第19話 霧の森に潜む影
ルガン
年齢: 32歳
所属: バルデ砦隊長
性格: 厳格・寡黙・公平
特徴: 左頬に古い傷を持つ歴戦の兵。王国の現状を見て軍に入団。多くの戦場を経験している。
霧の奥を抜けた先、木々の密度がさらに増していた。
空気はひどく重く、風が通り抜けても、どこか湿ったものが肌にまとわりつく。
葉の裏に溜まった露が滴り、静寂の中でぽたりと落ちる音がやけに大きく響いた。
そのたびに、ミロの心臓がわずかに跳ねる。
森が彼らの存在を拒むように、音という音を吸い込んでいく。
リースが息を潜めて呟いた。
「……嫌な空気だな」
声が届いた瞬間、霧の奥で風が止まった。
それは偶然のようでいて、まるで森自身が耳を傾けているような錯覚を覚える。
カイは立ち止まり、手を上げた。指先の動きひとつで、二人の動作が止まる。
長年の経験で身についた勘――危険の“気配”を察した時の、わずかな合図だった。
「ここから先は――警戒を強めろ。匂いが違う」
その声は低く、鋭かった。ミロは喉を鳴らし、そっと呼吸を整える。
確かに、風の中に焦げたような臭いが混じっている。雨に濡れた土と草の香りの奥に、焼けた脂の残り香。そして、それを隠すように薄く漂う鉄の匂い。
嗅ぎ慣れた、だが最も避けるべき匂い――人の気配が残る匂いだった。
「……誰かが、ここで火を使ってるな」
ミロが囁くと、カイは答えず膝をついた。
指先が黒ずんだ土をなぞる。湿っているはずの地面に、わずかに乾いた木片。
霧が立ち込めていても、そこだけ熱が抜けきっていない。
まるで数時間前まで火が生きていたかのようだった。
ミロの背中を冷たい汗が伝う。
森の冷気とは別の、肌の内側から這い上がるような恐怖。リースが無意識に弓へ手を伸ばしかけ、カイの短い視線で止められる。余計な音、動き、息――それらすべてが命取りになる。
「……焚き火の痕ですね」
ミロの声に、カイは頷く。
「火の使い方が雑だ。軍ではこのような使い方は教えない。盗賊の可能性が高い」
リースが背後の木陰を見張りながら低く言った。
「……王国の盗賊なのか?それとも連合の盗賊が国境を越えてきているのか?」
三人の間に短い沈黙が落ちた。霧の奥で何かが動いたような気配。風が止まり、森が息を潜める。その沈黙が、言葉よりも雄弁に戦の始まりを告げていた。
「痕跡を追うぞ」
カイの声が小さく響き、三人は再び動き出した。
***
足跡は斜面を下るように続いていた。
ところどころに深い跡、そして浅い跡――人数は四、いや五人。
荷を運んでいたのか、地面には小さな擦れ跡が点々と残っている。
やがて、低い沢の音が近づいた。流れの中に金属片が一瞬、霧の隙間で光った。
カイが合図を送り、三人は身を低くして近づく。川辺の向こうに、二つの影があった。
古びた外套、布で覆った口元。手には槍――盗賊の類だ。
「……あいつらか?」
リースが囁く。
「……装備が違う」カイが答える。「槍先が軍用だ…連合の奴ら盗賊に武器を流しているのか?」
そのとき、彼らの会話が風に乗って届いた。
「北の連中が動くらしいぜ。砦が慌ただしくなる前に、村を漁っとけって話だ」
「ヴァイスが攻める前に一稼ぎ、か」
「砦の奴らが動けなくなったら、こっちのもんだ」
ミロの心臓が跳ねた。
盗賊がヴァイス連合と通じている――そう考えるには十分な言葉だった。
カイが静かに手を振り、三人は木陰に紛れて後退する。
しばらくして、声が完全に消えた。
「……聞いたな」
カイが低く言う。「敵が動いている。盗賊を使って、村を蹂躙しようとしている。」
リースが顔をしかめた。
「戦の前に盗賊を利用して町と村を壊す。卑怯な真似を……」
ミロが思わず声を潜めて問う。
「どうしますか?このまま引いて報告に戻りますか?」
カイはわずかに息を吐き、霧の向こうを見据えた。
「正しい判断だ。だが、まだ証拠を掴んだわけじゃない。
あの言葉だけでは、ただの噂話と変わらん」
低い声が静寂を切り裂く。
「今回は確信がほしい。危険だが、奴らが連合と繋がっている証拠を探す」
リースが眉をひそめる。
「……つまり、もう少し追うってことですよね?」
「そうだ」
カイが頷いた。
「ここで掴めば、相手の襲撃に速やかに対応できる。
