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盗み食い

作者: 黒井翼

 わたしは盗み食いをしました。


 ですが、これはわたしの罪の告白というわけではありません。盗み食いをしたことについて現在のわたしに罪の意識というのはないわけですから、罪の告白というのではその前提を欠くような気がしてならないのです。


 では、どういった理由でわたしが盗み食いしたという事実を語ろうと思ったかといえば、どうしてか理由というものはありません。思い立ったから話そうというのであり、それ以外に大した理由などありようもないのです。盗み食い然り、元来、衝動というのはそういったものなのでしょう。


 そういった理由ともいえない経緯ともいえない動機がありまして話をするわけですから、前置きというのも長くなっても仕方がありません。聞く人が離れて行ってしまっては元も子もありませんので、わたしの盗み食いについてさっそく話し始めようと思います。


 ・


 確かあれは5月ごろだったかと記憶しています。春ともいえない、だとしても到底夏には程遠い、しかしながら気温だけはいっぱしに20度を超え、日中ならば夏日にもなろうかという初夏のよそおいでした。


 わたしは学生の身分でありましたので、お金というものがありませんでした。とはいえ、なに不自由なく暮らし、衣食住に困ったという経験はしたことがありませんので、決して貧しい家庭であったというわけではないのです。家に帰れば三食用意されますし、大学へ通わせていただいいるのがその証拠であります。


 ではなぜお金がないかといえばそれは単純な話、親は生活に必要なもの以外の支給はわたしにしてはくれないからです。その待遇に文句があるように聞こえてしまったのならば訂正しなければなりません。なぜなら、わたしはそれについて一切不満もありませんでしたから。むしろ、生活に必要なものであればなんでも不自由しないよう便宜を図ってくれるのでありますから、これ以上の贅沢はないといえるでしょう。


 そんなわけでわたしの両親の方針に文句があるわけではないものの、やはりわたしの趣味趣向、欲しいと思うものを買うお金は必要であって、その分のお金を工面する必要があります。そうしてわたしはレストランでアルバイトというのを始めたのでした。


 初めて働くという経験をすることになったわたしにはアルバイトというのは新鮮でなりませんでした。わたしの勤めたのは洋食屋で、キッチンでシェフの手伝いをする役割でした。キャベツを刻んだり、ニンジンの皮をむいたり、ときにはハンバーグのたねをこねたりもしました。


 今まで客として入るのみだったレストランの内部を知ることになり、おおげさにも私は社会の仕組みを手に取る様に理解した気になるのでした。思えば、レストランというのは料理を提供してお金をいただくという簡単な仕組みなのですから、たいそうなことは何一つないのであります。


 わたしが社会の中では生まれたばかりの赤子同然であったことはいうまでもありません。いかに大学生として、大人に振舞っていようとも、働く大人たちからいわせてみればまだまだ子供なのであります。親がわたしをみて子供だという気持ちもわかるというものです。かつては親に子供だと言われては、なんだか精神的に幼いと言われたような気がしてよく反発したものですが、社会経験のなさというものは侮ってはなりません。その反発こそが幼さの象徴なのでもありますから。


 アルバイトを始めるにあたって、どこで仕事をするかということはまず考えなければならないことでしたが、通いやすいというのが重要であるというのは聞かされていたため、いくつか候補はありましたが徒歩圏内にあるレストランにしたのです。


 しかし、レストランで働くについて一つの問題がありました。わたしは家の中にいては家事の手伝いは人並みにやってきたつもりでしたが、恵まれていたので料理だけは毎日母が作ってくれていました。そのためこの大学生という年齢に至るまでキッチンに立ったことがないというのは致命的でした。ひいては、包丁の握り方さえ知らなかったのですから。


 そんなわたしをシェフであり店長であるムラカミさんはどうして雇ってくれたのか疑問ではありましたが、きっと色々な事情があったのでしょうと予想しております。ムラカミさんは五十歳を過ぎた頃の見た目をしていて、性格は比較的温厚であると思います。怒っているところは最後まで見たことがありませんし、優しい人柄でありました。


 既に述べたようにわたしは包丁の握り方、キャベツの千切りの方法すら知らなかったわけですが、ムラカミさんはそんなわたしに一から丁寧に指導をしてくださいました。きっとわたしは覚えも要領もよくなかったですし、器用でもありませんでしたから煩わしい思いをさせていたとは思いますが、そんな素振りは一切出さずにムラカミさんは教えてくださいました。


 仕事に慣れ、ムラカミさんの指導をまったく必要としなくなるまでには約半年ほどかかりましたが、半年かかった甲斐はあったと思います。その頃にはもう仕事をこなす速度もかなり上がり、包丁の扱いも料理に関しても上達していました。


 そんなある日でした。

 

