第7話 朝の鐘
朝の鐘が低く鳴り、石壁の村に新しい一日の始まりを告げた。
冷たい空気が頬を刺し、吐く息は白く溶けていく。列はすでに整えられ、赤い旗の下に兵士たちと徴募された男たちが並んでいた。革鎧のきしむ音、馬の蹄の打つ音が広場に重く響く。
エドリックは肩に掛けた槍の重みを感じながら、納屋の戸口を振り返った。藁の上で過ごした夜は長く、眠りは浅かった。
それでも、屋根と壁があるだけで心のどこかに小さな安堵が生まれていたのも事実だった。だが今、その安堵は霧のように消え去っていく。
広場の周囲には村人たちが集まっていた。女たちは幼子を抱き、老人は杖を握りしめ、若者は拳を胸に当てていた。彼らは声を上げるでもなく、ただ一様に頭を垂れて祈りを捧げている。その沈黙は、鐘の音が止んだあとも長く響き渡るかのようだった。
その祈りの列に混じる若者の顔を、エドリックは目に留めた。唇はかすかに震えている。
昨日まで共に畑を耕していた者かもしれない。だが今日からは、兵士に連れ去られる誰か。
俺たちは何も言わない。
だが確実に、この村からも誰かが徴募されたのだと分かった。
残された者たちの祈りは、単なる見送りではなく「自分は選ばれなかった」という罪悪感と安堵の入り混じったものに見えた。
ミロが小声で呟いた。
「……僕たちも、あの目で見られてるのか」
エドリックは答えられなかった。だが確かに、村人の視線は彼ら七人にも突き刺さっていた。恐れと怯え、そして祈り。その混ざり合った眼差しは、かつてレンの村で自分たちが兵士を見たときと同じものだった。
「……村での俺たちと同じだ」
思わず言葉が漏れた。自分たちはあの時、冷酷な兵士に怯えていた。だが今、別の村に来た自分たちは、同じ冷酷さを背負った存在に見えているのだろう。
胸が締めつけられるように痛んだ。ほんの少し前まで家で暮らしていた自分たちが、いまは祈りを受ける側に立たされている。その距離はあまりに短いのに、もう戻れない深い溝のように思えた。
そのとき、ダリルが小声でぼやいた。
「なんだか俺らまで偉そうに見えてんのかね……。粉袋担いでた頃にゃ、せいぜい粉まみれの小僧だったんだが」
皮肉を込めた軽口だったが、頬に浮かんだ疲労の影は隠せなかった。
笑いにすら力がなく、冗談を言えば言うほど現実の重さを際立たせてしまうようだった。
トマが必死に明るさを取り戻そうとするように口を開いた。
「でも……もし俺が村のやつらなら、祈るよな。兵士の目なんて怖くて直視できねえ」
オズワルが低く応じる。
「そうだな……俺らも昨日まではそうしてた」
レナードは腕を組み、村人たちを見やりながらぽつりと漏らした。
「木を削るときは、音で出来がわかる。だが今の俺らは……どんな音を立ててるんだろうな。恐怖の音か、それとも……」
仲間の言葉が互いに重なり、答えは出なかった。ただ祈りを浴びるように受け止めるしかなかった。
***
隊長の声が広場に響いた。
「出立だ! 列を乱すな!」
赤い旗が風に揺れ、裂け目の縫い糸が露わになった。兵士たちは馬に跨がり、革鎧の列はゆっくりと動き出した。
祈りを捧げる村人たちの姿が、少しずつ遠ざかっていく。
エドリックは振り返り、最後までその姿を目に焼き付けようとした。祈りは自分のためではなく、彼ら自身の無事のためのものだった。そう理解した瞬間、胸の奥で何かが冷たく固まった。
「なあ」ダリルが再び口を開いた。
「俺らの顔を見て、あの子どもら、泣き出してなかったか?」
「見えたな」オズワルが低く答える。
「……きっと俺たちが、鬼にでも見えたんだ」
「鬼か……」トマが乾いた笑みを浮かべた。
「牛飼いが鬼に見えるなんて、笑えねえ話だ」
「笑えなけれども……本当のことかしれない」ミロの声は震えていた。
「俺たちはもう、彼らにとって兵士なんだ」
ロランは答えず、ただ前を見据えて歩いた。その背中に宿る沈黙は、すべてを物語っていた。
エドリックは槍を握る手に力を込めた。母の声が脳裏に蘇る。
