第18話 霧の森の斥候
ガレス
年齢: 26歳
所属: 槍兵隊兵長・小隊隊長
性格: 温厚・面倒見が良い
特徴: 七人の徴募兵の上官。初めての野営に気を配り励ました。訓練時は感情を抑えて厳しく当たる。
今回主人公視点ではなくミロ視点になっています。
霧の立ちこめる山道を三人は進んでいた。
地面はしっとりと濡れ、踏みしめるたびにわずかな水音が響く。風の流れが谷を抜け、草木の匂いを運んできた。
先頭を歩くカイが低く声を落とす。
「今回の任務は三日間。敵の影がなければ二日目の夜には折り返す。
報告は三日後、砦へ戻ってからだ」
ミロはうなずきながら、背の袋を少し締め直した。中には干し肉と乾いたパン、水袋がひとつ。
カイがそれに目をやり、短く言う。
「食料は三日分だが、腹が減ったからって好きな時に食うな。
一日二回、夜明けと日没前だけだ。
水も同じ。森の中は涼しいが、渇きは意外と早い。喉が乾く前に一口ずつな」
「はい」
ミロの返答に、後ろを歩くリースが笑う。
「最初は誰でもやらかすんだよな。気づいたらパンがなくなってて、二日目が地獄ってやつ」
「……そんなことあるんですか?」
「あるさ。俺は昔、それで木の根っこかじったからな」
リースが笑いながら囁き、ミロは思わず吹き出した。
だが、その笑いも長くは続かない。山道を抜けると、そこから先は深い森だった。霧の層が厚くなり、音が吸い込まれていく。
カイが手を上げ、三人の足が止まる。
「ここからは森の中だ。足跡を残すな。枝を払う時は慎重にしろ。
切りすぎると風の流れが変わる。――森は、見られてると思え」
ミロは喉を鳴らして頷く。
鎌の柄を握り、草を押し分けながら足を進めた。
葉の裏に残る露が手首を濡らし、微かな冷たさが体の緊張を引き締める。
その後も、カイは歩調を保ちながら静かに指導を続けた。
「歩く時は息を合わせろ。足音は三人で一つだ。
風が吹いた時に動け。静寂の中で動くな」
リースが前を向いたまま小声で言う。
「な、訓練よりずっと静かだろ。最初はそれだけで怖くなる」
「……はい。でも、思ってたより――綺麗です」
「は?」とリースが振り返る。
「霧の向こうの光が……ちょっとだけ、きれいだなって」
リースが苦笑し、前を向き直した。
「お前、変わってんな。だが、そういう目があるやつのほうが長生きする」
カイがわずかに頷いた。
「感じることをやめたら、見落とす。戦場じゃ、それが死につながる」
ミロはその言葉を胸に刻みながら、霧の中を進み続けた。
森の奥から、どこか遠くで鳥の声が一つだけ響く。
それが、静寂の中で響く生の音のように感じられた。
***
やがて三人は森の奥へと分け入っていった。
霧が薄まり始め、代わりに湿った匂いが鼻をくすぐる。耳を澄ませば、かすかに水の流れる音が混じっていた。
「……聞こえるか?」
カイが足を止める。
ミロが頷くと、カイは手で合図を送り、慎重に音のする方へ進んだ。
ほどなくして、小さな沢が姿を現した。
岩の隙間を縫うように水が流れ、苔の上に白い泡を立てている。霧の光を受けて、わずかにきらめいていた。
「ここが、俺たち斥候がよく使う水場だ」
カイの声は低く抑えられ、しかし確かな響きを持っていた。
ミロは頷き、腰の水袋に手を伸ばしかける。
だが、カイの短い一言に止められた。
「待て。焦るな。この水は飲めるが、警戒せずに回収するのは危険を伴う可能性がある」
ミロは手を止め、わずかに息をのむ。
カイは周囲を見回しながら続けた。
「安全な場所ほど、敵も利用する。
斥候にとって、水場は命の糸だが――同時に、狙われやすい場所でもある」
わずかに風が流れ、草の葉が揺れた。
その音に三人の視線が自然と動く。森の奥は依然として霧に覆われ、気配は掴めない。
