第25話 沈黙の重さ
東の空が白み始めたころ、森の奥から鳥の鳴き声が微かに戻り始めた。
夜が明けた――それだけのことなのに、エドリックの胸の奥には、何も感じるものがなかった。
空は明るくなりつつあるのに、地面だけはまだ夜を引きずっていた。
焦げた血と土の匂いが濃く漂い、風が吹くたびに乾ききらない泥が足元に絡みつく。
槍や剣、折れた盾が散乱し、どれが味方のものかも見分けがつかない。
空は明るくなりつつあるのに、地面だけは未だに暗かった。
「……遺体の収容を始めろ。盗賊はこの場で埋めろ。仲間は砦へ運び、手厚く葬る」
ガレスの声が静かに響く。命令というより、誰かを動かすための呟きのようだった。
兵たちは無言で頷き、泥に膝をついて動かなくなった仲間や盗賊を運び始めた。
槍を支えに立ち上がる者、布を裂いて包帯を作る者、誰一人として言葉を交わさない。
声を出せば、何かが壊れてしまう気がした。
エドリックも、ただ目の前の現実を受け入れるように、黙って作業に加わった。
まだ血に濡れた地面を掘り、遺体を運び、布で覆う。
その重みが腕に食い込むたび、胸の奥で何かが軋む。
どれが敵で、どれが味方なのか――もう、そんな区別はどうでもよかった。
弓兵隊の一部も崖上から降りてきた。
先頭を歩くヴァーナルは黙ったまま、倒れた仲間のそばで膝をつく。
しばらく目を閉じ、何かを確かめるように息を吐いたあと、立ち上がって短く命じた。
「……周囲を片づけろ。矢は回収、それ以外にも使えるものは回収せよ」
それだけ言うと、彼もまた手を汚すことを躊躇わなかった。
弓兵も斥候も、槍兵と同じように泥にまみれ、ただ黙々と働いた。
そのとき、村の方角から馬の足音が近づいた。
ミロが先導し、街から派遣された剣兵の一団が現れる。
彼らも戦場を見た瞬間、息を呑み、足を止めた。
その中にはダリルとレナードが含まれていた。二人の顔にも疲労の色が濃く浮かんでいた。
ガレスが短く命じる。
「剣兵は北側を。遺体と残骸を分けろ。村へ戻る道は確保しておけ」
「了解しました」
一人の剣兵が頷き、すぐに動いた。
剣兵たちも加わり、片付けは徐々に進んでいく。
エドリックたちを見つけたダリルが一瞬だけ口を開きかけたが、その声は喉の奥で途切れた。言葉を探すように息を吸い、結局何も言わずに槍を拾い上げた。
レナードも静かに頷くだけで、すぐに遺体の収容へ加わる。
その横顔はいつも通り落ち着いていたが、瞳の奥には深い痛みが宿っていた。
血に染まった地面を削り、火のついた木片を踏み消し、破片をまとめていく。
それでも、どんなに片付けても、土の匂いに混じる鉄の臭気だけは消えなかった。
エドリックは無言で手を動かしながら、ふと空を見上げた。
淡い光が差し込んでいるのに、その光が何一つ温かく感じられない。
風が頬を撫でるたび、胸の奥の冷たさが増していくようだった。
「これで……終わりだな」
誰かが呟いた。その声に応える者はいなかった。
やがて、最後の遺体が運び出されると、ガレスが静かに全体を見渡した。
「……片付けを完了とする。村への報告は剣兵の第二分隊に任せる。――我々は帰還する」
ヴァーナルが頷き、静かに弓兵に指示をだす。
剣兵の数名が村へ向けて歩き出し、残った者たちは荷をまとめて帰還の準備を整えた。
それでも、誰一人として声を上げなかった。
勝ったという実感は、誰の胸にもなかった。
風に混じって、血と煙の匂いだけが静かに流れていった。
***
砦への帰還は、誰一人として声を発しない行進だった。
足音と鎧のきしむ音だけが、冷たい朝の空気の中に続いていた。
誰もが疲れきった顔で前を見据え、ただ歩くことだけに意識を向けていた。
勝利の凱旋などという言葉は、この場には似つかわしくなかった。
砦の中は静まり返っていた。
しかしその静けさは休息のものではなく、警戒の静寂だった。
見張り台では弓兵が交代で周囲を監視し、城壁の上では槍兵たちが東の森へ視線を向けている。
敵国の進軍は確認されていないが、砦全体はなお防衛態勢を保っていた。
誰もが油断せず、夜明けの冷気の中で張り詰めた空気をまとっていた。
そのとき、見張りの兵が彼らの姿を見つけ、声を張り上げた。
「――前線部隊、帰還!ガレス隊!ヴァーナル隊!戦闘より帰還しました!」
その報告の声が砦中に響く。
別の持ち場にいた兵たちが動きを止め、視線を向ける。
