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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第一部 兵の風の中で
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第5話 七つの影

朝霧が晴れきらぬうちに、行軍は始まった。


蹄がぬかるんだ土を叩き、革鎧のきしむ音が連なって進んでいく。兵士たちは赤い旗を先頭に立て、谷を抜け、丘を越え、次の街道へと足を運んだ。


エドリックは列の中ほどにいた。背に槍を括りつけ、慣れない革靴がすでに踵を擦り剝いている。靴の中で血がにじみ、歩くたびにじくじくとした痛みが伝わった。


昨日まで畑を歩いていた足が、今日からは戦の道を歩いている。その事実がじわじわと胸に重くのしかかった。


横を歩くミロは顔を伏せ、唇を固く結んでいた。何度も息を荒げては、背中の荷を直し、また顔を伏せる。

ときおり「もう嫌だ……」という声が喉の奥からこぼれそうになるのを、彼は必死に噛み殺していた。


前方を歩くロランは無言だった。背は高く、肩幅も広い。弓と矢筒が揺れるたび、革紐のきしむ音が小さく響く。

彼の歩幅は安定しており、まるで森を歩いているときと同じように、一歩も乱れなかった。だがその後ろ姿に漂う影は、普段の狩人としての落ち着きとは違っていた。


「なあ……」


勇気を振り絞ったように、エドリックが声をかけた。


ロランは振り向かず、ただ耳を傾けるように首をわずかに傾けた。


「……怖くないのか?」


沈黙。だが、やがて低い声が返ってきた。

「怖くないわけがない。獣を狩るのとは違う。相手もこちらを狩ろうとする」


短い言葉だったが、エドリックの胸に突き刺さった。森で幾度となく矢を射た男の声に、動物を仕留めるときの冷徹さが混じっていた。

しかし同時に、その奥底には人としての恐怖が隠されているのを感じ取れた。


「……俺は父を探せるかもしれないと思った。けど、違った。あの人も同じように、こうして歩かされて……きっともう、どこかの土に倒れてる」


ロランは一瞬だけ振り返り、鋭い眼差しで少年を見た。だがすぐに前を向き、低く呟いた。

「父を思うのは悪くない。だが、それに縋ると折れる。……俺も家族を戦で失った。骨も帰らなかった」


その言葉に、エドリックは息を呑んだ。ロランが普段よりも重い影を背負っている理由が、その一言に凝縮されていた。


***


昼を過ぎると、太陽が容赦なく頭上から照りつけた。汗が背を伝い、乾いた土が喉を裂いた。足の痛みが増すたびに、エドリックは無言で歯を食いしばった。


そのとき、列の一角から声が上がった。


「おい、せっかくだ。顔と名前くらい覚えておこうぜ」


皮肉めいた声に皆の視線が向く。声の主は、痩せた肩を揺らしながら歩く青年だった。疲れの色を隠すように笑みを浮かべ、あえて軽口を叩いているのがわかった。


「どうせ同じ旗の下で死ぬかもしれねえんだ。それくらいは知っておいた方がましだろ?」


一瞬、列に沈黙が流れた。だが、彼の軽さが逆に重苦しい空気を破り、自然と自己紹介が始まった。


「ロラン。森の狩人だ。矢を射るなら任せろ」


「ミロ。畑ばかり耕してた。剣も槍も握ったことはない」

ミロは無理に笑おうとしたが、その声は震えていた。


「エドリック。ミロとロランと同郷だ。俺も農家だ」

喉が渇いて声が掠れていたが、彼はまっすぐに答えた。


青年は肩をすくめ、口の端を吊り上げた。

「俺はダリル。粉ひきの次男坊だ。粉袋を担ぐのが仕事だった。鎧の重さに慣れる日は来るのかね」


隣の列から、痩せた男が顎を掻きながら口を開いた。

「オズワルだ。魚を獲ってた。……魚は網で捕まえるもんだが、兵はどうやって捕まえりゃいいんだ」


さらに、若い少年が恐る恐る名を告げる。

「トマ……。牛飼いだった。牛の世話ならできるけれども、戦なんかどうすりゃいいんだ」


最後に、髭を生やした小柄な男が低く口を開いた。

「レナード。木工をしていた。椅子でも机でも作る方が性に合ってる。槍より斧のほうがまだ馴染むな」


七人の名が揃った。村も違えば仕事も違う。だが今は皆、同じ赤い旗に縛られた「兵」だった。


「七人か……」ミロが小さくつぶやいた。

「これで僕たちの仲間、ってことになるんだよね」


