第27話 風のない訓練場
夜が明けて、砦の屋根をかすめる風が冷たく流れていた。
訓練の号令も、金属を打つ音もない。
いつもなら起床の鐘と同時に足音や掛け声が響く時間――けれど今日は、ただ静かだった。
エドリックは目を覚ましてもしばらく天井を見つめていた。
寝返りを打つ音がして、隣でミロが布団の中からぼそりと呟く。
「……おはよう」
「……おはよう」
答えながらも、エドリックの体はもう目覚めてしまっていた。
眠っているほうが難しい。目を閉じれば、昨日の光景が脳裏に浮かぶ。
倒れた仲間の顔、泥の匂い、血に濡れた手。
どれも夢ではなかった。
「おはよう」
ロランの低い声が聞こえた。いつの間にか起き上がり、壁際に腰を下ろしている。
表情は変わらないが、目の下には深い影があった。
ミロも布団の中で「おはよう」と返す。
エドリックも続いたが、声が自分の口から出たとは思えないほど乾いていた。
部屋の空気は重かった。
誰も何を言えばいいのか分からず、ただ小さな物音が時折響くだけ。
外の風に軋む扉の音、遠くの見張り台から聞こえる鳥の声。
静かすぎて、余計に胸が締めつけられる。
その沈黙を破ったのは、ダリルの声だった。
「なあ、エドリック、ミロ……もう起きてんだろ? どうせ寝られねぇんだろ?」
エドリックが顔を上げると、ダリルは寝台の端に腰をかけ、
寝癖のついた髪を手ぐしで整えながら薄く笑っていた。
「なんだよ、全員そろって死人みたいな顔して。休みなのに寝腐ってるのはもったいないだろ?」
「……寝腐ってはいないよ」エドリックが小さく呟く。
「じゃあいいじゃねぇか!」とダリルが笑いながら両手を叩いた。
「どうせやることもねぇんだ。ちょっと訓練場でも行ってみようぜ。ガレスがいたら文句言われるかもしれねぇけど、見に行ってもバチは当たらんだろ」
エドリックは眉をひそめる。
「……訓練は中止って言われてたろ?」
「わかってるさ。でも、部屋でくさってるよりマシだろ?」
ダリルの声は軽いが、無理に明るさを保っているのがわかる。
その笑い方はいつものように軽快ではなく、どこか空っぽに響いた。
ミロが小さく笑って言う。
「……たしかに。部屋にいると、どうしても考えちゃうしね」
ロランは何も言わなかったが、腕を組んで立ち上がった。
それが了承の合図のように見えた。
「じゃあ行こうか」
エドリックが立ち上がると、ダリルは満足そうに頷いた。
「よし、どうせなら向かいの部屋の三人も誘うか。みんなで歩いたほうが気が紛れるだろ」
廊下に出ると、冷たい石の床が素足に触れた。
いつもなら訓練前の喧騒が響いている時間だが、今は風の音しか聞こえない。
砦全体が息をひそめているようだった。
ダリルが向かいの扉を軽く叩く。
「おーい、トマ、オズワル、レナード! 起きてるか!」
しばらくして、内側からトマの声が返った。
「ん……ああ、起きてるよ」
扉が開き、トマの後ろからオズワルとレナードも現れた。
三人とも疲れが残っているが、寝ていられなかったのだろう。
「訓練は中止だが、ちょっと外の空気でも吸おうぜ」
ダリルの誘いに、トマが苦笑いする。
「いいね。ここにいると息が詰まりそうだった」
オズワルは腕を組んで「ああ」とだけ言い、レナードは静かに頷いた。
こうして、七人が揃った。
誰も口にはしないが、それぞれの胸に昨日の影を抱えたまま。
それでも、誰かと歩くことでしか保てないものがある――エドリックはそう感じていた。
砦の中庭に向かう途中、朝の光が差し込む。
淡く照らされた石壁が、まるで昨日と同じ世界とは思えないほど静かに見えた。
七人はゆっくりと廊下を進んだ。
誰も急ごうとせず、足音だけが静かに響く。
石畳の上を、鎧をつけない足で歩くのは妙に軽かった。
肩の重みがないだけで、こんなにも身体が自由になるのかと、エドリックは少し驚いた。
「なんか、変な感じだな」
トマがぽつりと笑う。
「いつもガチャガチャ音立てて歩いてたからさ。静かすぎて落ち着かねぇ」
「お前の鎧、やたら鳴るもんな」とダリルが茶化す。
「うるさいな。俺のせいじゃないからね」
トマが言い返し、思わずミロが吹き出した。
その笑いが伝染して、オズワルが肩をすくめ、レナードまで口元をゆるめた。
「……なんか、平和だね」
ミロがつぶやくと、ダリルが首を傾げた。
「平和って言うか、嵐のあとみたいな」
「嵐のあとか……」
エドリックは壁をなぞる指先に、石の冷たさを感じながら呟いた。
