第36話 決意の夜
夕方になった。
砦の影が長く伸び、石畳をかすめる風が冷たさを帯びている。
七人は、それぞれの準備を終え、門の前に集まっていた。
誰も言葉を発しない。革鎧の留め具が鳴る音と、革靴の軋む音だけが、静かに空気を満たしていた。
レナードが前に出る。
「行くぞ。ミロ、先導を頼む」
「了解」
短く答えたミロが、門の方へ歩き出す。
その背中を追い、全員が列を整える。
門番の見張りが姿勢を正し、彼らに敬礼を送った。
レナードが軽く右手を上げて応え、続いて小隊の面々もそれぞれ敬礼を返す。
重い門が軋む音を立てて開かれ、淡い夕陽が砦の外を照らし出した。
その光を受けながら、一行はゆっくりと砦を後にした。
門を抜けたところで、エドリックはふと足を止め、振り返った。
見張り台の上――ガレスが立っていた。
風に揺れる外套の下で、彼は静かに頷いている。
エドリックも深く頷き返した。言葉はなかったが、それで十分だった。
砦を離れ、森の入り口へと近づく。
地面の感触が石から土に変わり、空気がわずかに湿りを帯びる。
夕暮れの森は、昼の名残を抱いたまま、夜へと沈もうとしていた。
梢を渡る風が、夕焼けの名残を含んだ暖かな光と、夜の冷たい気配を一緒に運んでくる。
葉の一枚一枚がその光を受けて揺れ、淡い輝きを放った。
遠くでは鳥の鳴き声が細く響き、代わりに虫の羽音が近くへ寄ってくる。
空は西の端だけが金色に染まり、あとは薄紫の静寂が森を包んでいた。
その空気の変化に、誰もが自然と口を閉ざした。
足音が柔らかくなり、呼吸の音さえも慎重になる。
ミロが振り返る。
「夜遅くなるまでに水辺まで行かないと迷ってしまう。少し速度を上げるよ」
「わかった」レナードが短く応え、全員がうなずいた。
走るほどではないが、足取りは速くなる。
落ち葉を踏みしめる音が、夕暮れの森に一定のリズムを刻んでいた。
***
森の中は、夕陽の名残を抱いたまま、ゆっくりと夜の気配へと沈んでいった。
高く伸びた木々が風に揺れ、枝の隙間から漏れる光が地面にまだら模様を描いている。
踏みしめるたびに、湿った土と枯葉が柔らかく沈み、靴底に音を吸い込んだ。
先頭を歩くミロが、時折立ち止まって周囲を確かめる。
「ここから先は斜面になる。足元、気をつけて」
低い声に、全員が短くうなずいた。
森の奥へ入るほど、空気はひんやりと変わり、肌に触れる風が静かに冷たい。
「……静かだな」
ダリルがぽつりと呟く。
「それが一番怖いんだよ」トマが軽く笑いながらも、声には緊張が滲んでいた。
その会話がすぐに消えて、また葉擦れの音だけが残る。
やがて木々の隙間から、わずかに光が揺れた。
ミロが振り返る。
「もう少しで水辺だ。あと少しだけ歩こう」
その言葉に、疲れが滲み始めていた一行の表情が少し引き締まった。
エドリックは背の荷を直しながら、足元の影を見つめた。
(……あの砦を出て、まだ数時間しか経っていないのに)
森の匂いも、空気の重さも、すべてが違って感じられた。
ここには訓練の延長ではない、本物の“戦場”の空気が漂っている。
「エドリック」
オズワルが後ろから声をかけてきた。
「歩幅を合わせろ。焦ると足を取られるぞ」
「……わかってる」
返事をすると、オズワルがわずかに笑った。
「そうだ。それでいい」
風が吹き抜け、木々が一斉にざわめく。
その瞬間、森の奥で鳥が一羽、低く鳴いた。
誰も言葉を発しなかったが、全員が自然と警戒の姿勢を取る。
ミロが小さく手を上げ、耳を澄ませた。
「……大丈夫だ。風が枝を揺らしただけだ」
息を詰めていた空気が、ゆっくりと解ける。
しばらく歩くと、木々の間に広がる薄青い光が見えた。
やがて視界が開け、そこには小さな水辺があった。
月明かりが水面を静かに照らし、風に揺れる波が淡くきらめく。
森の中では虫の声が遠く重なり、夜の冷たい空気が肌を撫でた。
「ここを今夜の拠点にしよう」
ミロの声が静寂を破る。
レナードが周囲を見渡しながら頷いた。
「ロラン、ダリル。周囲を見てきてくれ。危険がないか確認してほしい」
「了解」二人が即座に駆け出す。
「オズワル、火の準備を頼む。枝が集まり次第、火を起こしてくれ」
「任せろ」オズワルは短く答え、火打石の入った革袋を確かめた。
「トマ、食料の確認と今夜分の準備を頼む。明日の朝食分も、できればまとめておいてくれ」
「了解。乾燥肉と穀粉を使う」トマは腰の袋を確かめ、焚き火予定地のそばで手際よく仕分けを始めた。
「ミロ、現在位置の確認を頼む。地形図と照らし合わせて、夜明けに進む方角を確認しておいてくれ」
「了解。エド、一緒に見てくれる?明日の進軍ルートを詰めたい」
「わかった」
レナードは少し間を置いて、俺――エドリックにもう一度視線を向けた。
