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終わらない仮定法

作者: 桜美 咲蘭

「落ちたよ」


肩をトントンと軽く叩かれた感触に、反射的に振り向いた。


そこに立っていたのは、光の差す廊下で、どこか逆光に浮かぶような——一ノ瀬 (いちのせゆう)だった。


「……!」


胸の奥がドクンと跳ねる。思わず息をのんだ。


彼の手には、私のハンカチ。


さっき教室を出るとき、ポケットから落ちたのかもしれない。


「……あ、ありがとう」


気づけば、小さな声でそう言っていた。


「いーえ」


一ノ瀬くんは、軽く微笑んで、いつものあの穏やかな声で答える。


——けれど、なぜだろう。


その目は、まっすぐで。


どこか、何かを探るように、じっとこちらを見つめていた。


視線が合っているのに、どこかそれだけじゃないような。

胸のあたりがじんわりと熱くなる。


気恥ずかしくなって、私は慌てて目を逸らした。


そのとき——


「一ノ瀬〜!ちょっと来てー!」


教室の中から、誰かが彼を呼ぶ声が響いた。


「じゃあ」


彼は一言だけそう言って、ハンカチを私の手にそっと返すと、踵を返して教室の中へと戻っていった。


手元に残ったハンカチと、ほんのり残る指先の温度。

それだけが、彼がここにいたことの証みたいで。


私は、しばらくその場から動けなかった。


まるで、誰にも知られない、私だけの小さな物語が、ひとつ始まったような気がした。





__________





中学生のときの記憶が、ふいに波紋のように広がる。


あの日の空気、廊下に差し込む夕方の光、

心の奥に焼きついていた音や温度が、鮮やかに甦ってきた。


 


図書館で借りたばかりの本を胸に抱えて、廊下を歩いていた。


一歩ずつ、誰にも邪魔されない静かな時間。

そう思っていたのに、前方から足音が近づく。


数人の女の子たちが、私の方へ向かって歩いてくる。


そのうちのひとりが、わざとらしく肩をぶつけてきた。


「きゃっ、ごめんねー?見えなかったー!」


ぶつかった勢いで、腕の中から滑り落ちた本が、廊下にばらばらと散らばった。

女の子たちは笑いながら、そのまま通り過ぎていく。


私は声も出せずに、ひとり黙ってかがみ込み、床に落ちた本をひとつひとつ拾い集めた。


最後の一冊に手を伸ばそうとした、そのとき——


誰かの手が先に、その本を拾い上げていた。


 


「……っ」


思わず顔を上げた瞬間、目が合った。


瞳が絡んで、時間がふっと止まった気がした。


胸の奥がドクンと跳ねて、全身が熱を帯びる。


 


そこに立っていたのは、一ノ瀬 悠くんだった。


クラスの女の子たちが「カッコいい」と囁いていた男の子。

でも私は、遠くから見たことがあるだけで、話したことはなかった。


 


彼は何でもないような顔で、本を手渡してくれた。


「この本、面白いよね。……最新?」


少しだけ笑って、軽く首をかしげる姿が、どこか柔らかくて、優しかった。


「……あ、うん。面白い、です」


緊張でうまく声が出なかったけれど、それでもどうにか返した。


「じゃあ、読み終わったら教えてね。次、俺が読むから」


そんなことを言いながら、一ノ瀬くんはぽんっと私の頭に手を置いて、優しく笑った。


そして何事もなかったように立ち上がると、すっと歩き去っていった。


 


本当は、ありがとう、ともう一度言いたかったのに。

言葉は胸の奥で詰まったまま、ただ彼の背中を見送った。


 


——たった一言二言、会話をしただけだった。


けれど、あの瞬間から、心臓の音はうるさいほどに早くなって。

それが「恋」だったと気づくまでに、そう時間はかからなかった。


 


私の初恋の人。


何度もページをめくっては思い返す、大切な一場面。





あの日の出来事をきっかけに、私は少しずつ——でも確かに、一ノ瀬くんのことを意識するようになった。


廊下、教室、昇降口、体育館の隅。

どんなに人が多くても、不思議と彼の姿だけはすぐに見つけられるようになった。


 


「読み終わったら教えてね」


あのとき彼が言った、たったひと言。


ただの社交辞令だったのか、それとも何気なく口にしただけなのか。

一人で何度も反芻しては、結局たどり着く答えはいつも同じだった。


——たぶん、たまたま出ただけの言葉。

きっと、私のことなんて、もう覚えてない。


 


