第16話 単純であり難しい質問
トマ
年齢: 19歳
職業: 牛飼い
性格: 素朴・明るい・慎重
特徴: 故郷をよく語る。家族的温もりの象徴。
カディンは姿勢を正し、壁の地図を指し示した。
「では次に――我々の役割について説明する。」
その声に合わせて、講堂の空気が一層張りつめる。
地図の上には無数の印と線が交錯し、戦線、補給路、監視地点を示す赤と青の印が複雑に絡み合っていた。
兵たちの視線がそれを追うたびに、緊張の色が濃くなっていく。
カディンは淡々と話し始めた。
砦が担う役割、物資の流れ、哨戒の重要性――
そのどれもが、訓練場で聞いてきた号令よりも重く響いた。
「……この砦の責務は、ただ守ることではない。
支え、繋ぎ、そして敵を見定めることだ。」
短い言葉の裏に、無数の意味が込められていた。
兵たちは一言一句を逃すまいと耳を傾ける。
その後も、カディンは作戦や任務の概要を淡々と語り続けた。
砦を起点とする行動の流れ、斥候と弓兵の連携、補給の危険、そしてそれを守るための動き。
詳しい数字や地名こそ不明な部分も多かったが、語られる一つひとつの言葉が、兵たちの胸に現実として突き刺さっていく。
やがて時間の感覚が曖昧になるほど、講堂の空気は熱を帯びていた。
誰もが息を詰め、まるで次の瞬間に命令が下るかのように身を強ばらせている。
それは、いつもの行軍訓練とはまるで違う緊張だった。
***
カディンの説明が一段落すると、しばしの沈黙が訪れた。兵たちは息を詰め、壁に映る地図を見つめたまま微動だにしない。
その視線を一度すべて受け止め、カディンは静かに口を開いた。
「――以上が、現時点での作戦方針だ」
言葉を区切り、講堂をゆっくりと見渡す。
視線の先には、ガレスや数名の上官たちがいた。
彼らの顔にも、緊張の色が見える。カディンは彼らを見据えたまま、わずかに声を低めた。
「――ここにいる上官たちは理解しているはずだ。
今この砦にいる兵の練度は、日を追うごとに上がっている。
だが、それは単に槍を振るう腕が強くなったという話ではない」
彼は指を軽く立てて、静かに言葉を続ける。
「戦場で命令を下すということは、責任を背負うということだ。
部下の命を預かる者は、失敗を恐れてはいけない。
だが同時に、失わせてはならぬ命があることを忘れてもいけない」
「……私やここにいないルガン隊長にもいえるがな」
カディンはわずかに笑みを浮かべる。
「責任というのは、常に結果の中で問われるものだ」
その声は冷たくも温かく、石壁に反響して広がった。若い兵たちは息を呑み、上官たちは無言で頷いた。
カディンはわずかに視線を落とし、続ける。
「徴募兵としてこの砦に来た者も、今はもう兵士だ。それはつまり、この国を守る一部であるということだ。
お前たちは命令で動くことは最優先だが、駒ではない。
この土地に暮らす者たちの盾であり、壁であり、誇りである。
――それを自覚した瞬間に、人は兵士になる」
カディンは一拍置いてから、わずかに口元を引き結んだ。
「……だが、理解している。ここにいる者のすべてが、最初からこの場所に志願して来たわけではない」
ざわめきが講堂をかすめた。
その中で、カディンの声は不思議な静けさを持って響き続けた。
「いきなり徴募され、日常から切り離され、武器を握らされた。
中には――王国や我々に、憎しみや恐怖を抱いた者もいるだろう。
それは自然なことだ。人として当たり前の感情だ」
彼はわずかに視線を落とし、机の上の羊皮紙に指を置いた。
「だが、諸君らが兵士となることで、その怒りや恐れは別の形に変わる。
それは守るための力になる。」
短く息を吐き、再び全員を見渡す。
「戦うことだけが兵士の仕事ではない。
残された者を守り、帰りを待つ者を失望させぬこと――それが、この国を支える意味だ。
たとえこの戦がいつ終わるかわからずとも、諸君らが立つ場所こそが、人々の生きる境界線になる」
講堂の空気が、再び静まり返る。
誰もがその言葉の重みを噛みしめていた。
怒りや恐怖、憎しみ、後悔――それらが、いつの間にか責務へと姿を変えていくのを、兵たちは肌で感じていた。
カディンは、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「――この砦を守る者たちよ。己の剣が他人のために振るわれる限り、諸君はすでに、この国の誇りだ」
言葉が一つひとつ、まるで槍の穂先のように鋭く響く。
それは叱咤でも称賛でもなく、ただ真実を告げる声だった。
***
講堂の中には、重くも穏やかな静寂が漂っていた。
カディンの言葉を受けて、兵たちは皆うつむき、何かを噛みしめるように黙り込んでいる。
その沈黙の中には、恐れも怒りも、そして確かな決意が混ざっていた。
やがて、カディンは壁際に並ぶ上官たちへと目を向けた。
ガレスも他の上官も一言も発せず、真剣な眼差しで前を見据えている。