「その前に、燃えやすい木を探してくれ。乾いた枝を中心にな」
「了解」
エドリックは返事をし、すぐに動き出した。
地面に散らばる枝を踏み分け、手触りを確かめながら乾いたものを選んでいく。
夜気が冷たく、遠くで虫の声がかすかに響いた。
焚き火の場所に戻ると、オズワルが膝をつき、火打石を構えていた。
「いい枝を見つけたな。助かる」
「こっちも準備完了」ミロが地図をたたみながら答える。
彼の目は夜の中でも落ち着いていて、まるで暗闇に慣れた斥候のようだった。
オズワルが火打石を打つ。
カチッという音とともに火花が散り、やがて小さな橙の光が枝先に灯る。
炎は息を吹き返すように広がり、夜の闇をわずかに押し返していった。
「……いよいよだな」
オズワルが低くつぶやく。
エドリックは木束を脇に置き、焚き火の光を見つめながら頷いた。
「うん。でも、みんながいれば、きっとやれる」
オズワルがわずかに笑う。
「その言葉、忘れるなよ」
火の粉が舞い上がり、夜の森に溶けていった。
上空では雲が流れ、月が木々の隙間から顔を出す。
その光が焚き火と重なり、一行の影を静かに揺らした。
森の奥では虫の声がかすかに重なり、焚き火のはぜる音だけが夜を刻んでいた。
その穏やかな音が、やがて仲間たちの笑い声や小さな会話に溶けていく。
焚き火の炎がぱちりと弾けた。
火の粉が夜気に溶け、冷えた空へ消えていく。
周囲は森の闇に沈み、わずかに揺らめく炎だけが仲間たちの影を照らしていた。
***
その時、茂みをかき分ける音がして、ロランとダリルが戻ってきた。
「戻ったぞ。周囲、異常なし」
ロランが報告するが、その肩には小さな獲物――野ウサギのようなものがぶら下がっていた。
「……おい、まさか見回りの最中に狩りか?」オズワルが呆れたように声を上げる。
ロランは平然とした顔で答えた。
「足音を殺して歩いてたら、ちょうど出くわしてな。動きが鈍かったもんで、つい」
オズワルが吹き出す。
「はは、まったく……お前の狩人としての癖は治らねぇな」
「悪い癖だと思ってないけどな」ロランが肩をすくめると、周囲に小さな笑いが生まれた。
重かった空気が一瞬だけ軽くなり、誰かが息をつく音が聞こえた。
ダリルがその獲物をトマの鍋のそばに置く。
「煮込みにでも使えるか?」
「助かる。一気に贅沢になるぞ」トマが笑い、鍋の中を木杓子でかき混ぜる。
香ばしい匂いが広がり、冷たい夜気に混じって漂った。
オズワルは焚き火の脇で槍の穂先を研ぎ、レナードは少し離れた場所で周囲に目を配っている。
焚き火の音が、夜気の中で一定のリズムを刻んでいた。
ミロと俺は、少し離れた場所で進軍ルートの確認をしていた。
地図の端を押さえながら、ミロが指先で一点を示す。
「廃村の位置はこの線の北側、森の奥だ。すでに斥候班の見張りが交代を待っている。」
「ここからなら、明日の夕方には到着できそうだな」
「そうだね。ただ、途中の林道が崩れているって報告があった。川沿いの小道を使えば早いけど、視界が悪くなる」
「危険を避けて回るより、まっすぐ進んだ方がいいかもしれない。森の中なら音も隠れる」
「……同感。最終判断はレナードに任せよう」
地図をたたみ、互いに頷き合った。
しばしの沈黙。焚き火の音がその隙間を埋めていく。
火の明かりが枝の影を揺らし、森の奥では梟が短く鳴いた。
トマとダリルの笑い声がかすかに聞こえ、緊張の中にもわずかな安らぎがあった。
ミロが小石をつま先で転がしながら、笑みを浮かべた。
「エド。久しぶりだね。あんまり話してなかったから、話したかったんだ」
「……ああ。ミロがずっと任務に出てたのは、正直寂しかったよ」
「そうなのかい?ずいぶん素直じゃないか」
ミロが小さく笑い、焚き火の光がその頬を照らした。
二人の間に再び静けさが降りた。
風が梢を揺らし、葉の擦れる音が重なっていく。
その風の匂いに、ふと懐かしさが混じっていた。
「……レンの村を思い出すな」
エドリックがつぶやく。
ミロは少し目を細めて頷いた。
「あの村の夜は、風の音と牛の鈴しか聞こえなかった。屋根の煙突から上がる煙も、いつも真っすぐだった」
「干し草の匂いと、暖炉の薪の音……。あの頃は、それが平和だってことにも気づかなかったな」
「うん。戦の音がないことが、どれだけ幸せだったか」
焚き火の灯が二人の影を重ね、淡い橙が地面に揺れた。
「……なあミロ、少し相談があるんだ」
「なんだい?」
「ルガン隊長やガレスが村に徴募に来た時……俺たち、怯えてたよな?」
「……ああ。怖かったさ。何もわからないまま、大人の決めた戦場に連れていかれるような気がしてた」
「俺さ、あの時、父さんに会いたかった。理由なんてそれだけだった。