昨日の血の匂いも、叫びも、いまはどこにもない。
けれど、胸の奥にはまだ熱が残っていた。
先頭を歩いていたロランが小さく言った。
「……静かすぎるのも、悪くない」
その言葉に誰も返さなかったが、全員が同じように思っていた。
言葉はいらなかった。
ただこうして七人で歩いているだけで、少し心が落ち着いた。
***
訓練場の近くまで来ると、少しずつ兵士たちの姿が見え始めた。
見張り台の弓兵が外を警戒しており、通路の角では槍兵が立っている。
どの顔も警戒の色は消えていない。
砦は攻め込まれなかったとはいえ、緊張はまだ解かれていなかった。
すれ違う兵たちには軽く会釈した。相手も軽く会釈を返してくれる。
声を交わす者はいない。その沈黙が、戦の名残を物語っていた。
エドリックはふと、胸の奥に重いものを感じた。
――次は、いつ戦場に出るのだろう。
目の前の仲間たちを見る。
誰も口に出さないが、皆、同じことを考えている気がした。
笑い合ったさっきの空気が、少しだけ遠くに感じられた。
砦の上空には薄い雲が流れ、太陽の光が弱く差し込んでいた。
その光の中を、七人は黙って歩き続けた。
***
訓練場に出ると、風がすうっと頬をなでた。
広い石畳の中央には、誰の姿もなかった。
昨日まで、無数の足音と怒号、金属の響きで満ちていた場所が、
まるで別の世界のように静まり返っている。
「……誰もいねぇな」
ダリルがぽつりと呟いた。
その声すら、広い空間に吸い込まれていく。
トマが足元の石を軽く蹴りながら言った。
「ここ、ほんとに同じ訓練場か? なんか……変な感じ」
「いつもは誰かが叫んでるもんね」ミロが笑う。
「剣の音も、掛け声もないと……なんか落ち着かねぇな」
ロランは無言で頷き、空を見上げていた。
エドリックは、踏みならされた石畳を見つめた。
昨日まで、ここで仲間が剣を振るい、怒鳴り、倒れ、そしてまた立ち上がっていた。
そのすべての音が、まるで風に流されて消えたようだった。
レナードが低く言った。
「音がないってのは……案外、重いもんだな」
オズワルは短く「ああ」とだけ答えた。
七人は並んで立ち、しばらく誰も口を開かなかった。
風が石の隙間を抜け、遠くの訓練具がかすかにきしんだ。
その音が、静けさをさらに際立たせていた。
――そのときだった。
「何をやってんだ、お前ら」
突然、背後から低い声がして、全員がはっと振り向いた。
そこに立っていたのは、ガレスだった。
鎧の上着を肩にかけ、腕を組んでいる。
疲れの色を残しながらも、口元にはわずかな笑みがあった。
「が、ガレス隊長!?」
ダリルが驚いた声を上げる。
思わずエドリックが背筋を伸ばし、
「お、おはようございます!」と大声で敬礼した。
その瞬間、ほかの六人も条件反射のように姿勢を正した。
静寂の中で、いきなり訓練が始まったかのような光景だった。
ガレスが目を細め、わずかに笑った。
「おいおい、訓練中止って言っただろうが」
「す、すみません! つい……」
エドリックが慌てて答えると、ダリルが苦笑いを浮かべた。
「はは、俺ら全員、体に染みついちまってるんですよ、きっと。
朝になったら勝手にここに来る、みたいに」
その言葉に、ガレスは小さく息をついた。
「……そうかもな。俺もだ」
少し肩を回しながら、空を見上げる。
「朝になったら、どうしてもこの場所が気になって来ちまう」
エドリックは、その横顔を見た。
昨日まで戦場にいたはずなのに、ガレスの目はもう前を見ている。
けれどその瞳の奥には、消えない何かがあった。
ガレスは七人を見渡し、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「お前ら、まだ朝飯も食ってねぇんだろ」
「……はい」エドリックが答えると、ガレスは軽く顎をしゃくった。
「なら、ついてこい。厨房に顔を出したら何か残ってるはずだ。
戦の翌日は、腹が減るもんだ」
ダリルが明るく笑った。
「そりゃありがたい! 腹は減ってるのに食う気が起きなかったんだよな」
ミロが小声で「僕も」と呟き、トマが少し照れたように笑う。
オズワルは「飯の匂いがすりゃ、少しは落ち着くかもな」と肩をすくめた。
レナードは何も言わず、静かに頷いた。
七人は並んで歩き出した。
静まり返った訓練場を背にして、まだ冷たい風の吹く廊下へと向かう。
ガレスを先頭に、七人がゆっくりとその背中を追った。
砦の冷えた空気の中に、ほんの少しだけ、人の温もりが戻った気がした。




