絶望による死 6
「黒山羊の邪神…か」
ヤツの唸り声はまだ聞こえない。いつだって悪夢というやつは構えているとこないのだからいやらしい。
俺は目を瞑り額を抑えてため息が漏れそうになる気持ちを切り替える。
まずジョウノの言った通りに不死身の聖骸布が罠だったとしておかしな点はいくつかすぐに思い浮かんでくる。
「いや、そもそも信者10億人と言われる白の明星が小賢しく罠を貼ったりなんてするわけがないだろ」
その規模なら中小の教会は白の明星に睨まれただけでなすすべなく活動を縮小せざるを得ない。もちろん10数年の歴史しかないイスラフェルズ教会など末端の教会に目をつけられただけで中々に面倒な事になる。もし敵対視でもされれば翌日には本部が瓦礫の山になっているはずだ。それほどに白の明星は格が違う。
「んー末端の教会…というより末端の会社に目をつけられたみたいよ?」
「それもそれで色々とおかしいだろ…」
まぁ恐らくジョウノの曖昧な表現から察するに詳しい事は神父に聞いてみないと分からないのだろうと、つい癖で頭の後ろを掻こうとし、腕を上げようとした時には鋭い痛みで辞めた。
ありゃ、と驚いた様子でジョウノのが刀をしまい駆け寄ってくる。
「あっ、ジョウノさん。おはようございます」
俺は背後からの声に顔を向ける。丁寧に折り畳まれた白い布を両手に抱えペコリとコトネが会釈をした。
俺はゆっくりと壁の方に移動し二人の間から邪魔にならないよう離れておく。
「あっ、うん。おはようコトネちゃん。それが例の聖骸布?」
ジョウノはぴたりと動きを止めジッと不死身の聖骸布を見つめながら言った。
その後ジョウノは一二歩後ずさる。表情も特に変わった様子もないが…コトネや不死身の聖骸布を恐れているわけは無いし俺は少し不思議に思ったが特に口に出さず話の振られたコトネの方に顔を向ける。
「はい」
そう言いながコトネはどこか煮え切らない返事と曖昧な表情で頷く。
部屋からでた時の俺もあんな表情をしていたのかもしれない。そんな気がした。
「…じゃあ私は仕事を終えてるしそのまま家に帰るわ。二人ともまたね」
見たい物が見れたのか言いたい事が言えたのかジョウノのはそう言って軽く手を振り赤いコートを翻しゆったりとした歩きで壁に開けた大穴へと向かっていく。
その姿は二歳という俺との絶妙な歳の差を感じさせるどこかとても大人びた背中に感じた。
「じゃあ…教会向かいましょうか」
聖遺物の入手に関する手続きの書類の為に今回ばかりは教会まで同行しなければならないコトネはどこか纏う空気が憂鬱そうだ。隣を歩くコトネに「そうだな」と頷きボランティアの人が待ってくれているであろう車の場所へ向かった。
「おー今回もお疲れーってジャックいつにも増してすごい傷だらけだな。任せとけ!爆速で教会向かうからな!」
車の窓から顔を出していつものおじさんがニヤリと笑った。俺も釣られて笑いながら「いえ、一端コンビニ寄ってもらっていいですか」と伝える。不思議な顔をしたが了解と頷いてくれた。
「先輩何か買うんですか?」
車が動き出し隣に座ったコトネがそう聞いてくる。前を向いたまま座席の背もたれにもたれかかっているので少し疲れているのかもしれない。手には相変わらず大事そうに聖骸布を抱えたままだ。それもそうか。あの女の人の遺品なのだから。最後に笑い合っていたコトネにとっては余計に意識せざるを得ない…のかもしれない。
そして俺はやはりコンビニに寄ってもらうよう言った自分に少し誇らしくなった。
「ああ飲み物を。あと何かコトネは欲しいものあるか?なんでも奢るぞ」
そう言った俺にコトネは首を傾げ疑うというより眉を軽く上げ純粋に疑問という表情で見てきた。
「あの場面で来てくれたお礼と嫌な仕事を任せた謝罪、後はまだこれから教会で少し仕事をしないといけないから頑張れの気持ちも合わせての奢りだ」
