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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第一部 兵の風の中で
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第8話 灰の道

行軍は、昼と夜の境が曖昧になるほど続いた。歩いているはずなのに進んでいる実感がなく、一歩進むたびに昨日の痛みが蘇り、それでも止まれば後ろの兵に押し潰される。地面はぬかるみ、泥と血と汗が混ざった匂いを放っていた。


太陽は顔を出してもすぐに雲に隠れ、風はただ冷たく、空気を削るだけだった。空はいつも灰色で、どの方角にも明日はなかった。晴れた日の光を、誰も思い出せなくなっていた。


革鎧の擦れる音、乾いた咳、靴の中で水が鳴る鈍い音。それが、この世界のすべてになっていた。


ミロは口を開こうとして、すぐに閉じた。

喉が焼けるように痛み、声を出すことさえもったいなく思えた。彼は視線を落とし、前を行く背中の影だけを追った。言葉はもう、互いを慰める力を失っていた。


数日前まであった軽口も、今では「無駄な息」としか感じられなかった。ロランは黙って歩きながら、指先の感覚を確かめていた。

弓を握る手が冷えきって思うように曲がらない。「これは戦の前なのか……」と誰かが呟いたが、返す者はいなかった。返す言葉を探す余裕など、誰の中にも残っていなかったからだ。


ダリルは背負い袋の紐をきつく締め直し、息の合わぬ足音を苛立たしげに聞いていた。冗談を言おうとしたが、言葉が喉で砂のように崩れた。


「笑うにも、力がいるんだな」と彼は呟いた。


その一言にオズワルがうなずいたのかどうか、誰も見なかった。

ただ、列の端で誰かが短く咳をした。その音が、妙に重く響いた。


トマは頭の中で牛の鳴き声を思い浮かべ、それだけで涙が出そうになった。夜明けの牧草の匂い、冷たい鼻息。それらが遠い昔の夢のように霞んでいく。

「……家に帰れたら、まず牛を抱いてやりたい」そう口にした瞬間、自分で驚いた。その言葉があまりにも現実から遠かったからだ。


風が返事の代わりに頬を叩き、彼は唇を噛みしめた。


レナードは列の最後尾で木のかけらを握りながら行進していた。手の中で木がざらつく。

けれど、それだけが彼の「生きている証」だった。木屑が指に張り付き、握るたびに小さな音が夜気の中に吸い込まれていく。


形を成さない木片を落とすたび、彼は少しだけ息をついた。その音を、エドリックは密かに数えていた。人の音が、まだここにあると確かめるように。


***


歩きながら、エドリックは何度も母の顔を思い出していた。


霜の降りた朝、戸口で背を押してくれたあの手の温かさ。指先に残る灰と粉の匂い。村を出るとき、母は震える声で言った。「心まで奪われてはならないよ、エド。体は戦に取られても、心まで渡してはいけない」あの言葉は、最初は祈りのように聞こえた。


だが今では呪いに近かった。心を守るとは、いったい何をすればいいのか。誰かが倒れても声をかけずに通り過ぎることなのか。疲れきった足をただ動かすことが「生きる」ということなのか。


答えは見えなかった。


夜になると、火の光の中に母の影を見た気がした。薪を割る音、釜の湯気、笑い声。どれも遠い。思い出すたび、胸の奥が凍るように痛んだ。それでも思い出すことをやめられなかった。思い出すたびに、自分がまだ人でいられるような気がしたからだ。


風が吹き、灰の匂いが鼻をかすめた。エドリックは顔を上げ、空を見た。灰色の雲が低く垂れ込み、太陽はどこにも見えない。


――母さん、俺の心はまだここにあるだろうか。心の中で問いかけても、答える声は風に溶けて消えた。ただ足だけが、機械のように前へ進んだ。


***


昼は熱く、夜は冷たかった。空は一日中、何かを焼くような色をしていた。飯は塩と乾いた麦の塊、水は濁り、舌の上に鉄の味が残る。それでも食べねば足が動かない。野営の火は湿気でくすぶり、煙は涙を誘うほどしみた。


それでも誰も文句を言わなかった。言葉は風のように散っていく。眠りと覚醒の境を彷徨いながら、彼らは毎夜、同じ空を睨んでいた。夢を見ても、それが夢か現か分からない。


誰かが泣いても、誰も気にしなかった。泣くことは恥ではなく、呼吸と同じになっていた。誰が泣いているのか、自分なのか、それすら確かめようとはしなかった。


ある朝、列の中で一人の兵が崩れた。誰も足を止めなかった。兵士たちが慣れた手つきで担ぎ上げ、道の脇の馬車に乗せる。


それだけで、何事もなかったように列は進む。「死んだのか?」と誰かが小声で問う。「……寝てるだけさ」と別の誰かが答えた。その声にはもう祈りの響きはなかった。


ただ、乾いた諦めだけがあった。エドリックはその光景を見て、足の裏が冷たくなるのを感じた。「生きる」と「運ばれる」のあいだに、どれほどの差があるのか、分からなかった。


彼は歩きながら自分の影を見下ろした。影は痩せ、地面に縫い付けられたように伸びていた。


***


五度目の夜、風が止んだ。焚き火は湿気で煙り、息をするたびに喉が痛んだ。

遠くで鐘が鳴った。どこの町のものか、誰も知らない。


それでも皆、同じ思いを抱いた――まだ歩くのか。ダリルが石を蹴り、ミロが俯いた。ロランは沈黙のまま目を閉じた。火の粉が夜空に上がり、それが星なのか灰なのか、もう見分けがつかなかった。


トマが低く唸るように言った。「……戦なんて、まだ見てないのにな」


オズワルが短く返す。「見なくても、もう始まってる」誰も何も言わなかった。沈黙だけが、確かな返事だった。


***


翌朝、丘を越えたときだった。霧の向こうに灰色の砦が見えた。高い石壁と煙を吐く塔。風に混じって鉄の匂いが流れてくる。それは血の匂いに似ていた。


「……あれが、基地か」


誰の声ともつかぬ囁きが列を伝い、誰もが無言のままその影を見つめた。足の痛みも、喉の渇きも、その瞬間だけは遠のいた。ようやく辿り着いたという実感が、同時に“戻れない”という予感に変わったからだ。


歩いてきた道を振り返ると、そこには靴の跡だけが果てしなく続いていた。風に削られた跡は、もうすぐ消えるだろう。それでも七人は、互いに目を合わせなかった。言葉を交わせば、何かが崩れてしまう気がした。灰色の門は開いたままだった。


誰も迎えに来ず、誰も声をかけなかった。ただ内側から吹きつける風が冷たかった。その風に触れた瞬間、エドリックははっきりと悟った。


――ここから先は、誰の村でもない。


七人は一列になって進んだ。門をくぐるとき、背中から村の匂いがゆっくりと剝がれ落ちていくのを感じた。風が止み、砦の影が彼らを包み込んだ。灰の道はそこで途切れていた。



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