そんなある日の放課後。


図書館に本を返しに行こうと、廊下を歩いていたときだった。


図書室のドアが開いていて、ふと目をやると——そこに一ノ瀬くんの姿があった。


思わず、胸がドクンと鳴る。


けれど、その隣には女の子の姿があった。


ゆるく巻かれた髪、整った横顔、制服の着こなし。

まるで雑誌から抜け出してきたみたいな、可愛い子だった。


香坂こうさか 美羽みう


学年でも有名な美少女。男子にも女子にも人気があって、誰もが認める“憧れの存在”。


そんな彼女の隣に並ぶ一ノ瀬くんは、あまりにも自然で。

お似合いだった。——悲しいくらいに。


ズキンと、胸が軋んだ。


手に持った本を、思わずぎゅっと握りしめた。


気づかれないように静かに図書室へ入り、返却ボックスにそっと本を滑り込ませる。


それから、何も見なかったふりをして、何も聞こえなかったふりをして——逃げるように図書館を出ようとした、そのときだった。


 


「……あれ?」


どこかで、そんな声がした気がした。


振り返りたかった。


けれど、できなかった。


きっと気のせい。きっと私に言ったわけじゃない。

だって——私のことなんて、覚えてないはずだから。


顔も上げず、目も合わせず、私はその場を足早に立ち去った。


小走りで廊下を抜けながら、心の奥が少しだけ、滲んだ。


まるで、図書館の静けさに、初恋の音だけが置き去りにされたみたいに。





_____________





あれから——

一言も言葉を交わすことなく、私は高校生になった。


 


一ノ瀬くんは、相変わらず人の目を引く存在だった。


いや、中学の頃よりもさらに、人気がある。

廊下を歩けば、彼の名前がどこかしらで聞こえてきて、女子たちがその背中を目で追っている。


遠いな、と思う。


……でも、それはきっと、今に始まったことじゃない。


もともと私は、彼に“近づいた”ことなんて一度もなかった。


あの日——廊下で落ちた本を拾ってくれた、あの瞬間。

ほんの一言、ふた言、言葉を交わしただけ。


あれはきっと、偶然だった。

偶然、優しくしてもらっただけ。


だから、あの日からずっと、彼は“遠いまま”だったんだ。


 


「一ノ瀬と香坂が付き合ってるって、噂……」


どこかから聞こえてきたそんな声に、思わず心がざわついた。


耳を塞ぎたくなる自分がいる一方で、

その続きを無意識に気にしてしまう自分も、確かにいた。


図書館で見たあの光景——

仲良さそうに笑い合っていた、一ノ瀬くんと香坂さん。


あの瞬間が頭から離れなかった。


そしてまた、心の奥からふっと浮かび上がってくる。


——「読み終わったら教えてね」


あれは、本当に言ってくれた言葉だったのかな。

それとも、私が都合よく覚えているだけの、幻聴だったのか。


 


高校生になった今——

あのとき借りていた本は、もうずっと前に読み終わっている。


だけど私は、一ノ瀬くんに声をかけることができずにいる。


時間だけが、何も変わらないまま過ぎていった。


 


一ノ瀬くんから何かアクションがあったわけでもない。


きっと、彼にとってはあの日も、なんてことのない一日だったんだ。


でも、私にとっては——

あの時間が、胸の奥にずっと残るような、特別な記憶だった。


 


一ノ瀬くんは、

私のことを、覚えていてくれているのかな。


それとも本当に、すれ違ったままの一瞬でしかなかったのかな。


 


もう、終わったはずだったのに。


もう、とっくに終わらせたはずなのに。


私はまだ、散ったはずの初恋を胸に抱えたまま——

今も、気づけば彼の姿を目で追ってしまっている。


何も起きないことが分かっていても、

何かが起きたらいいなって、心のどこかで願ってしまう自分が、まだいる。


 


それが初恋の罪なら——

私はきっと、まだ罰を受けている途中だ。




______________





高校でも、中学と同じように——

私は迷わず、図書委員を選んだ。


放課後の図書館。

静かで、誰にも邪魔されずに本の世界に没頭できるあの場所が、私は何よりも好きだった。


今日も、いつものように扉を開けて中に入る。

ただ、それだけのはずだったのに——


目に飛び込んできたのは、あの日とまったく同じ光景だった。


 