講義はすでに終盤に差しかかっていたが、誰一人として気を抜いてはいなかった。
「……いい顔をしているな」
カディンが小さく呟くように言った。
「兵だけではない。上官である我々もまた学ばねばならん。戦は命令だけで勝てるものではないからな」
軽く息を吐き、講堂の中央へと視線を戻す。
「では――これで本日の座学は終了だ」
静かな声が石壁に反響し、広間の空気がゆるやかに落ち着いていく。
「ここまでの内容で、疑問や意見のある者はいるか?」
その言葉が合図のように、兵たちの間にわずかなざわめきが広がった。
誰もが顔を見合わせ、何かを言い出そうとしては口を閉じる。
やがて一人が手をあげ、質問を始める。
補給の経路、哨戒の順序、報告の手順――どれも実務的で、現実的な問いばかりだった。
カディンはそれらを一つずつ丁寧に答えていく。
その声は淡々としているが、どの答えにも無駄がなく、聞く者の胸に確かな重みを残した。
やがて質問が途切れ、再び静寂が戻る。
それはまるで、誰もが次の言葉を飲み込んでいるような沈黙だった。
その時、後方からひとつの声が響いた。
「……作戦や任務とは違いますが、一つだけ――聞かせてください」
講堂の視線が一斉にその方向へ向かう。立ち上がったのは、トマだった。
彼は姿勢を正し、迷いを抑えるように息を吸い込んだ。
兵たちの間に、わずかにざわめきが広がる。
作戦や任務以外の質問――その一言が空気を変えた。
訓練でも講義でも、そんな場面はほとんどなかった。
周囲の兵が息をひそめ、上官たちの視線が一斉にカディンへ向けられる。
だがカディンは、その視線を受け止めたまま微動だにせず、やがて静かに頷いた。
「構わん」
低く、しかし穏やかな声だった。
「戦場に立つ者が抱く疑問に、重いも軽いもない。……言ってみろ」
講堂に漂っていた緊張が、わずかに揺らぐ。
トマはその言葉を受け、もう一度深く息を吸い、まっすぐに前を見据えた。
「どうなったら……この戦争は、終わるんですか」
静かな声だった。
だが、その言葉が放たれた瞬間、講堂全体が息を止めた。
誰もが心のどこかで抱いていた疑問――
それを、誰よりも真っ直ぐな形でトマが口にしたのだ。
カディンはしばらく無言のまま、地図に視線を落とした。
指先で赤と青の線をゆっくりとなぞりながら、深く息をつく。
「……単純であり難しい質問だな」
低く響く声が、静まり返った講堂に落ちた。
「戦争は、勝ったから終わるわけではない。
誰かが降伏したからといって、明日から平和になるわけでもない」
カディンは顔を上げ、まっすぐにトマを見た。
「本当に終わるのは、『お互いが認め合い対話が始まった時』だ。
だが、その対話の場を作るために、我々は剣を取らねばならない。
皮肉な話だが――戦うことでしか、言葉を交わせない時代がある」
その声には、怒りでも嘆きでもない、ただ深い現実の響きがあった。
トマは何も言い返さず、唇を噛みしめた。
カディンは、口元を引き締める。
「戦場に立つ者の使命は、ただ生き延びることではない。
次に続く者が、再び剣を取らずに済むようにすることだ。
――それこそが、戦を終わらせる唯一の道だ」
講堂を包む空気が、静かに沈んでいく。誰も拍手も声も出さなかった。ただその沈黙の中で、確かに何かが変わった。
エドリックは無意識に拳を握り、手のひらに爪が食い込む感覚を感じながら、じっと前を見据えていた。
隣のミロは小さく息を吐き、静かに目を閉じた。
彼の耳には、遠くで風が鳴るような錯覚があった――あの森を駆け抜けた日々とは違う、もっと重い音。
ロランは地図に描かれた赤い線を見つめたまま、まるでそこに見えない矢を放つかのように、微動だにしなかった。
その瞳の奥には、もはや狩人ではなく、兵としての確かな意志が宿っている。
ダリルはいつもの軽口を飲み込み、唇をきつく結んでいた。拳を膝の上に置いたまま、背筋を伸ばす。彼の喉が、何かを言いかけては止まるたび、小さく動いた。
レナードは盾を構える時と同じように、胸の前で手を組み、視線を落とした。
その眉間の皺は、恐れではなく決意の証だった。
オズワルもまた、僅かに首を垂れながら、言葉を噛み締めるように沈黙していた。
彼の肩は微かに震えていたが、それは怯えではなく――何かを守りたいという感情が、内から押し上げているようだった。
トマや周囲の兵たちも同じだった。
誰一人として声を出さず、誰も動かない。ただ、全員の胸の中で何かが確かに動いていた。重い空気の中に、息づくものは絶望ではなく、静かな覚悟だった。
壁際に立つ上官たちの顔もまた、固く引き締まっていた。ガレスは腕を組み、目を伏せたまま動かない。その瞳の奥には、言葉にできない思いが灯っている。
ほかの将校たちも無言でカディンを見つめ、その一言一句を心の奥に刻むように立っていた。
講堂の中を満たす沈黙は、もはや緊張ではなかった。
それは――戦場へ向かう者たちだけが共有する、静かな誓いのような空気だった。