だがガレスは無言で手を上げ、静かにその場を制した。
「……警戒を続けろ」
短い一言。
その声音に、兵たちはすぐ姿勢を正し、再び持ち場へ戻っていった。
砦の中には再び、張り詰めた静けさが戻る。
全員が順に水場へ向かい、冷たい井戸水で体を洗った。
鎧を脱ぎ、泥と血にまみれた衣をすすぐ。
エドリックも両手を水に浸した。冷たさが指先を刺すように伝わる。
何度も何度もこすっても、指の隙間にこびりついた赤黒い汚れは消えなかった。
(……落ちない……血の匂いが……)
指の腹を爪でこすってみる。だが、何も変わらなかった。
水は透明なのに、流しても流しても、自分の手だけが汚れている気がした。
周りの兵も同じだった。誰も口を開かず、ただ無言のまま水をすくい続けた。
朝日が水面に映り、赤く揺れて見えた。
やがて、全員の清掃が終わると、ガレスが短く告げた。
「本日と明日の訓練は中止とする。治療と休息を優先しろ」
兵たちが一斉に「はい」と返す。
その声は大きかったが、張りがなかった。
返事というより、心の中の空白を埋めるような音だった。
***
各々が持ち場へ散っていく中、エドリックはミロ、ダリル、ロランと共に部屋へ戻った。
扉を閉めると、外の音が一気に遠のく。湿った空気と、鉄と煙の匂いだけが残っていた。
四人とも誰も口を開かない。床に腰を下ろし、それぞれが自分の世界に沈んでいた。
沈黙を破ったのはロランだった。
膝の上で組んだ手を見つめたまま、低く、掠れるような声で言った。
「……矢で、……殺した」
わずかに空気が動いた。ミロとダリルが顔を上げる。
ロランはしばらく言葉を探すように沈黙したあと、続けた。
「獣を狩るのとは、まるで違った。……あいつら、最後まで俺を見てた」
その声は平静だったが、微かに震えていた。
「矢が刺さった瞬間……あいつ、目を見開いて、手を伸ばしてきた。
逃げようとしたわけじゃない。ただ……何かを掴もうとしてた。助けを求めるみたいに」
短い息を吐き、目を伏せる。
「獣なら、倒れた瞬間にすべて終わる。
でも、人間は……倒れたあとも、目が俺を追ってた」
指先が膝の上で小さく動く。
「……あのときの顔が、まだ頭から離れない。
矢を放った瞬間の音まで、覚えてる。……目が良く見えることがこんなにも嫌になるとは思わなかった」
ロランの言葉が途切れると、部屋の中に重い沈黙が落ちた。
外では夜風が石壁を撫で、遠くの見張りの掛け声がかすかに響いている。
誰も目を合わせなかった。
やがて、エドリックがゆっくりと息を吐いた。
俯いたまま、低くつぶやく。
「……俺も、刺した。槍で……」
その声は掠れていた。ロランが静かに目を向ける。
エドリックは両手を見下ろし、握りしめた指を開いたり閉じたりしながら言葉を探した。
「……あいつらが近づいてきて、ただ、命令に従い反射的に突いた。
重くて、止まらなくて……何か、硬いものを貫いた感触があった。
骨だったのか、胸なのか……それもよく覚えてない。」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
それでも、ゆっくりと続けた。
「倒れたあとも、しばらく手が動いてた。
あれが、人間の体なんだって……その時、やっとわかった。
戦ってる最中は何も考えられなかったのに、終わった途端に……息をするのも怖くなった」
エドリックは目を閉じた。
まぶたの裏に、あの戦場の光景がよみがえる。
血に濡れた泥、焼けた匂い、叫び声。どれも遠いはずなのに、すぐそばにあるように感じた。
「……戦場って、あんなに臭いのかと思った。
血と煙、焦げた鉄のにおいが……ずっと鼻の奥に残ってる。
あんな場所で、人が生きてたのが……今でも信じられない」
彼の言葉が静かに途切れる。
ミロが何か言おうとしたが、喉の奥で声が止まった。
ダリルも同じだった。二人とも戦いでは敵を討っていない。
見て、支えて、逃れただけ――そのことを理解しているからこそ、何も言えなかった。
やがてミロが小さく息を吸い、ただ一言、絞り出すように呟いた。
「……ごめん……」
その謝罪は誰に向けたものでもなかった。四人の間に再び沈黙が降りる。
焚き火の残り香がかすかに漂い、遠くで鉄の軋む音が響く。
誰も口を開かなかった。
それでも、その沈黙の中に――それぞれの生き延びた重さだけが確かにあった。