一ノ瀬くんと、香坂さんが、並んで笑っていた。


 


その瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。


まるで時間が巻き戻されたかのように、体が言うことを聞かない。


一歩踏み出そうとした足は、不意に後ろへと引いてしまった。


そして私は、その光景から目を逸らすように、

図書館を飛び出していた。


——あの、私が一番好きだったはずの場所から。


 


廊下を、がむしゃらに走る。

誰に追われているわけでもないのに、何かから必死に逃げるように。


やがて息が切れて、立ち止まる。

胸の奥がきしむように痛くて、深く息を吸っても、苦しさは消えなかった。


それは、きっと走ったせいだけじゃない。


わかってる。


本当は——心が痛いんだ。


 


もう、とっくに過去にしたはずだった。


初恋なんて、終わったものだと思ってた。


それなのに。


 


あの日から、私はできるだけ図書館に近づかないようにした。


こんなことなら、なんで図書委員になんてなったんだろうって。

あんなに好きだった場所が、今はもう、居心地の悪い空間に変わってしまった。


「どうか……どうか、今日だけは現れませんように」


そんな祈りを胸の中で繰り返していたのに——


 


「ガラガラ……」


静かな空間にドアが開く音が響く。

思わず顔を上げると、そこには香坂さんの姿があった。


神様は、ほんとうに意地悪だ。


 


彼女がカウンターに差し出したのは——

私が、あの日、彼からもらったあの言葉がきっかけで読んだ、忘れられない本だった。


 


「これ、借りたいです」


「…あ、はい…」


手がわずかに震えていたけど、悟られないように微笑んで、本を受け取る。


どうして今、この本なんだろう。

他にもたくさん本はあるのに。


そんなことを考えながら、パソコンにデータを入力していると——


 


「美羽ちゃん」


 


その声に、心臓が跳ねた。


振り返るまでもなく、誰の声かすぐに分かる。


 


「悠くん!」


香坂さんが嬉しそうに駆け寄っていく。


胸がぎゅうっと締めつけられる。


噂は……やっぱり、本当だったんだ。


 


「これね、この間話してたシリーズの本!」


「読み終わってもネタバレ厳禁で」


その何気ない会話の中に、スルッと入り込んできた一ノ瀬くんの言葉。


一瞬、時間が止まったような気がした。


——“読み終わったら教えてね”


あの時の彼の言葉が、ふっと蘇った。


 


「なんでー?いつも感想聞いてくれるのにー!」


香坂さんがふざけたように笑って、彼の肩を軽く叩く。


そのやりとりがあまりにも自然で、眩しすぎて。


視線を上げれば——ちょうどそのタイミングで、一ノ瀬くんと目が合った。


 


「どう思う? 俺が読む前に、全部言っちゃうんだよね、この子」


彼は、あの時と同じように優しく笑っていた。


だけど、あの時とは違って、もうその笑顔は私だけのものじゃなかった。


こらえないと。

泣いたら、全部壊れてしまいそうで。


 


「…仲良し…なんですね」


そう言って、私は精一杯の笑顔をつくった。


それが崩れてしまう前にと、図書館を飛び出す。


 


——“いつも”


その言葉が胸に残る。


“いつも”聞いてる、“いつも”一緒にいる、“いつも”の関係。


どうしてこんなにも、心がざわつくのだろう。


 


私と彼を繋いでいたのは、たった一冊の本。


曖昧なままの、約束。


それだけだった。


果たされることもなく、流れていった時間。


 


それに比べて、香坂さんと一ノ瀬くんは違う。


2人には、ちゃんと過ごした時間があって、

繋いできた言葉があって、

重ねてきた日常が、ある。


きっと——本なんて数えきれないくらい、一緒に読んできたんだ。


 


