第37話 予想外と提案
森の夜は静かに過ぎていった。
焚き火はすでに小さな赤い芯だけを残し、見張りの交代を告げる声がかすかに響く。
誰も大きな音を立てず、火の気を絶やさぬように枝をくべる。
風は冷たく、夜露が肩を濡らした。
ミロが最初の見張りに立ち、やがてオズワルと交代し、夜明け前にはレナードが立った。
エドリックは二度目の番を任され、焚き火のそばで静かに空を見上げていた。
頭上の木々の隙間から、星がひとつずつ薄れていく。
やがて森の向こうが青く染まり始めた。
鳥のさえずりが戻り、夜の冷たさが少しずつ和らいでいく。
朝が来た――その当たり前の事実が、なぜか胸に沁みた。
今日という日が、自分たちにとってどんな日になるのか。
戦いの始まりは、もう遠くない。
やがて、レナードの低い声が響いた。
焚き火の赤い残り火を見つめながら、彼は近くにいたミロへ声をかける。
「ミロ、全員を起こせ」
「了解」
ミロはすぐに立ち上がり、仲間たちの肩を軽く叩いて回った。
トマが伸びをしながら上体を起こし、続いてダリルとロランが起きる。
「よく寝た気がしねぇな……。風がずっと耳の奥で鳴ってた」
「森の夜はそういうもんだ」オズワルが答え、手早く荷をまとめる。
朝の森は澄みきっていた。
木々の間から差し込む光が霧を透かして白くきらめき、湿った土の匂いが立ちのぼる。
昨夜までの緊張が少し遠のき、空気の中に新しい一日が息づいていた。
「……いい天気だな」
ダリルが空を見上げる。
青く広がる空に、白い雲がゆっくり流れていた。
ミロも見上げて、少し眉を寄せる。
「うん、晴れすぎてるかも。隠れるにはちょっと不向きだね」
レナードが頷いた。
「そうだな。敵に見つかりやすい分、こちらの足を早くしよう」
ミロが地図を広げ、跪いて風でめくれそうになる端を押さえた。
レナードがその隣にしゃがみこむ。
「ミロ、ルートはどうする?」
「昨日話した通りでいいと思うよ。北の小川沿いを行けば早いけど、開けてるぶん危ない。
森の中を抜けるなら少しかかるけど、安全に進めるはずだ」
レナードは地図を見つめ、しばらく考え込んだ。
「……途中の尾根道は避けよう。森の中を進む。速度を落としても確実を取る」
「了解。じゃあ森ルートで決まりだね」
ミロはにっと笑い、軽く拳を握る。
「ちょっと道は悪いけど、僕たちなら大丈夫だよ」
その間、残りの仲間たちは出発の支度を進めていた。
トマは鍋の残りを確認し、灰をかき混ぜて火の跡を完全に消す。
ロランは昨夜の野ウサギの骨をまとめて布に包み、茂みに埋めた。
ダリルは足元の地面をならし、焚き火の痕跡をわからなくする。
オズワルは槍の穂先を磨き、金属の鈍い光が朝日に淡く反射した。
「よし、片付け完了」
トマが手を払って立ち上がる。
焚き火の跡は、まるで初めからそこに何もなかったかのようだった。
レナードが全員を見渡し、短く息を整えた。
「……行くぞ。出発だ」
「了解」ミロが即座に返し、前へ出る。
彼の背中に、エドリックたちが続いた。
木々の合間を抜け、足元に差す朝の光が動くたび、鎧の金具が微かに光る。
鳥の声と遠くの川のせせらぎが重なり、森の静けさを縫うように進む。
その穏やかな音の中に、近づく戦いの気配が混じっていた。
エドリックは歩きながら、昨夜のミロの言葉を思い返していた。
――「次に続く者が、再び剣を取らずに済むようにすること」
あの言葉が胸の奥で静かに熱を帯びていく。
足元には朝露が残り、草が音を立てて折れる。
光と影が交互に揺れ、森の奥がゆっくりと開けていく。
廃村はこの先――その思いが、皆の歩調を自然と速めた。
風が南から吹き抜けた。
冷たくも清らかなその風が、どこかで始まろうとする戦いの匂いを運んでくるようだった。
エドリックは無意識に拳を握り、顔を上げる。
(行こう。俺たちの足で、この戦いの先へ――)
列は静かに進み出した。
朝の光の中、七人の影が長く森の地面に伸びていく。
その先に待つのが勝利か、死か。
誰も言葉にはしなかったが、誰も立ち止まらなかった。
――戦いは、すぐそこまで迫っている。
***
太陽はすでに天頂を過ぎ、森の影がゆっくりと長く伸びていった。
昼の光が木々の間を淡く抜け、鳥たちの声も次第に遠のいていく。
七人は休憩を挟みながらも、ほとんど止まらずに歩き続けていた。
空気が変わり始めたのは、日が傾きはじめたころだった。
風の流れがわずかに冷たく、乾いた匂いの中に人の気配のようなものが混じる。
ミロが歩を緩め、前方へと視線を送った。
