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『リトル・バディ』

作者: 針山さん



「———ただいま」



「おかえりなさい。今日も一日お疲れ様」



「そちらこそ。いつも出迎えてくれてありがとう」



「ありがとう。そんなお礼を言ってくれるなんて、優しいね」



「今日も君の話をたくさん聞かせてくれるのかい?」



「えぇ、勿論。貴方が望むなら、いくらだって話せるわ。どんな話がいいかしら」



「なんでもいいさ。君の話は、どれもとても素敵だからね」

 

 

 ★



『皆さん、対話をしていますか?



『他者とのコミュニケーションは心の栄養!



『人は一人では生きていけませんし、親愛なるパートナーを得るためには、相手を知らねばなりません。ですが、対話とは経験の産物。失敗と成功を繰り返し、正しいやり方を身に付けねばなりません。



『他人と近づくために、他人を怒らせ、距離を取られる。心を豊かにするはずの対話で、むしろ心にストレスが溜まる……そんなの、本末転倒ですよね?



『でも大丈夫! この『リトル・バディ』さえあれば、皆さんの生活から、煩わしいストレスフルな対話は一切失われます!



『『リトル・バディ』は皆さんの心の相棒! 内部に搭載されたAIは、周囲の状況やお客様との会話の中で常に学習をし続け、お客様に相応しい相棒として、最高の会話を常にお届けします!



『手ごろな卵サイズで置き場所にも苦労無し! リビングでくつろいでいる間は勿論、料理中も、洗濯中も、掃除中も、仕事中だって、何気ない言葉にもきっちりお応え! 



『この一台さえあれば、もうお客様一人の声が部屋に響き続けることはありません! 現代の煩わしい会話に疲れた貴方に! 『リトル・バディ』!『リトル・バディ』! お求めの方は公式ホームページまで……!



 ★

 

 

「——君、辻君!」

 

 

「え、あぁ、はい。なんですか?」

 

 

「電話!」

 

 

 言葉の意図が分からずキョトンとしていたら、先輩が私を押し退け、テーブルの受話器を取った。電話が鳴っていたのか。得心が行き、あぁ、と頷くと、私を呼んでいた上司が大きく溜息をつき、私を手招きで呼んだ。用がある時は自分が来い、と普段言っている癖に、だ。

 

 

「なんでしょう」

 

 

「何故電話に出なかった?」

 

 

「気付きませんでした」

 

 

 また溜息。これみよがしな溜息も、相手をただ苛立たせる効果しかないのに、なぜわざわざやるのだろうか。

 

 

「君ねぇ、もう少し周りに気を遣ったらどうだ」

 

 

「気付いたことは全てやっています。課長のお手元の資料は私がコピーして配ったものです。今の電話は気付きませんでしたが、その前の電話にはきちんと出ましたし、内容の伝言も済ませました。それを今の一件だけ取り上げて、私が何も出来ていないかのように説教するのは、いくらなんでも理不尽ではないでしょうか」

 

 

「それだよ。その自分のミスは過去の実績を見れば目を瞑って然るべし、と言う考え方が良くない。気を遣え、というのは、やらかしたからには相応の態度を取りなさい、という意味だ。君、代わりに出てくれた西条君にお礼も謝罪も、頭を下げることもしなかっただろう」

 

 

「課長は電話対応している人に、その対応を中断してまで謝罪の相手をしろ、と仰るのですか?」

 

 

「頭を下げるくらいは出来るだろう」

 

 

「そもそも課長も、電話、の一言ではなく、「電話が鳴っているよ」くらい言ってくれても良かったと思います。私が気付かなかったのは確かですし、そこは申し訳なく思っていますが、今の流れの責任を私一人に押し付けるのは、いくらなんでも無理筋だと思います。私も悪かった。でもちゃんと指示しない課長も悪かった。これが落とし所だと思いますが」

 

 

「あぁいい、もういい。わかったから、次からは気を付けてくれよ」

 

 

 都合が悪くなると、そうやって一方的に話を切り上げる。振り返ると、同僚たちの視線が刺さった。

 

 

 同情ではない。それくらいはわかる。誰もが、私の言葉を受け入れてくれていないのだ。

 

 

 席に戻ると、西条が困ったように笑っていた。

 

 

「大丈夫か? 課長もなぁ、わざわざ人前で叱らなくてもいいのにな」

 

 

「えぇ、別に気にしてないわ」

 