戦はもう始まっている。遅れれば、周辺の村だけでなく砦も飲まれるかもしれない」
ミロは喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
森の奥が、まるで口を開けて待ち構えているように見えた。
***
日が傾き始める頃、三人はさらに森の奥へと進んでいた。
光は次第に色を失い、霧が夕暮れの代わりに世界を包んでいく。
湿った空気の中を歩くたび、草の露が靴に絡みつき、冷たさが足首から這い上がった。
風は止み、葉擦れの音もない。
聞こえるのは、自分たちの足音と、息をひそめるような森の鼓動だけ。
ミロは呼吸を浅くした。
ひと息でも強く吸えば、この静寂を壊してしまう気がした。
靴底が小枝を踏む。ぱきり、と乾いた音が響く。
その一音だけで、背中を冷たい汗が伝った。
自分の鼓動の音が、耳の中で反響している。
前を行くカイの背中が、霧の幕の向こうにかすんで見えた。
動くたびにその輪郭がぼやけ、まるで霧そのものが飲み込もうとしているようだ。
ミロは無意識に手を伸ばしそうになり、慌てて拳を握りしめた。
一歩遅れれば、この森に自分だけ取り残される――そんな恐怖が、喉の奥を締めつけた。
「歩調を乱すな、ミロ」
カイの声が低く飛ぶ。
その声音にわずかな安堵を覚えながらも、ミロは黙って頷いた。
言葉を発すれば、霧の奥に潜む何かを呼び起こしてしまいそうだった。
時間の感覚が曖昧になり始めたころ、
風向きが変わり、湿った空気に焦げた臭いが混じる。
土と草の匂いの中に、焼けた木の粉っぽい残り香。
鼻を刺すそれに、三人の足が同時に止まった。
カイがゆっくりと手を上げる。
わずかにしゃがみ込み、地面を睨みながら低く言った。
「……ここだ」
霧の切れ間、足跡の続く先に不自然な空間が現れていた。
地面は踏み荒らされ、草が黒く焦げている。
炭のような土の上に、うず高く積まれた灰が風に舞った。
「……ここが奴らの野営地だな」
声は低く、確信と同時に警戒が混じっていた。
カイはしゃがみ込み、地面を調べる。
焼け跡の脇には破れた麻袋の切れ端。中には干し肉の残りと、割れた陶器の欠片。
そしてその傍らに、光る小さなものが落ちていた。
ミロがそれを拾い上げる。指先に冷たい感触――銀貨だった。
厚みのある縁、中央には小さな紋章。
カイが受け取り、表面の泥を拭うと、その紋が浮かび上がった。
「……ヴァイスの貨幣だ」
「やっぱり、そうか」
リースの声に、沈黙が落ちた。
風が草を揺らし、灰の上に影を描く。
「盗賊どもは報酬をもらってる」
カイの声は低く、確信を帯びていた。
「襲撃は命令だ。偶然でも、気まぐれでもない」
ミロが地面に目を凝らすと、近くの木の根に小さな封蝋の欠片が引っかかっていた。
それは砕けてはいたが、刻まれた紋章が銀貨と同じ形をしている。
血のように赤い蝋の色が、まだ生々しく残っていた。
「封蝋……何かの文書を持ってきたのかもしれません」
ミロが差し出すと、カイは慎重に受け取り、銀貨とともに小袋へと収めた。
「これで十分だ。」カイが立ち上がる。
「貨幣と封蝋。これ以上の証拠はない。任務をここで終了する。今日中に引き返すぞ」
***
帰路は無言だった。
霧が薄れ、遠くに鳥の群れが飛び立つ。
森の音が戻り始めている。
だが、ミロの胸の奥では、先ほどまでの冷たい緊張がまだ消えなかった。
小袋の中にある銀貨の重みが、確かな現実を告げている。
やがて丘の稜線を越え、木々の間から砦の塔が見えた。
夕陽の光が雲の切れ間を抜け、石壁を朱に染める。
カイが立ち止まり、深く息を吐いた。
「任務完了だ。これを持ち帰れば、すぐに動きがある。
俺はこれから隊長や参謀に証拠を出してくる。
お前たちは小隊に戻り、隊長に報告せよ」
リースが頷き、肩の荷を少し持ち直す。
ミロは振り返って、霧の中に沈む森を見た。
そこにはまだ何かが息を潜めているように思えた。
戦の匂いは、もうこの森から消えてはいなかった。
三人は言葉を交わさず、砦へ向かって歩き出した。
背後で風が吹き抜け、森の枝葉がかすかに触れ合った。
それは、これから始まる嵐の前の、最後の囁きのようだった。




