを思い出させた。
どんぐりは手紙のように感謝を伝え、落ち葉の精は「ありがとう」と声をのせた。
すべてが二人に集まり、ノートに記されていった。
冬、雪の子どもが約束を与え、年越しの火が願いを受け取った。
そのひとつひとつが、二人の絆を強く結んでいった。
◇
わたしは知っている。
人は時がたてば町を離れ、声を忘れてしまう。
それでも、この子らは記録を残すだろう。
ノートという形に変えて。
それは、わたしの長い年月の中でも初めてのことだ。
「声を聞く」だけではなく、「声を残す」者が現れたのだから。
◇
わたしは木であり、土地の記憶そのものだ。
けれど彼らがいる限り、わたしはもうただの木ではなくなる。
彼らの言葉と記憶の中で、わたしは未来へも生き続けるのだ。
春がまた巡る。
桜が咲き、風が吹き、子どもたちが走り出す。
つむぎとはるとも、またこの根の下にやって来るだろう。
わたしはその日を静かに待っている。
そしてこう願う。
どうか二人の歩みが途切れぬように。
どうかこの町が、いつまでも記憶を語り継げるように。
ざわり、と枝葉が揺れる。
それはわたしの心が小さく歌う音だった。




