第6話 温かさの記憶
朝霧が晴れたころ、隊列は再び進み始めた。昨日と同じように蹄の音が土を叩き、革鎧の擦れる音が途切れなく続く。だが足取りは重く、顔つきはさらに暗かった。夜を野営で過ごし、冷えた土の上で眠った疲れが、若者たちの体に深く残っていたからだ。
エドリックは擦り剝けた踵に布を巻き直しながら歩いた。昨日よりも痛みは増しているのに、不思議と足はもう慣れ始めていた。慣れることそのものが恐ろしく思えた。
――戦場の道に馴染んでいく。戻るための道は遠ざかるばかりだ。
隣を歩くミロは口を噤み、額の汗を拭いもしなかった。唇はひび割れ、目はどこか焦点を失っている。
「……畑を耕してる方がよっぽど楽だったな」
そうぼそりと呟くと、返事を待つこともなく視線を落とした。
前を歩くロランは背を丸めず、安定した歩幅で進んでいた。弓と矢筒が彼の背に揺れ、森を歩く狩人の面影をかすかに残していた。だがその肩の奥に張り付いている影は、日ごとに濃くなっているように見えた。
列の端ではトマが苦しげに歩きながら、ふと呟いた。
「牛小屋の干し草の匂いが恋しいな。ここじゃ土と汗と鉄ばっかりだ」
その言葉に、オズワルが短く鼻を鳴らした。
「俺は川の音が恋しい。……魚は逃げても戻ってくるが、俺らはどうだろうな」
レナードは背の荷を直しながら低く言った。
「木の削れる音が聞きてぇ…黙って木と向き合ってる方がよっぽど楽だった」
そこでダリルが肩をすくめ、苦笑を浮かべる。
「なんだよ、みんな揃っていい匂いの思い出ばっかり語りやがって。俺なんざ粉袋の埃しか思い出せねえよ。けどな、この空気は粉よりよっぽど喉に悪い」
一瞬、列にかすかな笑いがこぼれた。だがそれはすぐに途切れ、彼の顔に浮かぶ青ざめた影がその場を支配した。冗談めかした声の裏に、隠しきれない疲労の色がにじんでいた。
七人それぞれの思いが、風に混じって消えていった。
***
「もうすぐ村がある。今夜は野宿じゃない」
行軍していた時に列の横を歩いていた革鎧の兵が答えた。初日の野営時に話しかけてくれた若い兵士だ。
声はぶっきらぼうだったが、彼もほんの僅かに安堵を含んでいた。
その言葉が列全体をわずかに揺らした。呻きのような吐息があちこちから漏れ、重い空気にかすかな緩みが走った。
***
昼過ぎ、列はようやく谷を抜けた。道の先には、瓦屋根と石壁の集落が現れた。小さな防壁に囲まれた村だったが、レンの村とは比べものにならないほど人も建物も多い。広場には干からびた噴水があり、周囲の家々は石造りで二階建てのものさえあった。
「……屋根だ」
ミロが息を呑んだ。
「屋根の下で眠れる……」
声は驚きと安堵が入り混じっていた。彼にとっては、それだけでも救いの兆しに思えたのだろう。
村の入り口では子どもたちが物陰から顔を覗かせていた。女たちは洗濯物を抱いたまま立ち止まり、恐る恐る兵の列を見ていた。
男たちは黙って視線を逸らし、家の影に身を引いた。兵士たちが村に入るときの空気は、祭りの賑わいとは正反対の、凍りついた沈黙に満ちていた。
隊長が号令を下した。
「今夜はここで休む。夜明けにはまた歩き出すぞ」
その言葉に、隊列全体から小さな吐息が漏れた。安堵というより、力尽きた体が勝手に声を洩らしたのだった。
***
七人は石造りの納屋に案内された。中はがらんどうで、床に藁が敷かれているだけだった。だが、屋根と壁があるというだけで天国のように思えた。
「土の冷たさがないだけで、こうも違うんだな……」とトマが呟き、藁に倒れ込んだ。
しばらくすると、革鎧の兵――昼間に声をかけてきた若い兵士が戸口に姿を見せた。手には木の椀が並び、そこから白い湯気が立ち上っていた。
「これを食え。具はほとんどないが、温かいだけでも違う」
受け取った椀の中には、塩気のある薄いスープが入っていた。
「……あったかい」
ミロが椀を両手で抱え、目を細めた。
全員に配ると兵士は短く頷き、また外へ出ていった。名前はまだ知らない。ただ、彼の背中に漂う気配に、ほんのわずかに人の温もりが残っていた。
椀の中には具と呼べるものはほとんどなく、澄んだ湯に油がわずかに浮いているだけだった。だが、立ちのぼる湯気は確かに温かさを宿していた。
オズワルは顎を掻きながら言った。
「魚の骨の出汁にだって勝るぞこれ」
ダリルは皮肉げに笑った。
「粉袋を抱えてた頃は、スープなんて腹の足しにならないと思ってたけどな。……今は涙が出そうだ」
レナードは無言で木椀の縁を見つめ笑顔を浮かべる。
「木も火も、人を裏切らない。……温かさってのは、それだけで力になる」
ロランは黙って一息で飲み干し、目の奥にわずかな柔らかさを宿した。
ミロも涙をこらえるように目を閉じ、一気に飲み干した。
エドリックも口をつけた。舌に広がったのは味ではなく、ただの「温かさ」だった。だがそれだけで、母が作ってくれたスープを思い出し、胸が締めつけられた。――あのときも具は乏しかった。ただ、母の手で温められた食事だったから心に沁みたのだ。
スープを啜るたび、それぞれの胸に「家の味」が蘇った。牛乳の甘さ、川魚の匂い、粉の舞う水車小屋、木片を削る香り。全員が沈黙しながらも、心の奥では家とつながる最後の糸を掴もうとしていた。
***
夜が訪れ、七人は藁に身を横たえた。屋根があるだけで体は守られているはずなのに、心は安まらなかった。
耳には仲間の浅い寝息と、外を行き交う兵士の足音が混じる。遠くからは酒に酔った兵士たちの笑い声や粗野な歌も響いてきた。鎧を叩く音が夜気に混じり、その響きは屋根の下まで届いた。藁に横たわる七人の耳には、それが夢と現実の境をかき乱す遠い雑音にしか聞こえなかった。
「エド……寝てる?」
暗闇の中で、ミロの声が囁いた。震えていた。
「僕たち本当に……帰れるのかな」
答えられなかった。声にすれば、希望を偽ってしまう気がしたからだ。
ただ目を閉じ、母の言葉を心の奥で繰り返す。
――心まで奪われちゃだめ。生きて、必ず戻っておいで。
藁の匂いは村と同じはずなのに、胸を刺すように苦く感じられた。眠ろうとしても眠れず、ただ長い夜が過ぎていくのを待つしかなかった。