――心まで奪われちゃだめ。生きて、必ず戻っておいで。
祈る者の影を背に受けながら、彼は再び前を向いた。
列はゆっくりと村を抜け、戦の風が吹き荒れる道へと進んでいった。
***
祈る者の影を背に受けながら、エドリックは再び前を向いた。
だが胸の奥では、祈りの重さがいつまでも揺れ続けていた。
――俺は、あの人たちにどう映っているのだろうか。
ただの少年。昨日まで畑を耕し、丘を駆け回っていたはずの自分が、今は槍を持たされ、革鎧を着て行軍の列に並んでいる。その姿は、レンの村に兵士たちがやって来たときに見た、あの「恐怖の象徴」と同じものではないか。
母が怯えたあの瞬間。村人たちが声を呑み、ただ兵の視線を避けていたあの広場。自分はいま、その兵士と同じ立場に立たされている。
エドリックは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「生きて帰れ」――母の声が耳に蘇る。
だが、もし帰れたとして、自分はどんな顔で村に戻れるのだろう。
剣を握り、人を斬り、血に濡れた姿で……。
母の前に立つその瞬間、果たして自分は息子でいられるのだろうか。
槍を握る手がじっとりと汗ばみ、指先が震えた。
まだ一度も戦ってはいない。それなのに、もうすでに自分は「兵士」としての姿をまとい始めている。母や村人が祈りを向けたとき、自分の背に「冷酷さの影」が差していたのではないか。
歩きながら、エドリックは仲間たちを見た。
ミロは唇をかみしめ、顔を伏せていた。彼の震える肩には、幼い夢と畑への未練がまだ色濃く残っている。だが、村の人間からすれば、彼もまた槍を背負った「兵士」にしか映らないだろう。
トマは疲労に顔を歪めながらも、時折無理に明るい言葉を口にする。それでも、牛飼いの少年に貼られた「兵士」という皮は剥がせない。
オズワルは顎を掻き、ぶっきらぼうに前を睨んでいる。
その姿はすでに、漁師ではなく粗野な兵士のように見えた。
レナードは静けさを纏っていたが、彼の横顔もまた村人の目には無慈悲な無言に映ったに違いない。
そしてダリル。皮肉を吐き、冗談を飛ばす彼の軽口でさえ、疲労に覆われている。
粉屋の息子のあの柔らかさは、遠い記憶の中に沈みかけていた。
――俺たちは、もう違う顔をしている。
ロランの背を見たとき、エドリックはさらに胸を締めつけられた。
高く広い背中、揺れる矢筒。村で頼りにした狩人の姿はそこにあった。
だがその歩みは、森を歩く狩人ではなく、獲物を追う兵士のものに見えた。
彼の口数が減り、瞳に宿る影が濃くなっていくのをエドリックは知っていた。
兄を失った過去が、少しずつ彼を兵士に変えていくのだろう。
「俺も……同じなのか」
思わず胸の奥で呟いた。
父を探したいと夢想していたあの日は、もう遠い。いまの自分を突き動かしているのは希望ではなく、ただ「歩かされている」という現実だけだ。
昨日まで「父に会えるかもしれない」と信じていた心は、今日には「自分もまた戻らないかもしれない」という恐怖に塗り替えられていた。
列の外を歩く兵士たちの鎧がきしみ、赤い旗が風に鳴った。
彼らもまた、かつては祈りを受ける側だったはずだ。それがいまは祈りを浴びせられる存在になり、やがて恐怖を撒き散らす兵士へと変わっていったのだろう。
ならば、自分もまた同じ道を辿るのではないか。
心が冷えていくのを感じた。
だが同時に、胸の奥で小さな声が抗った。母の声だ。
――心まで奪われちゃだめ。
その言葉を繰り返すように、エドリックは槍を握り直した。
冷たい鉄の感触が掌に食い込み、痛みが意識をつなぎとめた。
「俺は……俺のままでいられるのか」
問いは風に消え、答えは返ってこない。だが、その問いを胸に刻み続けることだけが、自分が兵士として塗りつぶされない最後の抵抗なのかもしれなかった。
前を行く隊列はただ黙々と進む。蹄の音、革の軋む音、兵士の荒い息遣い。
祈りを背に受けたエドリックの胸には、重く、長い影が落ちていた。




