第26話 黙祷と祈りの後
砦の中庭で兵たちに休息を命じたあと、ガレスは一度だけ全員の顔を見渡した。
その瞳に宿っていたのは、安堵ではなく、ただ深い疲労と沈黙だった。
誰一人として声を上げず、ただ命令に従い、自分の居場所へと散っていった。
彼はそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出した。
足取りは重いが、迷いはなかった。
――報告の義務がある。
それだけが、今の彼を動かしていた。
***
廊下を進む途中、角を曲がった先で弓兵部隊の副隊長ヴァーナルと出くわした。
鎧の継ぎ目には乾いた泥の跡が残り、肩に背負った弓弦が静かに揺れている。
ヴァーナルもまた、夜明けの光に照らされた無表情のまま立ち止まった。
「……お前も報告か」
「おう。ルガン隊長のところだ」
短い言葉。だがそれで十分だった。
互いに視線を交わすだけで、どれほどの疲れと意味を共有しているかが伝わった。
ヴァーナルが僅かに顎を上げ、低く言う。
「弓兵隊と護衛の剣兵、全員無事だ。……かすり傷一つねぇ」
「……そうか」
ガレスの声はわずかに安堵を帯びていた。
「お前らが崖上で抑えてくれなきゃ、正面は崩れてた。助かった」
「お互い様だ。槍兵が動かなきゃ、俺たちが射ってる間に押しつぶされてた」
ふたりの間に短い沈黙が落ちる。
けれどその沈黙には、重苦しさよりもわずかな信頼の温度があった。
ヴァーナルが肩を回しながら、口の端をわずかに上げる。
「……どうせ同じ報告だ。行くか」
「ああ、行こう」
二人は並んで歩き出した。
廊下の石床が足音を反響させ、遠くから風が吹き抜けていく。
それがまるで、戦場の残響のように感じられた。
作戦会議室の前に立つと、ガレスは一度深呼吸した。
中には、ルガン隊長とカディン参謀がいる。
ふたりにとっては一つの報告だが――彼らにとっては、仲間の命の重さそのものだった。
ノックの音が静かに響く。
「入れ」
ルガンの低い声が返る。
ガレスとヴァーナルは扉を開け、同時に姿勢を正して敬礼した。
「「――任務完了しました。盗賊討伐戦、全て終結です!」」
ルガンが椅子から立ち上がり、二人に視線を向けた。
「ご苦労だった」
短い言葉だが、その響きには確かな重みがあった。
カディンが書類の束を整えながら問う。
「戦果を」
ガレスが一歩前に出る。
「敵勢力、盗賊五十三名。そのうち五十二名を討伐、捕虜一名を拘束。
自軍の損害は、槍兵死亡四名、軽傷三名、重傷四名。弓兵隊および護衛剣兵は無傷です」
一瞬、部屋に静寂が落ちた。
だが次の瞬間、参謀補佐が驚き混じりの声を上げた。
「五十三名を相手にして、犠牲わずか四人……!これはまさに大勝利ですな!」
もう一人の補佐官も勢いづく。
「状況判断、布陣、連携、すべて見事という以外にありません!
この報告が本隊に届けば、士気は大いに上がります!
敵が盗賊だろうと、後ろ盾のヴァイス連合にとっては計算外でしょう!」
だが、ガレスもヴァーナルも表情を変えなかった。
勝利の言葉が響く部屋の中で、二人だけが沈黙を保っていた。
戦場で見た光景と、この部屋の熱気があまりにも違いすぎた。
カディンが報告書を閉じ、わずかに目を細める。
しばし黙っていたが、やがて低く呟いた。
「……静まれ」
その声に、補佐官と参謀補佐が同時に口を閉じた。
一言で、部屋の空気が変わった。
カディンはゆっくり二人を見やり、穏やかながらも厳しい声で続けた。
「喜ぶのは結構だ。大戦果だからな。しかし、まずは四人の英雄に黙祷と祈りを捧げよう」
その言葉に、補佐官たちはハッとしたように顔を伏せた。
さきほどまでの高揚が一瞬で消え、部屋の温度が下がる。
「……感謝します」
ガレスが静かに頭を下げた。
その一言には、戦場の全てが詰まっていた。
カディンが頷き、ルガンに視線を送る。
ルガンは立ち上がり、帽を取り、低く響く声で命じた。
「――全員、国の英雄たちに敬礼」
全員が姿勢を正し、胸に手を当てた。
燭台の炎が静かに揺れ、その光が影を長く伸ばす。
ルガンが目を閉じた。
「彼らは国と仲間を守るために命を捧げた。
彼らの死は悲しみではなく、我々の誇りである。
――安らかに眠れ」
誰も言葉を返さなかった。
ただ沈黙が、祈りの代わりに部屋を満たした。
ガレスは目を閉じ、心の中で名を呼んだ。
――戦場で倒れた四人へ。
泥に沈んだ手も、最後まで握っていた槍も、決して無駄ではなかったと。
やがてルガンが息を吐き、短く言った。
「黙祷、終わり」
全員がゆっくりと顔を上げる。
ルガンは帽を被り直し、腕を組んで言葉を続けた。
「――ガレス、ヴァーナル。よくやった。
この報告は本隊に伝える。だがまずは、戦場で散った兵たちを葬れ。
名を刻み、英雄たちの死を決して数字にするな」
「「了解しました」」
二人が同時に敬礼する。
ルガンは深く頷き、静かに告げた。
「下がれ。……そして少し休め」
「「はっ」」
ガレスとヴァーナルは敬礼を解き、静かに部屋を出た。
扉を閉めると、燭火の明かりが遠ざかり、廊下の冷たい空気が頬を撫でた。
ヴァーナルが小さく呟く。
「……数字じゃねぇよな」
「ああ」
ガレスは短く答えるだけだった。
ふたりの足音が廊下に消えていく。