カイが低く言葉を継いだ。
「水を回収する時は音を立てるな。敵が近くにいても気づけるように、耳を澄ませて動け。今みたいに少数で行動している時は、見張りを立てて、できるだけ早く、静かに済ませろ」
ミロは慎重に膝をつき、沢の水に指先を浸した。冷たさが皮膚を刺し、背筋にわずかな緊張が走る。水袋を取り出し、音を立てないように水を流し入れた。そのわずかな動作すら、森の中では重く響く気がした。
カイは視線を落としたまま、さらに言葉を添えた。
「喉が渇いていても一度に飲むな。
腹いっぱいに流し込めば、体が冷えて動きが鈍る。
少しずつ、時間をかけて飲め。焦りは命を削る」
リースが小さく笑いを漏らす。
「昔な、俺はそれで腹壊して一日寝込んだ。上官に水に殺される兵士がいるかって怒鳴られたっけな」
ミロは苦笑しながら、慎重に袋の口を縛った。
沢の水は澄みきっている。だが、その静けさがかえって不気味に思えた。
カイが警戒を解いて、最後に一言を落とした。
「――忘れるな。森は味方にも敵にもなる。
生きて戻りたいなら、その違いを見極めろ」
カイが最後の確認を終えると、沢の周囲に視線を巡らせた。
霧の奥、わずかな違和感に気づいたミロが問いかける。
「……あの、獣の足跡ですか?」
「そうだ」
カイはしゃがみ込み、地面に残る浅い爪痕を指でなぞった。
「水辺には獣も集まる。飲みに来るだけじゃない。
時には、ここを通り道にしている獣を狩りに来る夜盗もいる」
ミロは息を呑む。
「狩れば……食料にもなりますよね?」
カイがわずかに眉を上げた。
「場合による。だが基本的にはやらん」
「え?」
「大きい獲物は血の臭いが残る。肉を捨てても、匂いが数日残って獣を呼ぶ。
その獣を狙って、さらに他の捕食者が寄ってくる。
……そしてそれは、敵にも気づかれやすくなるということだ」
カイは一瞬だけ視線を上げ、森の奥を見据えた。
霧の向こうで、何かが潜んでいるような気配がした。
「場合によっては、その獣にお前がやられることもある。
森では狩るより生き延びる方が難しい。リスクはできるだけ負うな」
ミロが黙って頷くと、カイは低く続けた。
「何のために食料を持ってきたのか、考えろ。
食うためじゃない。生きるためだ。――その違いを忘れるな」
三人は再び歩き出した。
霧は次第に濃くなり、森の奥は昼夜の境を失ったかのように静まり返っている。
木々の間を抜けるたび、風が枝葉をわずかに鳴らし、足元の湿った土が低く鳴いた。
やがて道は緩やかに傾き、斜面の下から淡い光が漏れてきた。
その先に、彼らが今夜の目的地とする窪地が広がっている。
過去に敵国の斥候が目撃されたという場所の、わずか手前だ。
森の枝々が自然の屋根となり、風の流れも限られる――格好の休憩地点だった。
リースが辺りを見回しながら呟く。
「この辺りから南が監視線だな。昼間でも光が届きにくい。敵が潜むには都合がいい」
カイは頷き、周囲の音を確かめるように耳を澄ませた。
「今日はここまでだ。夜のうちに森を動くのは危険だ。霧が深い時ほど、音は遠くまで届く」
ミロは周囲を見渡しながら、小声で問う。
「……見張りはどうしますか?」
カイが地面を蹴り、足元の土の硬さを確かめる。
「三人で交代だ。一人が休んでいる間、二人で外を見張る。声は出すな。動く時は影を使え」
霧はなお深く、月は雲間からときおり顔を覗かせるだけだった。
木立の影は水墨のように濃く、風が止むと森は呼吸を潜めたように静まり返った。
三人は適当な窪地を見つけ、焚き火を起こすことなく各自が小さな丸太や岩に腰を下ろした。
火を使えば光が敵の目に触れる。ここでは、暗さ自体が盾になる。
霧の奥からは、かすかに水の音が聞こえた。
昼間に通った沢の流れが、遠くで続いているのだろう。
