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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第一部 兵の風の中で
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第2話 徴募の旗

翌朝、村の空気はいつもより重く澱んでいた。夜明けの霜は解けず、藁葺き屋根の端に白い縁を残したまま、陽光を拒むように冷たさをまとっている。


鶏の鳴き声も短く、牛の鼻息も荒い。村の誰もが理由を言葉にしないまま、不安に背を向けて働いていた。

エドリックは井戸端で水桶を満たしながら、昨夜、丘で交わしたミロの言葉を思い出していた。


――もし本当に徴募が来たら、俺たちも行くのかな。

答えの出ない問いは、まだ胸の奥でくすぶる火のように燃え残っていた。


そのときだった。村の坂を下る小道の向こうから、鈍い蹄の音が響いてきた。ひとつ、ふたつ、やがて十にも届きそうな重い響き。水面がわずかに震え、桶の縁で光が割れた。

畑の鍬が止まり、粉屋の戸が半ば開いたまま固まり、顔という顔が同じ方向へゆっくり向く。


霧の薄皮を裂くように、馬に乗った兵士たちが現れた。鎧は泥にくすみ、肩革の継ぎは荒い。掲げた赤布は古い布を継いだとわかる縫い目だらけで、端はほつれて風に裂けている。

けれど、その色合いだけで、谷間の小さな村には十分すぎる威圧があった。先頭の兵は馬を止め、冷たい視線で広場を掃き、旗竿を地に突き立てた。


「王の名において告げる!」


乾いた声が霜の朝を断ち割り、粉屋の水車でさえ音をやめたかに見えた。


「この村より健やかな男を三名、志願として募る!名乗り出ぬなら、この村は逆賊と見なされる。家も畑も、家畜も薪も、焼き払われよう」


ざわめきが走り、誰かが短く息を呑む。

兵士は続けた。


「だが、今ここで決めろとは言わぬ。正午の鐘が鳴るまでに三名を選び、広場へ出せ。志願した者には王の恩寵が与えられる。従えば誉れ、拒めば滅び。選ぶのはお前たちだ」


それだけ告げると、兵たちは礼拝堂の前の石柱に手綱を巻き、鉄の人形のように黙って待った。鎧の軋みが霧の奥へ遠のくと、村には、より重い沈黙だけが残った。


***


最初の鐘が一度だけ鳴ると、抑えつけられていた声が一斉に細く溢れ始めた。集まった村人の輪がほどけ、二つ、三つと小さな群れになって動き、囁きは刃先のように互いの素肌をなぞった。


「うちには働き手がもういない。亭主を取られたら畑が潰れる」

「なら、息子のいる家から出すのが筋だろう」

「いや、あそこの男は病弱だ。前に熱を出して倒れたことがある」

「じゃあ独り身の若いのがいる家から……」


誰も名を呼ばない。けれど矢じりの向く先ははっきりしていた。幾人かの視線が、エドリックとミロの背中に突き刺さる。ふたりが振り返ろうとすれば、慌てて逸らされる――だが、逸らしたという行為こそが答えを物語っていた。


鍛冶屋のトマスは群れの後ろに立ち、鉄粉で黒ずんだ掌を強く握っていた。

「俺はもう年だ。足腰も弱った。だが、若い連中なら歩けるだろう」

小声でそう洩らすたび、彼の視線は広場の若者たちをなぞった。


粉屋のマティアスは粉塵のついた前掛けを握りしめ、目を逸らしていた。家にまだ幼い子がいることを、誰もが知っていた。彼の顔には「俺ではない」という言葉が刻まれていた。


「戦で死ぬかもしれんが、従わなければ村ごと滅ぶ」

「選ばれた三人は村を救うんだ。誉れだろう」

それは慰めではなかった。自分を守るための、薄い鎧に過ぎない。鎧を着込めば着込むほど、冷たさは骨に沁みていく。


***


「正午まで、まだ時はある」

杖の先で石を叩く乾いた音とともに、ゴドウィンが輪の中へ進み出た。背は丸いが、その瞳だけは澄んで鋭く、霧よりも深いところを見通す色を帯びている。老人の声は大きくはないのに、広場の囁きを一瞬だけ止めた。