太陽はすでに高く、砦の石壁が白く光を返していた。
朝の冷気は薄れ、静かな昼の気配が少しずつ砦を包み込んでいった。
***
会議室の扉が閉まると、再び静けさが戻った。
ルガンは無言のまま机上の地図に視線を落とし、カディンは書類を整えながら深く息を吐いた。
隣にいた参謀補佐と補佐官は、まだわずかに興奮の余韻を残したまま、互いに目を見合わせている。
「……二人とも、少し浮かれすぎだ」
カディンの声は穏やかだったが、その中に確かな戒めの色があった。
補佐官が身を正し、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません……!現場の状況を想像せずに、つい……」
「私もです。戦果の数字ばかり見て……」
参謀補佐も続いて頭を下げた。
カディンは手を軽く振り、二人を制した。
「いい。反省する気があるなら、それで十分だ」
そして、少しだけ表情を和らげる。
「……だがな、正直に言えば、私もお前たちと同じ気持ちだ。確かにすごい戦果だ。立場が参謀でなければ、きっと同じように喜んでいただろう」
苦笑まじりの言葉に、補佐官たちはわずかに安堵の息を漏らす。
その横でルガンが静かに立ち上がった。
「作戦会議を続けるぞ」
低く、しかし力のある声だった。
机の中央に広げられた地図の上には、砦を中心とした周辺地形と、東方国境地帯の戦線が記されている。
ルガンが指先で線をなぞりながら言う。
「――ヴァイス連合の目的を再検討する。今回の盗賊の動き、偶然ではない。
アーレン峡谷では本隊が激戦中だ。そこへ合わせて、こちらにも陽動を仕掛けた可能性が高い」
カディンが腕を組み、深く頷いた。
「同時攻撃の線は否定できないな。だが、今回の戦力規模は主攻ではない。おそらく、グレイウォール山脈周辺に潜む盗賊どもに依頼し、こちらの兵力を削る狙いだろう」
補佐官が地図の北側を指し示す。
「確かに、この山脈の周辺には、前の戦争で廃村となった集落が点在しています。
地形も複雑で、隠れるには格好の場所です。そこを根城に、連合が裏で支援している可能性もあります。または、連合本体が基地として利用している可能性も考えられます」
「ふむ……」
ルガンが地図を見つめたまま、低く唸る。
「それを事実として考えよう。最悪を想定して動くことが基本だからな。この場合はそう遠くないうちに再度盗賊をけしかけてくる可能性が非常に高い」
カディンがゆっくりと顔を上げ、提案する。
「ルガン。偵察を最優先にするべきだ。斥候の情報があれば、こちらの動きは的確になる」
ルガンもカディンの提案にうなずき、作戦を提案する。
「まず斥候を山脈の北麓と旧街道筋に向ける。隠れ家があるなら痕跡を洗い出す必要がある。念のため偵察は小隊単位で分散させ、互いに連絡網を確保しろ。もし連合の拠点が見つかれば、速やかにこちらへ報告。状況次第で局地的な掃討をする」
参謀補佐は地図の北麓を指し示し、メモ帳に手早く記録しながら言う。
「斥候隊の隊長や副隊長にも相談して任務に向かわせます。北麓・旧街道・山谷の渡り道などの周辺の廃村を中心に巡回させます。
潜伏地点の痕跡、物資の移動、夜間の焚火の跡等、発見次第ただちに報告いたします。接触は原則避け、証拠の持ち帰りを最優先に致します」
補佐官は書記役としてペンを動かしつつ、確認の声を上げる。
「偵察隊は夜行と隠密を基本とし、発見は行うが深追いは避ける、という認識でよろしいでしょうか。捕捉は援軍を待ってからと記しておきます」
ルガンは一拍置いてから、低く命じた。
「本国へは即刻、戦果を報告すると同時に斥候兵の援軍要請を出せ。予備の小隊二つ、特に斥候と奇襲に適した者を優先で送らせてもらうようにしろ。到着次第、我々と連携して局地掃討を行う。到着前に攻撃はするな」
補佐官は、手元の記録を確認しながら質問する。
「援軍は小隊二、優先で斥候部隊と奇襲戦闘適応者、了解しました。要請の文面は私が整えます。到着目安はどの程度で想定されますか?」
ルガンは地図上で山脈の位置を指差し、答える。
「可能な限り速やかにだ。到着が遅れるほど相手を野放しにすることになる。伝令には最短を命じろ」
補佐官は即座に立ち上がり、敬礼した。
「はっ。伝令の選出と文面の仕上げ、ただちに取り掛かります」
カディンが地図から視線を上げ、淡く息を吐いた。
「――これでようやく、少しは形になりそうだな」
言葉とは裏腹に、その表情にはまだ緊張が残っていた。
ルガンが苦笑を浮かべる。
「戦の火は簡単には消えん。ここで動かなければ次も我々が後手に回る」
「ああ」
カディンは短く頷き、手元の書類を整えながら続けた。
「偵察の帰還報告を基点に、戦力の再配置を検討する。――それまでは部隊を休ませておけ。疲弊した兵を動かしても、判断を誤るだけだ」
「わかっている」
ルガンは地図をたたみ、鋭い視線を北方に向けた。
「敵が動く前に、こちらが風を読む。……次の一手は、我々が握る」
その言葉に、誰も返さなかった。
しかし、全員の背筋が自然と伸びた。
部屋の外では、砦の鐘が正午を告げていた。
静かな昼下がりの空気の中、命令が次々と伝令の手に渡り、砦は再び静かに――だが確実に、次の戦いへと動き始めていた。