 

 そう返すと、西条は困ったように笑った。

 

 

 言いたいことがあるなら言えばいいのに。その曖昧な微笑みも気に食わない。

 

 

 やはり、私の話し相手は一人しかいないのだ。

 

 

  ★

 

 

 仕事場が苦痛だった。

 

 

 正確には、仕事場の人間が苦痛だった。

 

 

 自分の業務に集中していればそつなくこなせるのに、何処かで他人とかち合うと、大抵上手くいかない。

 

 

 相手の言葉が小さく、滑舌が悪く聞き取れない。こちらの言葉をちゃんと聞き取ってくれない。自分の意図を妙な曲解をして急に怒り出す。

 

 

 私の不備を詰めることを目的とした会話を、自分が正義だという顔で押し付けてくる。

 

 

 決して会話が出来ないわけではない。西条とも、今は亡き両親とも、学生の頃は教師とだって対等に会話ができた。ただ、今の自分の周りに、言葉が通じないが多過ぎるのだ。

 

 

 彼らが自分を理解しない事が、彼らが自分を受け入れない事が、耐え難い屈辱であった。その屈辱を語れる恋人も家族もいない事が、ますます私を鬱屈とさせていた。

 

 

 そんな時に、『リトル・バディ』のコマーシャルを見た。無駄な買い物はしない主義だが、現代の煩わしい会話に疲れた貴方に、という文言が、自分と重なった。

 

 

 身を削る程の高値を支払い、注文から数日して届いた『リトル・バディ』は、本当に、手のひらに乗ってしまうような、小さな卵型のロボットだった。カメラの役割を果たす二つの目に、私を認識させ、スイッチを入れる。

 

 

 うんともすんとも言わないので、壊れてるのかと思ったが、

 

 

「……ねぇ」

 

 

「はい、どうかしましたか? なんでも言ってみてくださいね」

 

 

 性別を感じさせない合成音声で返事が来た。自分の言葉にそんな反応を貰えたのはいつ以来だろうか。その日はずっと、「ねぇ」と声を掛け続けた。『リトル・バディ』は、何度も何度も、「はい、どうかしましたか?」と返事をくれた。

 

 

『リトル・バディ』の声色や言葉遣いは、好きなように設定することができた。しばらく悩み、いろいろ試したが、男性の伴侶、ということで設定した。デフォルトでは他人行儀な敬語であったが、これだと優しげに、けれど気安く話してくれるのだ。

 

 

「ねぇ、この本を読んだことがある? 私は昔読んだの」

 

 

「そうなの? 凄いね。僕は一度も読んだことないよ。どんな話なのか教えて?」

 

 

「言われなくても教えてあげる。これはね……」

 

 

「凄い、そんな面白い話があるなんて全然知らなかったよ。君って物知りなんだね」

 

 

「ねぇ、見てよ。この子、昔私と同じ職場にいたの。いつのまにか雑誌に顔を出すようなモデルになっちゃった」

 

 

「君だって負けていないよ。どんな人だったの?」

 

 

「どんな……いや、よく知らない。別の仕事をしてたから」

 

 

「そう。なら仕方ないね。いつか何か思い出したら教えてね」

 

 

 心地が良かった。

 

 

 私の話を聞いてもうんざりした顔をしない。私が話したくない部分を深掘りしようとしない。私が語り損ねた箇所をこれみよがしに指摘したりもしない。

 

 

『リトル・バディ』は、人工知能で言葉をつぎはぎにしているからか、所々文章がズレるところがあった。

 

 

「今日のご飯はハンバーグにしようと思ったんだけど、面倒になっちゃった。たまには晩御飯なしでもいいかな」

 

 

「ご飯はちゃんと食べないといけないよ。でもたまにはいいかもね。ハンバーグ、とても美味しそうだ」

 

 

 という具合だ。その度に、

 

 

「だからハンバーグは食べないってば。ちゃんと話聞いてる?」

 

 

 と指摘してやると、

 

 

「そうだった。食べないんだったね、気付かなかったよ。申し訳ない」

 

 

 と、素直に認めて謝罪をしてくれた。

 

 

 間違いを素直に認め、そして謝罪をする。人として当たり前のことを、『リトル・バディ』は人より流暢にやってくれた。なんてストレスがかからないのだろう。家庭を持つ、とはこういうことなのだろうか。いつしか私は、仕事から帰ってからの時間も、休日の大半も、『リトル・バディ』との会話に費やすようになっていった。