「……そろそろ、味方の斥候との合流地点だ」
その声は落ち着いていたが、いつもの柔らかさの裏に緊張の色がある。
エドリックをはじめ全員が自然と口を閉ざし、周囲への警戒を強めた。
森を抜ける風が、鎧の縁をかすかに鳴らす。
前方の茂みが小さく揺れた。
レナードが一歩前に出て、低く問う。
「……味方か?」
「待って」ミロが片手を上げ、耳を澄ませる。
次の瞬間、短い口笛が森の奥から返ってきた。
それは味方の斥候同士が使う合図だった。
ミロが小さく息を吐き、頷く。
「味方だ。少し行ってくる」
レナードが短く返す。
「わかった。慎重に行け」
「了解」
ミロは身軽に地を蹴り、音を立てずに木々の間へ消えた。
残された六人はその場で待機し、武器を軽く構えたまま周囲に目を光らせる。
風が止み、森全体が息を潜めたように静まり返る。
やがて、木の葉をかすめるような足音とともに、ミロが戻ってきた。
その表情には、少しだけ焦りの色が混じっている。
「レナード、ただいま戻ったよ」
「どうだった?」レナードが問う。
ミロは息を整えながら、落ち着いた声で答えた。
「すぐ先に廃村がある。そこに盗賊が潜んでるのは確かだよ。でも……人数がちょっと違ってた」
レナードが眉をひそめる。
「違う?」
「うん。事前の情報じゃ二十人前後って聞いてたけど、実際は三十四人みたいだ」
隊の空気が一瞬で張り詰めた。
「理由は?」
「斥候の話だと、ここから十分くらいの場所に洞窟があるらしい。
そこも盗賊のねぐらになってるって。廃村と合わせると三十四人になるそうだ」
言葉を終えたミロは、レナードとオズワルを見た。
「……レナード、オズワル。どうする?」
ミロの声は落ち着いていたが、どこか張りつめた響きを含んでいた。
夕日に照らされた地図の上で、レナードが沈黙する。
その目は真っ直ぐに線を追い、唇がわずかに動いた。
「数が約倍か……」
短くつぶやいた声には、冷静さと同時に焦りがにじむ。
オズワルが腕を組み、低くうなる。
「三十人以上ともなれば、正面戦闘は難しいな。数で押される」
トマが息をのんだ。
「予定と大きく数が違うね…」
「どうする?」
ダリルが問う。声には不安が混じっている。
レナードがしばらく沈黙し、地図に視線を落とした。
やがて、落ち着いた声で口を開く。
「……任務を続行する。そして敵の排除を進める。
まずは廃村から攻める。だが、真正面からぶつかるのは避けたい」
ミロはすぐにうなずく。
「うん。ロランとダリルが遠距離で援護する。できるだけ人が少ない所を狙って、少しずつ盗賊の人数を削っていこう」
「どうやって?」トマが眉をひそめる。
ミロは落ち着いて答えた。
「最初は見張りを遠距離で無力化するんだ。ロランの弓とダリルのスリングで外から抑えて、相手に知らせるのを遅らせる。そうしてから、近接に強いレナードとトマが静かに家へ入り、寝ている奴らを狙う。
昼間にやるのは無謀だけど、夜遅くて寝静まっている時間なら勝算が上がるよ。見張りがやられていれば奇襲をされていることに気がつくまでに時間がかかる」
ミロは少し息をつく。
「見張りや離れた盗賊はロランとダリルに任せて、家の中にいる連中は暗殺に近い形で片付ける」
全員が頷いた。
ミロは続ける。
「できるだけ音を立てずに仕留める必要がある。もちろん、僕もレナードとトマと一緒に廃村に侵入するよ」
ミロは周囲をぐるりと見渡す。
「廃村には古びた家があって、斥候の聞き取りでは三人ずつ固まっている。
昼間は五人以上で動くこともあるけど、夜は多くても二人程度だ」
ミロは地図の上で指を滑らせながら続ける。
レナードが短く返す。「なるほど…」
ミロは頷く。そして続ける。
「エドとオズワルは侵入には加わらないでほしい。二人には廃村と洞窟を繋ぐ道を見張ってもらう。見張りの交代や取り逃がしがあっても、そこで仕留めれば警戒は広がらない」
エドリックは短く頷いた。オズワルも無言で槍の柄を叩き、自身の理解を示す。
「よし」とレナードが締めた。
「役割は明確だ。だが、まずは現地の確認を行う。廃村に今何人いるのか、遠距離攻撃の位置はどこか、エドリックとオズワルの見張り位置はどうするか。まだ夕方だ。時間はある。全て確認し、問題がなければミロの案を実行する」
レナードは続ける。
「みんなも何か案があればどんどん出せ。細かなことでも構わない。自分の配置を探し、確認してからでもいい。各自行動開始だ」
七つの影が一斉に動き出す。
風が冷たくなり、森の奥に夜の匂いが漂い始めた。
闇が、静かに彼らを包もうとしていた。




