第28話 休息の訓練
砦の食堂に着いたときには、もう朝の鐘からずいぶん時間が過ぎていた。
それでも中は意外と賑わっていた。
列をなす兵たちの声、椀のぶつかる音、湯気と香ばしい匂い。
昨日の血と煙の記憶が、ほんの少し遠くに感じられるほどに、そこには人の気配があった。
七人が入り口をくぐると、見覚えのある顔が何人かこちらに気がついた。
同じ徴募兵の槍兵や剣兵たちだ。隊は違えど、共にこの砦に送られた仲間たち。
「おはよう」
「おはよう」
それだけのやり取りだった。
いつもの朝の光景――ただ、見慣れた人数が少し足りない。
部屋で寝ているのか。それとも、昨日の戦いで……。
誰も言葉にしなかったが、一瞬、空気がわずかに沈んだ。
けれど、その短い挨拶の中に、確かに生きているという実感がにじんでいた。
そのことだけで、胸の奥にわずかな温かさが広がる。
厨房の列に並び、木の皿とスープ椀を受け取る。
パンと薄いシチュー、少しの野菜――いつもの朝の食事だ。
それでも、手の中にある温かさが妙にありがたく思えた。
ガレスを残し、七人が先に卓につく。
ざわめきの中でも、皆どこか遠慮がちに匙を動かした。
沈黙ではない。ただ、言葉よりも空腹の方が素直だった。
少しして、ガレスがやってきた。手には包まれた布袋をひとつ。
そのまま七人の前に腰を下ろすと、いつもの厳しい声で言った。
「これはお前らへのねぎらいだ」
布を開くと、厚切りのベーコンが現れた。
脂がまだ温かく、香りがふわりと広がる。砦の食堂では滅多に見ないごちそうだった。
ガレスは無造作に、それを一枚ずつ七人に配っていった。
「普段は手に入らん。昨日の働きがあったからだ」
ダリルが目を丸くし、次の瞬間には大声を上げた。
「ありがとうございます!!」
その声に、近くの卓が一斉に静まる。数人がこちらを振り向いた。
すぐさま、ガレスの低い声。
「……食堂では静かにしろ」
ぴたりと口を閉じたダリルの肩がこわばる。
しかし、ガレスはふっと笑った。
「まあ、たまにはいい」
その笑みは短く、それでも確かに温かかった。
言葉を続けるでもなく、ガレスはしばらく七人の顔を見渡した。
戦の影を引きずる彼らを一人ひとり確かめるように、静かに視線を巡らせる。
その目には厳しさではなく、ひとつの隊を導く者の確信があった。
そして、低く落ち着いた声で言った。
「……さあ、食べよう」
その一言に、七人の背筋が自然と伸びた。
命令ではなく、合図のような声。
卓の上に置かれた皿の湯気が、ゆっくりと立ちのぼり、ようやく静かな朝が戻ってきたように感じられた。
***
食事が終わるころには、食堂のざわめきもひと段落していた。
皿の上に残った脂の光が、灯りをやわらかく反射している。
七人はそれぞれ、まだ匙を握ったまま動けずにいた。
厚切りのベーコンは想像以上にうまかった。
噛めば肉の塩気がじんわりと広がり、胃の奥がようやく生きていると実感する。
久しく忘れていた感覚だった。
「……これ、ほんとに俺らが食っていいんですかね」
ダリルが呟くと、隣のトマが笑う。
「もう食べちゃったでしょ?」
笑いが小さく広がり、ミロが肩を揺らす。
オズワルは黙ったままだが、口元にかすかな笑みを浮かべていた。
レナードは目を細め、ロランは冷めかけたスープをゆっくり飲み干す。
それぞれの表情に、ほんの一瞬だけ安らぎが戻っていた。
昨日の夜、誰もが口にしなかった幸せという言葉が、いまは確かにそこにあった。
「生きている証拠だな」
ガレスの低い声に、七人の手が止まる。
彼は食べ終えた皿を静かに重ねながら、続けた。
「昨日はご苦労だった。この小隊――誰一人欠けていないことを誇りに思う」
一瞬、空気が引き締まる。
エドリックの胸に、昨日の光景が蘇った。崖の上で、土煙と叫び声の中、何度も振り下ろした槍。倒れた盗賊の顔、血に濡れた手。