「……覚えておけ。徴兵が繰り返されるときは、戦の風向きが悪くなっている証だ。兵を失い、補うためにまた旗が立つ。王が勝っているなら、こうして山奥の村まで探しには来ん」


息を呑む気配があちこちで重なる。誰かが小さく「負けているのか」と漏らし、すぐ唇を噛んだ。礼拝堂前の兵士が、音もなくこちらへ視線を投げたからだ。


「志願した者だけが傷を負うのではない」ゴドウィンは続けた。

「残る者もまた、同じ傷を負う。夫や息子を失い、家も畑も痩せていく。戦は遠くで起きていても、必ずここに爪痕を残すのだ」


その声音には、まるで自身がその爪痕を刻まれたかのような深さがあった。彼が本当に戦を経験したのか、誰も知らない。だが村人は誰一人として、その言葉を疑えなかった。


***


水を満たした桶の縄が掌に食い込むのを感じながら、エドリックは足早に家へ戻った。戸を開け、桶を台に下ろし、裏へ回って薪を抱える。だが斧を手にしても腕は動かなかった。耳の奥では、まだ囁きと兵の声が交互に反響している。


戸口に影が差した。振り向くと、母アグネスが立っていた。唇は固く結ばれ、目の下には浅い影が落ちている。


「聞いちゃだめだよ、エド」

声は低く、祈りのように細かった。


「あの人たちの言葉に耳を貸すんじゃない。耳に入れたら……心まで奪われる」

震える肩。彼女は言葉を選びながら、うつむいたまま続ける。


「お前の父さんが出ていった朝も、皆、同じように囁いていたよ。『誉れだ』『村のためだ』って。……誉れは、空いた椅子を温めてはくれないんだ……」


エドリックは返す言葉を見つけられず、ただ頷いた。母の視線は、彼の肩の少し後ろ――空いた椅子の方角をかすめて、また伏せられた。


***


ふたたび村の外れへ出ると、井戸の裏手は日の光が届かず、石が夜の冷たさをそのまま保っていた。エドリックが腰を下ろすと、背から冷えが這い上がる。

そこへ、息を切らせたミロが駆け寄ってきた。頬は血の気を失い、額には細かな汗が浮かんでいる。


「エド……僕たち、もう、逃げられないんじゃないか」


声は震えていたが、村全体の心を率直に言葉にしただけだった。二人はしばらく黙りこんだ。風が枯れ枝を擦り合わせる音だけがして、遠くで牛が低く鳴いた。


やがてミロは膝を抱え、視線を落としたまま言葉を絞り出した。

「……行きたくない。畑で十分だ。春に畝を増やして、丘の下まで麦を植えるんだ。秋には納屋をいっぱいにして、銀貨を数えて……それで、隣村の鍛冶屋の娘に話をしに行く。父さんとも決めてたんだ」


「兵なんてごめんだ。王様のために剣を振るって、名前も知らない誰かを傷つけるなんて、まっぴらだ」


エドリックは俯き、拳を膝に置いた。


「俺だって……行きたくはないさ」

だが胸の底から、別の思いが浮かんでくる。

「でも、もし行けば……父さんに会えるかもしれない」


ミロは唇を噛み、首を振る。

「会えたとしても……帰ってこられる保証なんてない」

二人は言葉を失い、ただ鐘の音を待った。


***


鐘が二度鳴った。正午まで、あと一刻。

粉屋の前では、マティアスが石臼に手を置いたまま立ち尽くしていた。鍛冶屋のトマスは炉の火を落とし、黒く煤けた手を組み合わせて黙っている。誰もが「自分ではない誰か」を探し、その視線の先に若い影を置いていた。


エドリックはその影の中心に立たされていた。

風が東から吹き抜ける。土の匂いを吸って、金の匂いを吐く風――ゴドウィンの言葉が、再び村人の耳を刺した。


正午までに三つの名が決まらなければならない。

その名のどれかに、自分たちが含まれるかもしれない。


鐘がもうすぐ鳴る。


村の空気は刃の上に張りついた薄氷のようにきしみ、割れそうで割れないまま時間を刻んでいた。



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