第9話 休息の灯
砦の門をくぐると、空気が変わった。外の風よりも冷たく、石と湿った苔の匂いが漂っている。足音が石畳に反響し、その硬い響きに、誰もが少し身を固くした。
壁は厚く、窓は狭く、光は淡い。それでも――雨の心配がないというだけで、胸の奥がゆるんだ。
中庭では、既に何十人もの兵が動いていた。鎧の擦れる音、木剣の打ち合う音、号令の声。
それらが砦の壁に反響して、まるで石そのものが怒鳴っているように聞こえた。
干された鎖帷子が陽を受けて鈍く光り、井戸の水桶からは冷たい水が跳ねる。
空気には火薬の代わりに、汗と獣脂の匂いが充満していた。
行軍を終えたばかりの七人にとって、それは別世界のように思えた。
「……ここが、僕たちの居場所か」
ミロが呟くと、誰も答えなかった。
代わりに、鋭い声が響いた。
「徴募兵ども!」
広場の端に、背の高い男が立っていた。濃い灰色の外套を羽織り、左頬には古い傷が一本。
その男――隊長は、まっすぐ隊列を見据えた。声には鉄のような響きがあった。
「お前たちは今日からこの砦の兵だ。だが兵と呼ぶには、まだ早い。明日から叩き込む。頭から爪先まで、兵としての歩き方をだ」
誰も動けなかった。
一歩近づき、地面を杖で叩いた。
「今日は休め。死ななかっただけで充分だ。
だが覚えとけ。ここから先はこれまでの生活とは違う!
弱音も、わがままも、昨日までの生き方も――ここでは通用しない!」
その声が砦中に響き渡り、近くで訓練していた兵たちまで一瞬動きを止めた。
七人は無意識のうちに背筋を伸ばした。その姿を一瞥し、短く言い放つ。
「各自、部屋で休め。鐘が二度鳴ったら消灯だ」
そう告げると、踵を返し、足音も乱さずに去っていった。
石の廊下に残ったその響きだけが、妙に長く耳に残った。
***
七人は、やがて二つの部屋に分けられた。
エドリック、ミロ、ダリル、ロランの四人が一部屋。
トマ、オズワル、レナードの三人が向かいの部屋になった。
部屋の中は簡素だった。
石造りの壁と、粗末な木の寝台が四つ。毛布が投げ出され、隅には小さな炉がある。そこから立ちのぼる煤の匂いと、古い藁の湿った香りが混ざっていた。人の気配があるのに、どこか墓場のような静けさだった。
「……寝てもいいのかな?」
ミロが誰にともなく呟いた。
「寝ろ。寝てる間に命令が来たら、起きるだけだ」
ダリルが壁に背を預けながら答えたが、その顔には薄い笑みが浮かんでいた。
「ダリルはいつからそんな偉そうになったんだよ」
ミロが反発気味に言うと、ダリルは肩をすくめて見せた。
「今だけ隊長代理だ。ほら、命令だ。靴を脱げ。足が臭すぎて眠れん」
「お前が一番臭いだろ」
「俺のは香りだ、行軍の勲章ってやつだ」
その冗談に、エドリックが吹き出した。
「やめとけよ、ダリル。部屋が臭いのは外よりマシだけど、戦いはまだ始まってないぞ」
「いいじゃねぇか。笑っとかないと、夢の中でまで行軍しちまう」
「夢の中でも足が動くなんて、まるで呪いだな」
「おいおい、それを言うな。縁起でもねぇ」
エドリックが笑いながら毛布に腰を下ろす。
「……こんなに柔らかい場所に座るの、何日ぶりだろうな」
「数えられるだけ元気があるってことだ」ダリルが笑いながら頷く。
「そうだな。ここで寝たら夢の中でも歩いてそうだ。寝相で隊列崩すなよ」
「寝相で死ぬとか、嫌な最期だな」
「死ぬより恥ずかしいな」
「じゃあ恥ずかしくても寝るか」
笑いが小さく広がった。
それは乾いた笑いだったが、確かに生きている音だった。
ロランはそのやり取りを黙って聞いていた。彼は炉の火を見つめ、ゆっくりと革手袋を外した。
手の甲には弓の弦でできた古い痕がある。その痕を親指でなぞりながら、静かに呟いた。
「……笑えるうちが一番だ」
その声はほとんど独り言のようだった。だが誰も返さなかった。
ただ、誰もがその言葉の重さを感じていた。
***
向かいの部屋では、トマが床に座り込んで靴を脱いでいた。
「足の皮が、もう別の生き物みたいだ」
「お前の靴、もう死んでるぞ」
オズワルが短く吐き捨てるように言った。
声には疲れと苛立ちが混ざっていたが、どこか現実に引き戻す力があった。
レナードは無言でナイフを取り出し、かかとの布を裂いて血を絞り出す。
「痛くないのか?」
トマが顔をしかめて尋ねると、レナードは淡々と答えた。
「痛みは慣れる。眠気よりましだ」
「……お前の言うこと、怖いな」
トマはそう言いながら、崩れるように横になった。
沈黙が落ちたあと、オズワルが低く呟いた。
「怖いって言葉、戦場じゃ役に立たねぇぞ」
トマが顔を上げる。
「でも、怖いもんは怖いだろ」
「……怖いまま動けりゃ生き残る。動けなきゃ、沈むだけだ」
オズワルは炉の光を睨むように見つめた。
「魚もそうだ。群れで動けない奴から喰われる」
「……戦いも、魚獲りと同じか?」
「同じだ。どっちも、生き残る奴が獲る」
言い切るように呟くと、オズワルは寝台に背を預けた。その顔には疲れが滲んでいたが、目の奥は冷めたままだった。
トマは横になったまま、片腕を枕にしてレナードを見た。
「なあ、レナード」
「なんだ」
「この先……俺たち、本当に戦うのか?」
「知らない。でも歩いてきた以上、止まれないし、回りが止まらせてくれないだろう」
「そっか。……そうだよな」
レナードは足に布を巻きながら言った。
「止まったら、思い出すだけだ。家の匂いも、声も」
「それがいけないのか?」
「いけないんだよ。逃げたくなるからな」
オズワルが短く鼻で笑った。
「止まったり、群れから逃げたら食われる。魚と同じだ」
三人の間に、長い沈黙が落ちた。それでも、火は消えず、誰も眠らなかった。
外では鐘が二度、低く鳴った。
砦の夜が始まる合図だった。
***
エドリックは目を閉じながら、かすかに母の言葉を思い出した。
――心まで奪われてはならないよ、エド。
耳の奥にその声が残っている気がした。どこかで人の足音が響いた。遠くで誰かが笑い、別の誰かが叱声を上げている。
それは、戦場の外にある生活の音だった。
エドリックは目を開け、天井の石の影を見つめた。まだ息がある。まだ誰かが隣で寝息を立てている。それだけで、少しだけ心が軽くなった。
彼はゆっくりと息を吐いた。
明日がどんな日であっても、この夜だけは休みたい。