でも母さんに、『戦に心まで奪われちゃだめ』って言われたんだ。
それなのに今は、国や仲間、故郷を守るためにまた人を殺そうとしてる……
それを当たり前に受け入れている自分がいる……」
エドリックはため息をつき、焚き火を見つめた。
小さな炎が木々の影をゆらりと揺らす。
「これって……もう戦に心まで奪われてるのかな」
ミロはしばらく黙っていた。
森の奥で風が通り抜け、遠くの枝が軋む。
焚き火の光が彼の横顔をかすかに照らす。
「……僕の考えだけれど、いいかな?」
「もちろん」
「心まで奪われるっていうのは、誇りを失って、人を殺すことに何も感じなくなった時だと思う」
焚き火の炎が揺れ、二人の影を長く伸ばした。
その光がまるで、言葉の余韻を静かに包み込むようだった。
ミロは小さく息を吐いた。
「……ここに来るまで、僕たちの世界はレンの村と隣の村だけだった。でも砦に来るまでに、みんなに出会った」
炎の向こうで、仲間たちが笑っている。
その姿を見ながら、ミロは続けた。
「参謀が座学を開いて、国の現状を教えてくれた。
でもあの時、僕は……参謀を疑ってたんだ。僕たちを洗脳しようとしてるんじゃないかって」
エドリックは目を丸くした。
「そんなこと、考えてたのか?」
ミロは苦笑した。
「うん。……今なら、笑えるけどね」
彼は少し間を置き、火の粉を見つめた。
「みんなと離れたあと、同じ任務についていた斥候班の先輩に相談したことがあったんだ」
***
『確かに徴募された側からすると気持ちはわかる。でも俺は志願だぞ?』
焚き火の明かりに照らされたその先輩の顔は、穏やかで、どこか達観していた。
『俺も商人として働いていたけど、現状は分かってたさ。だが王都から離れた田舎には戦争の情報はなかなか届かねえ。だからそう考えるのも無理はない』
『……それでも、納得できない気持ちがあって』ミロが言うと、先輩は少し笑った。
『だが今、お前は国の現状を知った。だったら、故郷を守るためにできることをするべきだ。王都の近くの村や町じゃ、志願兵が増えてるらしい。前に報告に行った仲間が言ってた。間違いない』
その言葉は静かだったが、妙に心に残った。
***
「……それからだな。疑うより、考えるようになったのは」
ミロは目を細め、焚き火に手をかざした。
「信じるって言葉は、あの時はまだ重かったけど……今は少し、意味が分かる気がする」
エドリックは黙って聞いていたが、やがてうなずいた。
「……そうだよな。俺は心を奪われてなんかいない。
むしろ、みんなと戦うことに……誇りを持ってる」
言葉にしてみると、不思議なほど胸の中が澄んでいく。
重く絡まっていた何かが、静かにほどけていくようだった。
ミロはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「もちろん。人を殺すことは、どんな理由があっても良いことじゃない。でも、みんなを守るためには、誰かがやらなきゃいけない。これまでも、僕たちが知らない場所でそれはずっと行われてきた。
……ただ、それが今、自分たちの番になっただけだ」
ミロは少し間を置き、焚き火を見つめた。
炎の明かりが彼の瞳に映り込み、まるでその奥に別の光があるように見えた。
「前に参謀が言っていたよね」
焚き火が小さくはぜる。
ミロは静かに言葉を紡いだ。
『戦場に立つ者の使命は、ただ生き延びることではない。
次に続く者が、再び剣を取らずに済むようにすることだ。
――それこそが、戦を終わらせる唯一の道だ』
「……だから、僕たちはそれを次にさせないようにするんだ」
その言葉は、炎よりも熱く、けれど静かに心の奥へ沁み込んでいった。
エドリックは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
胸の奥に溜まっていた迷いが、夜気の中へ溶けていった。
(……俺は、間違っていない)
そう思うと、心の中に小さな光がともった気がした。
「おーい、二人とも!」
トマの声が焚き火の向こうから響いた。
「飯ができたぞ!ロランが野ウサギを狩ってきて、ダリルが捌いてくれた。
食堂で食べるよりも全然贅沢なスープだぞ!」
ミロが苦笑した。
「……カイさんに知られたら、大目玉だな。声大きいよ」とボソッと呟く。
エドリックは思わず笑う。
「はは、間違いないな」
二人は立ち上がり、火の明かりの方へ歩き出した。
近づくほどに、肉と香草の匂いが濃くなっていく。
温かい湯気が立ちのぼり、森の冷たい空気の中で柔らかく広がった。
焚き火の輪の中には、仲間たちの笑顔と、確かな生の気配があった。
その光景を見つめながら、エドリックは静かに思った。
この夜を越えても、きっと前に進める。