「仲間っていうより……共倒れかもな」

ダリルが肩をすくめて笑った。だが、その目には怯えが潜んでいた。


「おい、縁起でもないこと言うなよ」

トマが声を上げる。頬は赤く、必死に明るさを取り戻そうとしているのが分かった。

「俺たちが全員生き残れば、それでいいじゃないか」


「そうだな」オズワルが短く答えた。顎を掻きながら、低く唸るように続けた。

「生き残れれば、な」


その一言に、皆の口が閉ざされた。


レナードが静かに言葉を落とした。

「夢を語るのは自由だ。だが、夢を守るには……しぶとく生きなきゃならん」


彼の瞳は焚き火よりも暗く沈み、その奥には現状に対する諦めもあった。


***


日が傾くころ、列はようやく森の中の野営地に辿り着いた。開けた草地に兵士たちが火を起こし、鍋を掛け、鎧の紐を解く音が夜の訪れを告げる。


七人は一角に集まり、草の上に腰を下ろした。疲労で誰も笑わなかったが、互いの顔を見合わせるだけで不思議な安堵があった。


「俺は……帰ったら畑をやりたい」ミロが声を絞り出した。

「春に種を撒いて、秋に収穫して……それで十分だったんだ」


「俺は粉屋を継ぎたかったさ」ダリルが続ける。

「麦の香りで腹を満たす方が、血の臭いで吐くよりよっぽどましだ」


「俺は牛を増やしたい。牧草地を広げて、冬でも腹いっぱい食わせてやるんだ」

トマは必死に笑った。だが目尻は濡れていた。


オズワルは顎を掻き、低く呟いた。

「……川に戻りてぇ」


ロランは黙っていたが、やがてぽつりと漏らした。

「森に小屋を建てたい。もう誰も奪わない、俺だけの小屋を」


レナードが低い声で続けた。

「工房を持ちたい。椅子でも机でも、手をかけて形にすれば、百年は残る。戦で人を壊すより、物を残したい」


皆の視線が最後にエドリックへと集まった。


彼は唇を噛み、答えを探した。

「……父さんに会いたい」


その言葉は震えていたが、誰も笑わなかった。ただ、火の音と虫の声が夜の静けさを埋めていた。


七人は黙り込み、それぞれの夢と恐怖を胸に抱きながら、火の明かりを見つめていた。炎に照らされる影は七つ。地面に長く伸び、夜の闇と混ざり合って消えることはなかった。


やがて、吹き抜ける風が焚き火の煙を散らし、草の上に横たわる疲れた兵士たちの匂いを運んだ。革鎧の汗と鉄の錆の臭いが入り混じり、村の匂いとはまるで違っていた。


「……寝られるもんじゃないな」ダリルが仰向けに寝転び、空を見上げてぼやいた。

「星はいつもと同じなのにな。粉袋担いでた頃は、明日があるのが当たり前に思えてた」


「俺は眠れる」ロランが目を閉じたまま低く答えた。

「狩りの前の夜も同じだ。眠らなければ、翌朝に矢はまっすぐ飛ばない」


「すごいな……」トマが感心したように呟いたが、その声はどこか子どものように怯えていた。彼は両腕を胸の上で組み、まるで牛の群れの中にいるかのように身を縮めていた。


オズワルは顎を掻きながら火の中を見つめ、吐き捨てるように言った。

「眠っても、目を覚ましたら戦場にいるんだろう。夢なんか見たくねえ」


その言葉に誰も返さなかった。だが、沈黙は不思議と孤独を薄めていた。焚き火を囲んで座るうち、互いの吐息や衣擦れの音が心を支えていた。


レナードがふと、木片を取り出して短い刃で削り始めた。パリパリと乾いた音が火の合間に響く。


「落ち着くんだ、これをしてると。木は裏切らない。ただ削れば形になる」

その小さな欠片は椅子の脚にも机の端にもならない。ただの木屑にすぎない。だが、その手つきには確かな温もりがあった。


エドリックはそれを見つめながら、母の言葉を思い出していた。――心まで奪われちゃだめ。


焚き火の火の粉が夜空に舞い、闇に吸い込まれていった。

彼は小さく息を吸い、胸の奥に誓いを刻んだ。

――どんなに長い行軍が待っていようとも、心だけは失わない。


夜はゆっくりと更けていく。疲れ果てた兵たちのいびきが森に溶け、遠くで梟の声がした。赤い旗は焚き火の向こうで影となり、裂け目を風に揺らしながら、不吉な影を地面に落としていた。


七人はまだ互いを「仲間」と呼ぶには早すぎた。けれどもこの夜、彼らは初めて同じ夢と同じ恐怖を抱き、ひとつの焚き火の下で過ごしたのだった。


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