表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第一部 兵の風の中で
9/38

第9話 休息の灯

砦の門をくぐると、空気が変わった。外の風よりも冷たく、石と湿った苔の匂いが漂っている。足音が石畳に反響し、その硬い響きに、誰もが少し身を固くした。

壁は厚く、窓は狭く、光は淡い。それでも――雨の心配がないというだけで、胸の奥がゆるんだ。


中庭では、既に何十人もの兵が動いていた。鎧の擦れる音、木剣の打ち合う音、号令の声。

それらが砦の壁に反響して、まるで石そのものが怒鳴っているように聞こえた。


干された鎖帷子が陽を受けて鈍く光り、井戸の水桶からは冷たい水が跳ねる。

空気には火薬の代わりに、汗と獣脂の匂いが充満していた。

行軍を終えたばかりの七人にとって、それは別世界のように思えた。


「……ここが、僕たちの居場所か」

ミロが呟くと、誰も答えなかった。

代わりに、鋭い声が響いた。


「徴募兵ども!」


広場の端に、背の高い男が立っていた。濃い灰色の外套を羽織り、左頬には古い傷が一本。

その男――隊長は、まっすぐ隊列を見据えた。声には鉄のような響きがあった。


「お前たちは今日からこの砦の兵だ。だが兵と呼ぶには、まだ早い。明日から叩き込む。頭から爪先まで、兵としての歩き方をだ」


誰も動けなかった。

一歩近づき、地面を杖で叩いた。


「今日は休め。死ななかっただけで充分だ。

 だが覚えとけ。ここから先はこれまでの生活とは違う!

 弱音も、わがままも、昨日までの生き方も――ここでは通用しない!」


その声が砦中に響き渡り、近くで訓練していた兵たちまで一瞬動きを止めた。

七人は無意識のうちに背筋を伸ばした。その姿を一瞥し、短く言い放つ。


「各自、部屋で休め。鐘が二度鳴ったら消灯だ」


そう告げると、踵を返し、足音も乱さずに去っていった。

石の廊下に残ったその響きだけが、妙に長く耳に残った。


***


七人は、やがて二つの部屋に分けられた。

エドリック、ミロ、ダリル、ロランの四人が一部屋。

トマ、オズワル、レナードの三人が向かいの部屋になった。


部屋の中は簡素だった。

石造りの壁と、粗末な木の寝台が四つ。毛布が投げ出され、隅には小さな炉がある。そこから立ちのぼる煤の匂いと、古い藁の湿った香りが混ざっていた。人の気配があるのに、どこか墓場のような静けさだった。


「……寝てもいいのかな?」

ミロが誰にともなく呟いた。

「寝ろ。寝てる間に命令が来たら、起きるだけだ」

ダリルが壁に背を預けながら答えたが、その顔には薄い笑みが浮かんでいた。

「ダリルはいつからそんな偉そうになったんだよ」

ミロが反発気味に言うと、ダリルは肩をすくめて見せた。

「今だけ隊長代理だ。ほら、命令だ。靴を脱げ。足が臭すぎて眠れん」

「お前が一番臭いだろ」

「俺のは香りだ、行軍の勲章ってやつだ」

その冗談に、エドリックが吹き出した。


「やめとけよ、ダリル。部屋が臭いのは外よりマシだけど、戦いはまだ始まってないぞ」

「いいじゃねぇか。笑っとかないと、夢の中でまで行軍しちまう」

「夢の中でも足が動くなんて、まるで呪いだな」

「おいおい、それを言うな。縁起でもねぇ」


エドリックが笑いながら毛布に腰を下ろす。

「……こんなに柔らかい場所に座るの、何日ぶりだろうな」

「数えられるだけ元気があるってことだ」ダリルが笑いながら頷く。

「そうだな。ここで寝たら夢の中でも歩いてそうだ。寝相で隊列崩すなよ」

「寝相で死ぬとか、嫌な最期だな」

「死ぬより恥ずかしいな」

「じゃあ恥ずかしくても寝るか」

笑いが小さく広がった。

それは乾いた笑いだったが、確かに生きている音だった。


ロランはそのやり取りを黙って聞いていた。彼は炉の火を見つめ、ゆっくりと革手袋を外した。

手の甲には弓の弦でできた古い痕がある。その痕を親指でなぞりながら、静かに呟いた。


「……笑えるうちが一番だ」


その声はほとんど独り言のようだった。だが誰も返さなかった。


ただ、誰もがその言葉の重さを感じていた。


***


向かいの部屋では、トマが床に座り込んで靴を脱いでいた。

「足の皮が、もう別の生き物みたいだ」

「お前の靴、もう死んでるぞ」

オズワルが短く吐き捨てるように言った。

声には疲れと苛立ちが混ざっていたが、どこか現実に引き戻す力があった。


レナードは無言でナイフを取り出し、かかとの布を裂いて血を絞り出す。

「痛くないのか?」

トマが顔をしかめて尋ねると、レナードは淡々と答えた。

「痛みは慣れる。眠気よりましだ」

「……お前の言うこと、怖いな」

トマはそう言いながら、崩れるように横になった。


沈黙が落ちたあと、オズワルが低く呟いた。

「怖いって言葉、戦場じゃ役に立たねぇぞ」

トマが顔を上げる。

「でも、怖いもんは怖いだろ」

「……怖いまま動けりゃ生き残る。動けなきゃ、沈むだけだ」

オズワルは炉の光を睨むように見つめた。

「魚もそうだ。群れで動けない奴から喰われる」

「……戦いも、魚獲りと同じか?」

「同じだ。どっちも、生き残る奴が獲る」

言い切るように呟くと、オズワルは寝台に背を預けた。その顔には疲れが滲んでいたが、目の奥は冷めたままだった。


トマは横になったまま、片腕を枕にしてレナードを見た。

「なあ、レナード」

「なんだ」

「この先……俺たち、本当に戦うのか?」

「知らない。でも歩いてきた以上、止まれないし、回りが止まらせてくれないだろう」

「そっか。……そうだよな」


レナードは足に布を巻きながら言った。

「止まったら、思い出すだけだ。家の匂いも、声も」

「それがいけないのか?」

「いけないんだよ。逃げたくなるからな」


オズワルが短く鼻で笑った。

「止まったり、群れから逃げたら食われる。魚と同じだ」


三人の間に、長い沈黙が落ちた。それでも、火は消えず、誰も眠らなかった。


外では鐘が二度、低く鳴った。

砦の夜が始まる合図だった。


***


エドリックは目を閉じながら、かすかに母の言葉を思い出した。

――心まで奪われてはならないよ、エド。

耳の奥にその声が残っている気がした。どこかで人の足音が響いた。遠くで誰かが笑い、別の誰かが叱声を上げている。


それは、戦場の外にある生活の音だった。


エドリックは目を開け、天井の石の影を見つめた。まだ息がある。まだ誰かが隣で寝息を立てている。それだけで、少しだけ心が軽くなった。


彼はゆっくりと息を吐いた。

明日がどんな日であっても、この夜だけは休みたい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