第4話 出立
夜明け前、村は深い霧に包まれていた。山の裾をなぞるように白い靄が流れ、藁葺き屋根を覆い隠している。鶏はまだ声を潜め、犬も吠えなかった。ただ、兵士たちの馬が吐く鼻息と、蹄が石を踏む低い音だけが、夜と朝の境を揺らしていた。
エドリックは寝台の藁の上で目を開けていた。眠れなかった。まぶたを閉じれば、赤い旗の裂け目と、母の叫びが繰り返し浮かんできたからだ。心臓は夜通し打ち続け、いまもなお胸を叩いている。
昨日までの自分の夢想――「父に会えるかもしれない」――はもうどこにもなかった。代わりにあるのは、どこまでも冷たく広がる道と、血と鉄の匂いに包まれた未来だけだ。
「……起きているのね」
戸口の隙間からアグネスの声がした。彼女の手には、粗末な布に包まれた干し肉と黒いパンがあった。
「少ししか持たせられないけれど、道の糧にはなるはず。……どこまで行くことになるのか、わからないけれど」
アグネスの目は赤く腫れていた。夜のあいだ泣き続けたのだと、言葉にしなくても分かった。エドリックは受け取った包みを見つめ、喉が焼けるように熱くなった。
「母さん……」
言葉が続かなかった。口を開けば涙が溢れ出してしまうと思った。
アグネスは震える手で息子の肩を掴んだ。
「エド……忘れないで。どこに行こうとも、あんたはここで生まれて、ここで育った子なんだよ。剣を持たされても、心まで奪われちゃだめ。……生きて、必ず戻っておいで」
彼女の声は掠れ、最後は祈りのように震えていた。
***
外に出ると、村はまだ薄闇に沈んでいた。だが、礼拝堂前にはすでに兵士たちが集まり、赤い旗が霧の中で揺れていた。広場には村人たちも集まっている。誰も声を上げない。見送るというより、ただ絶望を確かめるために立っているように見えた。
ミロが姿を現した。顔色は青ざめ、唇を固く結んでいる。その手は震えていたが、彼は無理に笑みを作った。
「……なあ、エド。僕たち、本当に行くんだな」
その声には冗談の響きはもうなかった。
ロランはすでに兵士の列の脇に立ち、弓を背負い、矢筒を握りしめていた。普段なら自信に満ちた眼差しの狩人だったが、その瞳は曇り、ただ霧の向こうをじっと見ていた。
「整列しろ!」
隊長の鋭い声が霧を裂いた。三人は前へ進み、兵の列に並ぶ。村人たちは小さくすすり泣き、祈りの言葉を口にしていた。鐘が再び鳴り、村の空気を震わせた。
エドリックは深く息を吸った。冷たい霧が肺を満たし、胸の奥まで凍りつかせた。
――これが、始まりなのだ。
彼の背に、母の視線が突き刺さっていた。
***
「進め!」
隊長の号令が響き、兵士たちの鎧が軋んだ。蹄の音が石畳に重く落ち、霧の中で鈍く反響する。赤い旗が前方で揺れ、裂け目から覗く糸が風に震えていた。
エドリックは列の中に押し込められるように歩き出した。足は重く、地面に縫い付けられたように動かない。けれど背後から押し寄せる兵士の気配に抗うことはできなかった。
「エド……!」
振り返ると、アグネスが両手を胸に組み、涙で顔を濡らしていた。兵士に腕を掴まれ、それ以上前へは出られない。だが、その目だけは必死に息子を追いかけていた。
エドリックは唇を噛みしめ、言葉を呑み込んだ。何かを叫びたかった。だが、声にすれば心が砕けてしまう。彼はただ小さくうなずき、母の視線を受け止めた。
ミロは隣で顔を背けていた。彼の肩は震え、拳は固く握られている。呟く声が風に溶けた。
「……逃げられないんだね、やっぱり」