目を閉じれば、あの匂いがまだ鼻の奥に残っている気がした。
周りの誰もが同じ記憶を共有しているのがわかった。
ほんの少し前まで、食堂の温もりに包まれていた空気が、また静かに沈んでいく。
その沈黙を破ったのは、ガレスの声だった。
「……よく今日、逃げなかったな」
唐突な一言に、七人の視線が一斉に彼へ向かう。
ダリルが目を瞬かせ、ミロが小さく息を呑んだ。
ロランでさえ、わずかに眉を上げている。
ガレスは少し笑って言葉を継いだ。
「驚くか?俺はな、初めて実戦を終えた次の日、逃げようと思ったことがある」
七人が息をのむ。
ガレスの声は穏やかで、どこか懐かしささえ含んでいた。
「訓練もないし、門番の交代も知っていた。走れば森まで辿りつけると思ってた。
でも結局、行かなかった。……行けなかったんだ」
笑みが浮かぶ。
「理由は簡単だ。俺の隊も、そのとき誰一人欠けていなかったからだ」
短い静寂。
七人の胸に、何か温かいものが広がっていく。
それは安堵でもなく、単なる感動でもなかった。
ただ、ここにいる意味をそっと確かめ合うような感覚だった。
トマがぽつりとつぶやいた。
「……そっか。じゃあ俺らも、逃げなくてよかったんだな」
すぐ隣で、ダリルが軽口を叩いた。
「隊長の訓練が厳しすぎて、逃げたら追っかけてきて捕まって、さらに地獄を見る可能性を恐れたってのもあるかもな」
一瞬、静寂。
ガレスがゆっくりダリルを見て、真顔のまま言った。
「……ダリル。明日はお前だけ、特別にさらなる地獄の訓練を与えよう。
今日という休日を噛みしめておけ」
「じょ、冗談ですよ!冗談ですって!!」
ダリルが慌てて手を振ると、周囲に小さな笑いが広がる。
ガレスも口元をゆるめ、短く言った。
「わかっているさ」
その笑みは、さっきよりもずっと柔らかかった。
笑い声の余韻が残る食堂に、ようやく静かな平和が戻っていた。
ガレスは立ち上がるでもなく、椅子の背に腕をかけながら言葉を続けた。
「俺はこれから隊長や参謀に会って、今後の作戦を確認してくる。本当はあとで、お前たちの部屋に伝えに行こうと思っていたんだが……手間が省けたな」
その口元に、軽い笑みが浮かぶ。
「まあ、その代わりに七人分のベーコン代は飛んだがな」
一瞬の沈黙のあと、エドリックから笑いが漏れた。
ダリルが吹き出し、トマとレナードが肩を揺らす。ミロが小さく笑い、ロランとオズワルは鼻で息を漏らす。
笑い声は控えめだったが、確かにそこには生気が戻っていた。
ガレスは一息おいて、皆を見渡した。
「本日の夕刻、この小隊の詰所に集合だ」
その声に、七人の表情が引き締まる。
食堂の温かな空気が、ほんの少し緊張を取り戻した。
「わかりました」
エドリックをはじめ、七人の声が揃った。
その音が、食堂の空気を一瞬だけ引き締めた。
ガレスはその様子を見て満足そうに頷き、立ち上がる。
「それまでは休め。腹が膨らんで寝台に入れば、すぐに眠れる。
休めるときに休むこと。それが今日の訓練だ」
「……わかりました」
七人の声が重なった。
誰もが姿勢を正し、自然と敬礼の形を取る。
ガレスは短く頷き、椅子を押し戻すと、静かに背を向けて食堂をあとにした。
扉の向こうへ消えていく足音は、力強く、それでいて穏やかだった。
残された七人はしばらくその背中を見送っていたが、やがて互いに視線を交わし、無言のまま立ち上がった。皿を片づけ、食堂を出る。
廊下にはまだ朝の冷たい空気が残っていたが、それが心地よく感じられるほど、体の芯が温まっていた。
部屋に戻ると、寝台の布団がやけに柔らかい。
誰も言葉を発しないまま、それぞれが横になり、しばらくのうちに静かな寝息が並んで聞こえはじめた。
外では、砦の鐘がゆっくりと鳴っていた。
昨日の戦の名残を遠くに押しやりながら、七人は久しぶりに戦場ではない眠りを得たのだった。