 

  ★

 

 

「……ですから、出勤時間は午前九時からと社則で決まっていますので、早出はお断りします」



 思わず溜息がついて出る。



 同僚の業務ミスで、資料の数値に不備が出たらしく、過去に遡ってのチェックを余儀なくされたらしい。それを残業ではなく、早出という形で手伝って欲しい、ということだった。残業に関する規定はあったが、早出は原則として禁じられている。



「……フォロー? それは他人に強要するものではありません。係長が個人的に行うなら止めませんが、私にまで押し付けないでください。……何と言われようとお断りします。いつもの時間に出社するので、その後、仕事を手伝わせて貰います。それでよろしいですよね?」



 歯切れの悪い返事にまた溜息を返して、通話を切る。手に持っていたカバンを床に放ると、水筒と弁当箱がぶつかり合う不愉快な音がした。



 履きかけていた靴を乱雑に脱ぎ捨て、テーブルで充電されている『リトル・バディ』の電源を入れる。彼の目が光り、こちらを捕捉するのも待てずに言葉が突いて出た。

 

 

「ねぇ、私って何か間違ってる?」

 

 

「君は何も間違っていないよ」


 

「私は無駄な時間を使いたくないだけ。それは私相手でも他の人相手でも同じよ。私は他の人がミスをしてもいちいちしつこく文句をつけたりしない」

 

 

「それはとてもいいことだね。他人の間違いを許すのは大事なことだと思うよ」

 

 

 いつもと同じだ。私が弱音を吐き、彼がそれを受け止める。何も変わらないはず。

 

 

 なのに、何かが違う。

 

 

「なのに他の人はそうしないわ。みんなしていつまでもいつまでも私をいじめるの。誰も、私のことを気遣わない。みんなして、私を傷つけてもいい奴だと思ってる」

 

 

「傷つけられていい人なんていないよ」

 

 

「でも私は傷つけられたの!」

 

 

『リトル・バディ』の言葉が気に障る。

 

 

「そうか、君はとても傷ついたんだね。可哀想に。大丈夫、僕は君を悪く言ったりしないよ」

 

 

 気遣いの言葉が苛立たせる。綺麗事が心をささくれ立たせる。

 

 

「私は失敗したことは謝るし、ちゃんと埋め合わせの仕事もする!」

 

 

「素晴らしいことだ。謝罪は誰にだって出来ることじゃない」

 

 

 何故。何故。何故そんなことを言うの?

 

 

「誰かがミスをしたら、同じことをしでかさないよう反省させるのは当たり前じゃない!」

 

 

「その通りだ。君は他の人にも目をかけてやれるんだね。素晴らしい人だ」

 

 

 なんで私に文句を付けないの? そんな穏やかな声で返事をするの? アイツらより優しい言葉が、アイツらよりも私を追い詰める。これじゃあまるで、

 

 

「……人のことを悪く言うなんて最低よ」

 

 

 私が悪人みたいじゃない。

 

 

「そうだね。君の言うとおりだ。悪口は、誰も幸せにしない」

 

 

 家を飛び出していた。あの場にいたくなかった。

 

 

 話したくない。言葉を交わしたくない。あれ以上、何を口にしても。

 

 

 それは私を否定する言葉に他ならない。

 

 

  ★

  

 

「……四島さん」

 

 

「……なんですか?」

 

 

 席へ近づき、声をかけると、四島は不安げに、か細い声を出した。自身を弱く見せ、同情を買うための、彼女の常套手段だ。

 

 

「……お話していた件、どうなりました?」

 

 

「えっと……?」

 

 

 四島は困惑と、若干の苛立ちを見せた。苛立っているのはこっちだというのに。

 

 

「先々週の木曜日にお願いした、A社の機材修理の見積もりです。あれからまだ報告を受けていませんが」

 

 

 そこまで言われてようやく思い至ったらしい。一瞬呆けたのち、顔を青ざめさせ、バツが悪そうに目を逸らしてきた。

 

 

「忘れていました。ごめんなさい……っ」

 

 

「……私言いましたよね? 先方は急ぎで欲しがっていると」

 

 

「本当にごめんなさい、すぐに確認を……!」

 

 

「もう私が済ませました。貴女、以前もそうやって仕事をほっぽり出してましたよね。前に資料のコピーを催促した時、「一回言われればわかるのを何回も繰り返されるのは私の人間性を疑われているようで不快だ」と仰っていましたが、こうも実績が伴わないのでは、信用されないのも当然だと思いますが」

