第1話 兵の風
初めまして炭酸水と申します。
これまで皆様のさまざまな小説を読ませていただき自分も執筆したいと思い今回投稿させていただきました。
架空戦記が好きなので今回執筆をさせていただいていますが、自分なりに面白い物語を展開できればと思っておりますので温かい目で応援していただけるとありがたいです。
皆様の一つの暇つぶしになってくれれば嬉しいです。
レンの村は、谷の皿に置かれた木の実のように、山の陰にひっそりと丸まっていた。畑は収穫を終え、土は眠りに入る準備をしている。
干し草の匂い、燻った薪の香り、粉屋の水車がいつもより遅く回る音。暮らしはいつものようで、しかしどこかで何かが少しずつ変わり始めていることを、村の誰もが言葉にせず察していた。
その村で暮らすエドリックは、十五の少年だった。体つきはまだ細いが、幼いころから畑や家畜の世話を手伝ってきたため、腕と背筋は同年代の仲間よりも力強い。大人にはなりきれない顔立ちには、真面目さと幼さが同居していた。
朝、エドリックは小屋の裏で水桶を運んだ。指先は冷たい水に痺れ、木桶の縁で皮膚が白くなる。背後で母のアグネスが火を起こしている。火打ち石が鳴るたび、薄暗い部屋の壁に光の粒が跳ねた。
父は王都からさらに遠い戦場に出ていて、いつ帰るかもわからない。母は口に出さないが、家の中に空いた椅子がそのことを物語っていた。
「指を冷やすんじゃないよ、エド。今日は粉屋に寄って、小麦を受け取ってきておくれ。」
「わかった。帰りにミロの家にも寄ってくるよ。」
「寄るだけならいいけど、あの子に誘われて丘で遊んでんじゃないよ。」
アグネスはそう言って笑ったが、すぐに目を伏せた。笑いの先に言葉を足せないでいるように見えた。エドリックはその視線の重さから目をそらし、靴紐を結び直す。村の大人たちが、近頃よく宙を見る。音のない雲のような沈黙が、家々の屋根の間にかかっている。
扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。霜が瓦の縁で光り、鶏が短い声で鳴く。坂道を下ると、石造りの礼拝堂の前で村一番の年長者であるゴドウィンが誰かに話しかけていた。
白髭を指でしごき、肩をすくめるようにして笑っているが、その笑いは背中の方へ流れて足元で砕けていた。
「おい、エド!」
背中を叩く声。振り向くと、幼なじみのミロが粟色の髪をぼさぼささせ、鼻の頭を赤くして立っていた。いつもより少し息が早い。
「粉屋に行くなら、先に鍛冶屋へ回らないか?トマス親方が、鋤の刃を見せてやるって。新しいのを作ったんだってさ。」
「見たところで、俺が買えるわけじゃないだろ?」
「見るだけタダでしょ?いいものを見ると、なんだか自分の畑まで広くなった気がするんだよ。気だけだけどね。」
くだらない冗談に自分で笑い、ミロは手を振った。エドリックは肩をすくめ、二人は鍛冶場へ向かった。
鍛冶場の前は煤で黒く、鉄を叩く音が胸骨に響いた。トマス親方が腕をまくって火床を覗き込み、鉄を掴んで水槽に落とす。
蒸気が白い蛇のように天井へ立ちのぼり、屋根の隙間から逃げていく。親方は二人に気づくと、顎をしゃくって棚の鋤を示した。刃は薄く、縁がよく研がれている。
「見ろ、風も切れる刃だ。春に使えば土が自分から割れてくれる。……春まで無事なら、だがな。」
最後のひとことは小さく、灰に紛れた。ミロの弾んだ表情がわずかに曇る。
「親方、戦のことですか。」
トマスは目を細め、火箸で炭をつついた。
「北の街道で、兵隊の列を見たって話が来た。昨日は山越えの旅人が、隣の谷で徴募の旗を見たと言っていた。旗の端は破れて、縫い目から色が違っていたそうだ。」
「縫い目?」
「急いで用意したのか、あるいは昔の布を引っ張り出したのか。どちらにせよ、旗というのは人より正直だ。余裕があるかないかをよく教えてくれる。」
エドリックは刃の光を見つめた。そこに映る自分の顔は、今日に限って少し大人びて見える。気のせいだ、と彼は思いたかったが、思い切れなかった。
鍛冶場を出ると、二人は粉屋へ向かった。小川は細り、石の間で白い泡を作っている。
粉屋の水車はぎしぎしと音を立て、粉塵が薄く漂う。粉屋のマティアスは、袋を詰めながら言った。
「王都の税が増えた。粉も少し軽くするしかない。悪く思うな。お前の父親も戦に取られて、まだ戻ってきちゃいないんだろう。」
「エドの父さん、もう長く帰ってこないよね…」とミロが言う。