 ムラカミさんはいつもお昼過ぎの客が減る時間になると十分ほど休憩に行くのです。これはわたしがアルバイトを始めた当初から辞めるに至る最後まで、そしてきっと今現在も変わらずだとは思いますが、ムラカミさんの決まり事なのです。客の入り次第ではありますが、大体は昼の十四時過ぎがその時間です。その休憩時間でムラカミさんが何をしているかといえば、トイレとタバコに他なりません。わたしの記憶する限り唯一といっていいムラカミさんの楽しみなのだと思います。

 

 日課の通りムラカミさんがわたしにしばらくの店番を頼み、休憩に向かっていきました。店内の客の数は少なく、わたし一人でも問題なくお店は回せる状態だったので問題なく了解し、送り出しました。


 ムラカミさんが帰ってくるまではわたしは少なくなった千切りキャベツの仕込みをしたり、洗い物をしたり、様々な事をするのですが、その日も例外ではありません。何も特別な事はなかったのです。

  

 そうしてわたしはいつものように足りない食材がないか、仕込みが必要なものが無いかを確認するのでしたが、そこで厨房下の冷蔵庫に入っているキッシュが目に入りました。


 キッシュはレストランで提供している料理の一つで、大きな丸形のキッシュを八等分した一つ分を大皿にのせ、空いているスペースにはサラダとパンを盛り付けてあるものです。仕込みの段階で既にキッシュは焼き上げており、それを冷蔵庫にはそれを冷やして保存しているのです。注文が入れば一つを取り出し、仕上げとしてもう一度焼き上げてから提供します。なので、冷蔵庫に入っているキッシュは最後の仕上げのみを待っている状態でおいてあるのです。


 そんなキッシュを見てふだんのわたしであれば何の感情も抱くことはなかったでしょう。あるとしても、残りの数が少なくなっていないかどうかの確認程度だと思います。ですが、その日は違いました。冷蔵庫にあるキッシュを見たわたしはあろうことか食べたいと思ったのでした。


 キッチンの中にはたくさんの食べ物がありますし、働いていてこれまで全く食欲をそそられることがなかったといえば嘘になりますが、それはおいしそうだから食べたいという可愛い感情であって、テレビ番組で紹介されている食事に興味関心が湧くのと違いはありませんでした。ですが、今回のわたしの中に生まれたキッシュに対する食べたいという感情はなにか重苦しい、黒く欲にまみれた醜い感情であったと記憶しております。


 食べたい、食べたい、食べてみたいとわたしの感情はキッシュをみるほどに増幅し、店のものであるから勝手に盗み食いをするような真似は犯罪がごときことであるからしてはならないという理性を押しのけていくのでした。してはならないと思う一方、バレなければよいのではないか、どうしてバレることがあるだろうかと、食べてしまえとわたしの欲は留まるところを知らないのでした。


 言い訳のように聞こえるかもしれませんですが、わたしはキッシュを盗み食いするような真似をしたいわけではなかったのです。当時よく覚えていますが、腹を空かせていたという記憶もありません。ただ、食べたいというその気持ちのみだったのです。


 本能に従ってキッシュを食べるという行為が、ただ盗み食いをすることになるだけであって、わたしは盗み食いをしたいわけではないのです。言い訳めいていて、理解に苦しむところではあると思いますが、これが事実であり本当の感情なのですから他に言い表しようがありません。食べるという結果として盗み食いになるだけなのですから。


 結果、わたしは葛藤の末ムラカミさんが休憩から帰る前にキッシュを一人キッチンで温め、仕上げを済ませて食べるのでした。その間のわたしがどんな表情をしていたか、それは分かりません。きっとこの世のものではない悪鬼羅刹のようなものだったでしょう。


 話は飛んでさらに数か月後、そのころにはわたしの盗み食いは常態化していました。ばれないようにやっていたのでムラカミさんに気が付かれたことは一度もありません。最初の頃の葛藤も2,3回を超えたあたりからは既に消え失せてしまっていました。本能的行動であるのだから仕方がないのです、と、わたしは自分で納得していますが、酷く利己的であることは理解しています。


 善い行いではないと理解しつつ、罪の意識はないという、わたしはある種の欲望の化け物に成長してしまったのです。


 結局ムラカミさんにわたしの盗み食いがバレることも指摘されることもなく、アルバイトは2年を過ぎた頃に止めました。ムラカミさんが優しさでわたしに盗み食いの事実を言及しなかったのではないかと思ったこともありましたが、どうやらそういうわけでもなさそうなのです。わたしはひとの感情の機微には敏感なほうであるので、間違いないと思います。


 話し始めから大した理由も動機もなかったのですから、この話に驚くような展開もオチというのもありませんが、これがわたしのした盗み食いの全てであります。終始において大した理由というのはなく、必要に迫られたという経緯もありません。


 最後に、ここまで辛抱強く起伏のないつまらない話を聞いていただき感謝を申し上げます。そして、ムラカミさんにはこれからもレストランのさらなる繁盛と発展、飛躍を願っております。


 くれぐれも皆様は私のような醜い人間にはならぬよう、心より願っております。

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