ひとつの本だけじゃ、きっと足りなかった。


私の想いが届くには——足りなかったんだ。




_________




ある日の放課後。


中庭のベンチで本を読んでいると、不意に声をかけられた。


「……あ、この前の子だ」


顔を上げると、そこには香坂さんの姿があった。


ちょこんと私の隣に腰を下ろし、覗き込むように私の読んでいた本をのぞく。


「なに読んでるの?」

「……えっと……」

「――あ! それ、この前、悠くんが読んでたやつだよね?」


一ノ瀬くんの名前が出た瞬間、反射的に本を閉じてしまった。


胸の奥がズキリと痛む。


気づいたら、言葉が口をついて出ていた。


「……香坂さんと、一ノ瀬くんって……付き合ってるの?」


自分でも驚くほど唐突で、香坂さんも目を瞬かせて固まった。


「……あ、ご、ごめんなさい。変なこと聞いて」


香坂さんはふっと笑って首を横に振った。


「ううん。付き合ってないよ」

「……え?」

「私は好きだけどね」


あっけらかんとした笑顔。でもその目は、どこか切なげだった。


安堵する気持ちと、勝てないと悟る心のざわつき。


香坂さんは、小さく息をついて言った。


「どれだけ一緒にいてもね……悠くんは、ずっと、現れるはずのない誰かを待ってるの」

「……え?」

「ほんと、ずるいよね。なんで私が、その子の背中を押さなきゃいけないの」


彼女の大きな瞳が揺れて、私は言葉を失った。


その想いの意味を、勘違いしそうになる。


「……早く行きなよ」


その言葉に、胸がいっぱいになって。


ありがとう、ごめんね、全部飲み込んで私は走り出した。


向かう先は、図書館。


ガラリ、とドアを開ける。


……けれど、探していた人の姿はそこになかった。


当たり前だ。こんなタイミング、都合よく現れるわけがない。


肩で息をしながら、私は本棚へ足を向ける。


何度も触れたあの本に手を伸ばして、そっと手に取った。


「……読み終わったよ」


ぽつりと呟いたその言葉。


もしも、もっと早く言えていたら。

もしも、あの時――。


目頭が熱くなって、その本を戻そうとした瞬間だった。


「……遅くない?」


耳に届いた声に、動きが止まった。


ゆっくりと振り返ると、本棚にもたれかかって腕を組んでいる一ノ瀬くんの姿があった。


「どこに向かって言ってるの? 俺に言わなきゃ意味ないじゃん」


そう言いながら、私の隣にしゃがみ込み、手にしていた本をそっと奪う。


「……やっと読める」

「……え?」

「“読んだら教えて”って言ったのに、全然教えてくれなかったでしょ?」

「でも……返した時、一ノ瀬くん、香坂さんといて……」

「うん。でも、白石さんから聞いてない」


名前を呼ばれ、思考が一瞬止まる。


「……名前、なんで……」

「中学から一緒だよ。知ってて当然でしょ」


胸がぎゅっと締め付けられる。


ずっと、届かないと思っていた気持ちが、こんなにも近くにあったなんて。


「俺なりに、繋ぎ止めてたつもりだったのに。忘れようとしてて、正直ムカついた」

「……だって、香坂さんと……」

「美羽ちゃん?」


言いかけた言葉を遮るように、その名前を呼ぶ。

無意識に睨んでいたのかもしれない。

それを見た一ノ瀬くんは、くすりと笑う。


「……もしかしてヤキモチ?」

「……」

「仕返しだよ。俺のこと、ずっと放置してたから」


恥ずかしくなって、一歩距離を取ろうとした瞬間。


肩に回された腕に引き寄せられて、彼の体温がふいに右半身に触れる。


目が合う。呼吸が浅くなる。心臓の音が、耳にまで響きそうだった。


「結ちゃん」


名前を呼ばれて、額がそっと触れ合う。


「やっと捕まえた。もう、絶対に逃がさないよ」



ふいに呼ばれた名前。

私の名前。

中学の頃から、呼ばれたことのないその響きが

今、この距離で響くなんて、思ってもみなかった。


コツン、と額が触れる。


「やっと捕まえた。もう、絶対に逃がさないよ」


その言葉に、胸の奥が震えた。


……あの日閉じたままだったページ。

ずっと途中で止まっていた、物語の続きを

今、彼の手で開かれたような気がした。


忘れたくて、諦めたくて、

何度も心に蓋をしてきた初恋は

けれど、本当は――



ずっとここにあった。



ようやく届いた気持ちは

胸の奥でふわりとあたたかくなって

長い長い片想いに、そっと幕を引いてくれた。


でも、これは終わりじゃない。


だってきっと、今日から始まる。

“好き”を伝え合えた私たちの、

初めての物語が――





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