その音を頼りに、彼らは地図を広げて方角を再確認した。
カイがふとミロの方へ視線を向ける。
「明日はもう少し南へ出る。そこが監視線の端だ。以前、敵の斥候を確認したのはそのあたりだ」
「……敵、ですか」
ミロの声はかすかに震えていた。
カイは静かに頷いた。
「姿を見つけても、追うな。判断は俺がする。今は見張るのが仕事だ。生きて帰って伝える。それが今回の任務だ」
霧が足元を撫で、月の光が葉の隙間を縫う。その中でミロはゆっくりと呼吸を整えた。森の闇は深いが、その先に確かに“道”がある。そう思えるほどに、彼の胸には教えられた言葉が残っていた。
三人は適当な窪地を見つけ、焚き火を起こすことなく各自が小さな丸太や岩に腰を下ろした。
火を使えば光が敵の目に触れる。ここでは、暗さ自体が盾になる。
カイが小声で指示する。
「夜は交代で見張る。一人が休んでいる間、二人で外を睨む。声は出すな。動く時は影を使え」
二人は短くうなずき、簡素な携帯食を口に含んだ。
湿ったパンを噛む音さえ、妙に大きく響く。
ミロは空を仰ぎ、霧越しの月を見つめた。光が薄く滲み、まるで遠い世界の明かりのようだった。
リースが小声で囁く。
「慣れると、この静けさが眠気を誘う。最初は怖いけどな」
「……眠ったら、どうなるんです?」
「運が悪けりゃ、二度と起きねぇ」
冗談めかしたその声にも、どこか現実味があった。
やがて夜は深まり、彼らは順に見張りを交代していった。
霧の中で聞こえるのは、風と遠い水音だけ。森の奥に潜む何かの気配を感じながら、
それでも夜は静かに過ぎていった。
***
夜が明ける頃、霧は薄れ、森の色がゆっくりと姿を取り戻し始めた。
葉の露が光を受けて輝き、冷えた空気の中に新しい一日の匂いが混じる。
カイは早朝の薄明の中で、周囲を警戒しながら口を開いた。
「出発の前に、少し教えておく」
ミロが顔を上げる。カイは近くの茂みの葉を指でつまみ、匂いを確かめるように擦った。
「この辺りには食える野草や茸がいくつかある。
たとえばこの薄葉は腹にやさしく、煮れば味も悪くない。
それから、木の根に群れる小白って茸。湿りすぎた地では腐るから、乾いた地面のを選べ」
ミロは真剣な眼差しで頷く。
リースが横から「俺は昔、間違えて似たやつ食って三日寝込んだ」と苦笑した。
カイは手にした葉を軽く捨て、低い声で続けた。
「知っておけ。知識が、お前の小隊を救う。
腹を満たすためじゃない、生き延びるための知恵だ」
その言葉は夜の名残を残す森に、ひっそりと沈んでいった。
***
日が高くなる頃、三人は目的地の丘陵地帯へと足を進めた。
霧はすでに晴れかけ、代わりに乾いた風が頬をかすめる。
斜面を登る途中、カイが立ち止まり、遠くを指さした。
「見えるか? あの木立の向こうだ。ここが監視線の端。
過去に敵国の斥候が姿を見せたことのある場所だ」
ミロは喉の奥で息を呑んだ。
そこにはただ、静かな森が広がっている。
だが、風が通るたびに草の流れが変わり、まるで何かが潜んでいるかのように感じられた。
カイは慎重に身を低くして続ける。
「ここから先は見張りだ。敵と出会うのが目的じゃない。
姿を確認し、動きを掴む。それが斥候の仕事だ」
リースが小声で。
「出会ったらどうしますか?」
「基本的には撤退する。それ以外に正しい答えはない。
……だが敵が近くに来ているとの情報もある。その時に俺が指示を出す」
カイの即答に、二人は黙って頷いた。
ミロは鎌の柄を握りしめ、静かに息を整えた。
霧が完全に晴れたわけではない。まだ森の奥には淡い白が残り、
その奥に何が潜んでいるのかは誰にも分からない。
――見て、戻る。
胸の奥でそう呟き、ミロは足を止めた。
森の風が頬を撫で、斥候たちの新たな一日が、音もなく始まっていった。