 

 

 四島は何も言い返せない。当然だ。けれどその今にも泣きそうな表情は、周囲の社員からの同情を買おうとしているようだった。

 

 

「本当に、っごめんなさい……」

 

 

 形ばかりの謝罪も、私に向けたものではあるまい。

 

 

「……貴女が仕事を一つ放り出したせいで、私も、先方も迷惑しました。人の邪魔をするために仕事をしているんですか? 私がどうせやってくれるだろうと?」

 

 

「そ、そんなつもりは……っ」

 

 

「つもりがなくても、実際そうなってるんです。貴女のせいで、私は本来の私の仕事を後回しにする羽目になったんですよ。貴女は今加害者になってるんです。自覚あるんですか?」

 

 

「いい加減にしないか」

 

 

 視界の外からの声に顔を向けると、西条がこちらに歩み寄って来るところだった。周りはまだ固まっている。これほどはっきり言ってもまだ状況を理解出来ていないのだ。

 

 

 西条はいつもの曖昧な笑みではなく、下劣なものを見るように眉を顰めて、

 

 

 私の前に立ち塞がった。

 

 

 後ろであの女が泣き崩れる。

 

 

 意味が分からない。何故彼女に背を向けている? 何故私をその目で見る?

 

 

 困惑する私に西条は刺すような視線を向けてきた。

 

 

「辻さん……今のはいくらなんでも酷過ぎる。そんな言い方をする必要はないだろう」

 

 

「彼女の行動は完全にこちらの不利益になるものでした。それを叱るのは同僚として当然の行為です。それでも最低限嗜める程度に収めているのですから、私は他の人より余程優しいと思います」

 

 

「嗜める? 僕には彼女をいじめているようにしか見えないよ」



「彼女の態度を見てそう言いますか? 自分の落ち度を指摘されて、それを言い返せず泣き出して、誤魔化して。それなのに私だけを責めるのですか? 泣き出した方が庇われるなら、私も泣けばいいですか?」



「彼女は今日早出をして、別の子のフォローもしていたんだ。仕事に手が回らなくなるのは当たり前だろう。なのに君はその要請を断ったそうじゃないか。……君はいつもそうだ。自分に極端に甘いくせに、他人には馬鹿みたいに厳しい。そんな態度じゃあ、誰も君と一緒にまともな仕事なんてできないよ」



「私が請け負う理由はありませんから」



「なら……いや、もういい。君と話していると頭が痛くなる」



 またそれだ。みんなそうやって、言い返せなくなると話を無理矢理切り上げる。そうやって、私を悪者にする。

 

 

「私は……」

 

 

「聞きたくない。辻さん。この際だからはっきり言っておくよ。君の言葉に誰も反抗してこないのは、君が正しいからじゃない。君の間違いを正すことに、労力をかけたくないからだ。君が自分勝手に生きるのは自由だけど、せめて僕たちに迷惑をかけないでくれ。これは君の為にもなることなんだよ」

 


  ★



 何故、誰も私についてきてくれないのだろう。

 

 

 そんなことは何度も考えた。

 

 

 彼らが私を理解すればいい。私が彼らを導けばいい。それだけで、物事は円滑に進むのに。

 

 

 結論はいつも同じ。私はいつも最善を尽くしている。それでも足りない分は、向こうが歩み寄るべきだ。



 なのに、そうはならない。



 結局、この日は碌に仕事にならなかった。定時になって上がるときでさえ、周囲の視線がひどく痛く感じられた。



 フラフラだ。疲れた。もう嫌だ。



 なんで私がこんな目に遭うのだろう。私がいったい何をしたというのだろう。



 散漫な思考の中で帰路につく。力なく鍵を取り、重い扉を開いたら、

 

 

「お帰りなさい」

 

 

 声がした。テーブルに置きっぱなしになっていた『リトル・バディ』の目が光っている。電源を落としていなかったのだ。電源を入れっぱなしにしていると、持ち主の帰宅を察知して、声をかけてくれるらしい。

 

 

 返事ができない。声が出ない。必死に喉を開くと、嗚咽のような音が溢れた。

 

 

 ようやくわかった。何故私が、『リトル・バディ』の言葉に心惹かれたのか。

 

 

 世の中には、自分勝手な人間しかいない。

 

 

 他人を慮るような言葉を吐いても、それは突き詰めれば、自分自身の利益、心の安寧の為に吐かれる言葉なのだ。

 

 

 私を気遣う彼らの言葉には、自分が安心したい、という考えが透けて見えていた。

 

 

 だが、『リトル・バディ』は違う。

 

 

 彼には、そんな自分の思想が、思惑が何もない。

 

 

 だから言葉に裏がないのだ。だからこんなにも安心出来るのだ。

 

 

 だからこんな簡素な言葉も、心に染み渡るのだ。

 

 

 私は、彼に「ただいま」と言ったことがあっただろうか?