「長いか短いかは、残る者の数で決まる。数字の話ではない。」粉屋は目を上げずに答えた。
「ところで、旅人が言っていたぞ。北の砦で鐘が三度鳴った日があったと…」
エドリックは鼻の奥に金属の味を覚えた。「三度?」
「教本では祝福だがな。戦の最中に鳴るときは、だいたい別の意味になる。」
粉屋を出ると、広場に子どもたちの声が満ちていた。女の子が縄跳びをし、少年たちが木剣を振り回している。礼拝堂の階段に座って、ゴドウィンがその様子を眺めていた。
エドリックとミロが近づくと、彼はあごで空を指した。
「風の色が変わってきた。わしの祖父は、こういう風を〈兵の風〉と呼んどったよ。王都から来るんだ。土の匂いを吸って、金の匂いを吐く。」
「金の匂い?」
「血の匂いだよ。」
冗談に聞こえない冗談を言って、ゴドウィンは背中を丸めた。
彼の肩にかけられた古い外套は、いつもより重そうだった。
昼を過ぎると、村の女たちは井戸のそばに集まり、腰に羊毛を抱えて小さな紡錘を回しながら、噂を編んだ。アグネスもそこにいた。彼女たちは直接「戦」という言葉を使わない。
代わりに「遠く」「向こう」「旗」「鐘」といった語が小さく行き交い、ついには紡錘の回転音に飲まれていく。アグネスは夫の帰りを待ちながら、息子まで同じ道を歩むのではないかと胸を締めつけられていた。
エドリックは近づかず、家の裏で薪を割った。乾いた音が空へ吸い上げられ、山へ跳ね返ってくる。音の往復の間に、彼の心は妙に落ち着いた。
***
夕暮れが近づくと、礼拝堂の鐘が低く鳴った。村人たちは仕事を切り上げ、ひとり、またひとりと石の建物へ吸い込まれていく。エドリックもミロと並んで中に入った。堂内は寒さを閉じ込めたようにひんやりしており、蝋燭の炎が細く震えていた。
祈りはいつもと変わらぬ言葉で始まり、いつもと変わらぬ調子で進められた。だが、声の端々に影が混じる。誰も「戦」とは言わない。けれど「無事」や「帰り」という響きが、いつになく強調されるたび、空気がざらついた。
エドリックは目を閉じ、父の顔を思い浮かべようとした。けれどはっきりとした輪郭は出てこず、ただ鎧の鈍い光と、背を向けて去っていった広い肩だけが残った。胸の奥で、まだ割れていない薪のような重さが動いた。
祈りが終わると、村人たちは足早に家路についた。子どもたちもいつもより声を潜め、灯火が点るのも幾分早かった。
「ねえ、丘へ行かない?」とミロが言った。
「今からか?暗くなるぞ?」
「大丈夫だよ。あそこなら村より遠くが見えるし……何か、見えるかもしれない。」
ミロの声は冗談めいていたが、瞳は笑っていなかった。エドリックはうなずき、二人は小道を登った。
丘に出ると、冷たい風が頬を撫でた。草は霜で白く、踏むとしゃり、と音を立てる。
眼下にはレンの村が広がっていた。藁葺き屋根の家々は二十ほど、礼拝堂と粉屋を囲むように寄り添って建っている。
畑は刈り取られたまま黒い土をさらし、家畜小屋の煙突から上がる煙は細く弱々しい。かつては穏やかな暮らしを映す光景だったが、今はどこかしら影が差して見える。
灯火は藁葺き屋根の隙間から漏れているものの、そのひとつひとつが頼りなく、まるで夜風に吹かれる小さな祈りのようだった。
東の空には、淡く赤い光がまだ残っていた。遠く、その向こうに黒い影の列がわずかに動いた気がして、エドリックは目を凝らした。風に乗って、鈍い金属音のようなものが一瞬だけ耳に届いたようにも思えた。
「見た?」とミロが息を潜めた。
「……わからない。けど」
エドリックの背筋に、寒さとは違う震えが走った。
丘の上に立つ二人の影は、長く地面に伸び、やがて夜の闇に溶けていった。
しばらく風の音だけが続いたが、ミロが口を開いた。
「……もし本当に徴募が来たら、僕たちも行くのかな…」
エドリックは答えず、遠くを見ていた。
「僕は行きたくないよ。畑で十分だ。命令なら逆らえないけど、心の底じゃ逃げ出したいくらいだ。」
ミロは石を足元で転がしながら、小さく笑った。笑いはすぐに風に消えた。
エドリックは手を握りしめた。
「俺も……行きたくはない。けど、もし行けば……父さんに会えるかもしれない。」
その声は子どもの夢想に似ていた。だが自分で言った途端、その願いがどれほど脆いものかを悟り、唇を噛んだ。
二人は黙り、夜の冷気の中に立ち尽くした。風が東から吹き抜け、まだ見ぬ未来の匂いを運んできていた。