ロランは一歩先を歩き、表情を変えず前を見据えていた。その背は大きく、頼もしさを漂わせていたが、その沈黙は重く、胸の奥に張りついた絶望を隠しているようでもあった。
村人たちは広場の両脇に並び、誰も声を上げなかった。祈りの言葉も、別れの言葉も、喉の奥で凍りついていた。子どもたちは母の裾にすがり、老人は杖にすがって震えながら見送った。
その沈黙の中で、エドリックはようやく悟った。
――これは帰りを約束された旅ではない。
自分は今、村の一員として送り出されているのではなく、「兵」という名の犠牲として差し出されているのだ。
昨日まで、父に会えるかもしれないと夢想していた。その幼い希望は霧の中で消え去り、胸に残ったのはただひとつの恐怖だった。もし父と再会するときが来るとしても、それは生者の抱擁ではなく、血と泥の中での再会に違いない。
「歩け!」
隊長の叱声が背中を突き、列が動き出した。エドリックは一歩、また一歩と足を運んだ。背後で母の声が震えていた。
「エド……生きて……!」
その声はすぐに兵士の足音と蹄の響きに呑み込まれた。
***
村を出る坂道を上ると、谷の全景が背後に広がった。藁葺き屋根の小さな家々、粉屋の水車、黒い土をさらした畑、礼拝堂の鐘楼。すべてが靄に霞み、遠ざかっていく。
エドリックは振り返り、最後にその景色を目に焼きつけようとした。そこには自分のすべてがあった。父が耕した畑、母が祈った礼拝堂、ミロと駆け回った丘。
けれど兵士の列は止まらない。谷を離れるたびに、その景色は小さく、淡く、やがて霧に呑まれて消えていった。
エドリックは深く息を吸った。肺に入るのは、もう村の匂いではなかった。鉄と汗、そして戦の風の匂いだった。
***
日が傾き、森の端に野営地が設けられた。開けた草地に兵士たちが手際よく火を起こし、鍋を掛ける。命令は飛び交い、鎧の紐を解く音が夜の訪れを告げていた。
その一角に、別の列が合流してきた。痩せた馬に揺られ、足を引きずる者もいる。彼らもまた近隣の村から徴募されたばかりの若者や男たちだった。
靴底が破れ、藁を詰めて歩く者。爪の隙間にまだ畑の土を残す者。彼らは皆、疲れ切った顔で互いに視線を交わし、草の上に崩れるように腰を下ろした。
「おい、新入りはこっちだ」
声をかけた兵士は、鎧もまだ革製で、金具は新しく光っていた。
顔立ちは若く、口元には村人だった頃の柔らかさがわずかに残っている。
「……俺たちも最初はそうだった」
彼は一瞬言葉を切り、視線を落とした。
「しばらくは冷たい草の上で我慢しろ。慣れるしかない」
吐き捨てるように聞こえたが、その声には自分の過去を思い返すような、微かな優しさが混じっていた。
エドリックたちは指示された場所に腰を下ろし、水とわずかなパンを受け取る。
誰も多くを語らない。
歩き詰めの脚がじんじんと熱を帯び、耳の奥ではまだ、村の鐘が遅れて鳴っている気がした。
焚き火の向こうで、隊長と側近だけが鉄の胸当てを外し、無言で地図を眺めていた。他の兵たちは革鎧のまま、刃こぼれした槍や剣を点検している。ひとりが砥石を滑らせるたび、冷たい音が闇に細く延びた。
――彼らもまた、どこかの村からここへ来たのだろう。
そう思うと、炎に照らされた横顔が、見知らぬ誰かの面影と重なった。いつかの自分たちの姿にも。
母の声が、耳の奥で灯のように揺れた。
――忘れないで。心まで奪われちゃだめ。……生きて、必ず戻っておいで。
エドリックは硬いパンを噛みしめ、夜空を仰いだ。星は薄く、風は冷たい。火の赤は地面に影を引き、どこまでも長く伸びていく。
夜は静かに、しかし容赦なく、更けていった。