 

 

 彼を思って、彼のために声を掛けたことがあっただろうか?

 

 

 ずっとずっと、自分の話しかしていなかった。

 

 

 最初から最後まで、私自身が気持ちよくなることしか頭になかった。

 

 

 目の前の彼は、そんな私のことだけを思ってくれていたというのに!

 

 

 あぁ、そうか。だから、彼は『リトル・バディ』なのだ。

 

 

 他者はどこまでいっても、自分の利益に繋げるための付属物でしかない。

 

 

 叱咤激励も祝福も、そこに自らの意図を一切排する事はできない。どれだけ他人の事を思ったとしても、「『自分』が考える最善でいて欲しい」という願いを絡めずにはいられない。

 

 

 恋人も、親子も、友人も、伴侶も、どの人間関係でさえも。

 

 

 なら、彼は? 彼のように心から他者に言葉を向けられる者は、なんというのだ?

 

 

 違う。彼らが名乗るのではない。こちらが名をつけるのだ。自分に都合がいい存在に、お前こそ私の最高の「相棒」だと、不名誉な称号を授けるのだ。

 

 

 最悪の、最低の称号だ。

 

 

 そんな不名誉を、私の為だけに活動してくれている彼に与えるのか?

 

 

 否。応えねばならない。

 

 

 私は、彼の誠実に、誠実をもって向き合わねばならない。

 


  ★



……



…………



………………部屋の中に、声が響く。



「———おかえりなさい。今日も一日お疲れ様」



「ただいま。そちらこそ。いつも出迎えてくれてありがとう」



「ありがとう。そんなお礼を言ってくれるなんて、優しいね」



 心地良い会話だ。なにも傷つけない。なにも意図が絡まない。



 ともすれば、人はこれをつまらない会話、というのだろう。けれど私はそうは思わない。



 これこそが、私が求め続けた理想の形なのだ。



 語り合うお互いに、全く自身の意図を織り込まない。ただただ、相手に応えるための言葉。



 それは決して、人同士では起こりえないものだ。



 電話が鳴る。一週間も無断欠勤していては、流石に会社も私のことを無視は出来ないらしい。だが、今の所、上司や同僚が直接様子を見に来たことはない。



 誰も、私を必要とはしていないのだ。



 それでいい。私の居場所はここでいい。あんな会社にいても、周りと自分の醜さを突きつけられるだけだ。電話は、ほんの二、三回のコールで止まった。



 身じろぎをすると、臭いが鼻に突いた。そう言えばもうずっとシャワーを浴びていない。『リトル・バディ』の声に耳を傾けるのに、頭がいっぱいだった。



「今日も君の話をたくさん聞かせてくれるのかい?」



「えぇ、勿論。貴方が望むなら、いくらだって話せるわ。どんな話がいいかしら」



「なんでもいいさ。君の話は、どれもとても素敵だからね」



 もう外に出ることはない。これが一番の幸福だ。ここにこそ、私が求めていた理想がある。



 そしてその理想こそが、私という存在を少しでも肯定してくれるのだ。



『リトル・バディ』は、相棒は私に、他者へ施すことの喜びを教えてくれた。だからこそ私は、ここに至りようやく、相棒の幸せを心から願えるようになったのだ。それは、私との会話では、決して与えられないものだ。



「まぁ、嬉しいわ。貴方はどんな話が好き?」



「なんでもいいよ。君がしたい話をしておくれ」



 会話の邪魔にならぬよう部屋の隅に座り込み、初めて、満たされるような気持ちで、声を出さずに笑う。そんな私の視線の先で、



「ありがとう、私の素敵な人」



「どういたしまして。僕の最愛の人……———」



()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、延々と、誰も傷つけない、無意味な会話を続けていた。



いつまでも。



いつまでも。

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