一瞬目を丸くした後、それじゃ奢ってもらっちゃいます、と笑顔を見せて素直に受け取ってくれたようだ。
「はい、これ先輩」
コンビニで買ったクッキーを一つこちらへ向けている。
どうも、と手を伸ばすと手のひらの上でポトリと大きめなクッキーが跳ねた。
「サクサクでホロホロって感じ」
その口調は美味しくて食レポをしている、というより問題点を口に出して理解しようと努めているように見える。表紙も真剣そのものといった様子。
なんでだろうとコトネの選んだカフェオレを吸いながらしばらく首を捻っていた俺は「あぁ」と頷いた。
「アレか」
どうやらコトネの中で落ち込んでいた気持ちには整理がついたようだ。
メンタル管理も仕事のうちとなれば俺よりもコトネの方が一枚上手なのかもしれない。
まだ暗い窓の方が多いビルとビルの間から明るみ出した空の切れ端を見ながらゆっくりと自分の口角が上がってるのを気がつく。どうやら俺の心も今しがた整理を終えたようだ。じんわりとここの所俺の気を重くさせていた不死身の聖骸布というデカい仕事を終えたという実感が湧いてくる。もちろん、なんの罪もない家族が犠牲になったのは相変わらず心に棘として残っているからか叫び出したいほど嬉しいとまで気持ちは上がらない。けれど肩の荷がおりた気がするくらいの感想を持っていてもいいだろう。
そんな夜明け前の清々しさとこれから始まる日常のダルさを合わせたような空気を壊したのは相変わらずイカつい中世風の見た目をした教会についたからでは無かったし、書類の為に事務室に着いたからでも無かった。
「ジャック、コトネ。ご苦労」
「おはよう御座います。ケリンツ大司教」
車を降りてゆっくりとなんでもないような雑談を交わしながら見慣れた通路を歩いていた時、前方の壁がプシュッという音を立てて開き神父が出てきたせいだ。俺は勤めていつも通りの顔で「おはよう御座います」と挨拶をしたつもりではあるが実際露骨に苦々しい表情が出ていてもおかしくないと思えるほど神父の登場は俺の心を憂鬱にさせた。
さらに神父の表情を見て俺の心は暗くなる。
「どうだいコトネも見てみないか?ジャックは次あったら必ず見せると約束をしているのでね」
その口調、その表情。
コトネも少し眉を上げ目を丸くするほどに神父の機嫌がいい。浮かれた様子だ。つまりはそういう事だろうと俺の近い未来を憂う前に俺は神父の前に立ち塞がった。
「コトネはこれから仕事が待ってる」
そういうと神父は何も言わない少しの間があってから口惜しそうに
「ふむ…残念だが労働は神からの罰。従わなければならない。勤めなさいコトネ」
コトネは小さく頷きながら、そっと俺の後ろから神父の横を通り抜ける。
心配そうな視線を投げるコトネに俺は眉を上げてなんでもないような表情で答えた。
「さて」
行くかと気合を入れる。
どうせ残酷で惨たらしい地獄のようなものを見せられるのだ気を張っていないと気が狂いかねない。
「どういうつもりだ」
そんな俺の気持ちを一撃で壊し負の感情のために準備していた心が一気に怒りに傾いた。
そこには両手足を切られた男が磔にあっていた。目隠しに両耳からは細い線が壁に伸びているがそれは些細な事でしかない。このタイミング、あの仕事の後だ。自然と手に力が入る。一発二発では気が収まる気がしない。
「まぁ見ていろ」
神父はそう言いながら全くと言っていいほど俺に興味なさげな様子で磔の男の顔に両手を伸ばした。待てよ、と俺が口に出す前に神父は両耳から勢いよく線を引き抜いた。突然、死にかけ項垂れていた男が勢いよく顔を上げしゃがれた聞き取れもしないようなガサガサの声で「ああ」と言った。瞬間、ガクンと全身から力が無くなった。
俺は一瞬で怒りを忘れ耳から抜かれた線に視線をやる。先は丸くゴムが付いて俺の知っている物の中で一番近いものを挙げるとするならばイヤホンだ。少し音も漏れ出し鳴っている。
クックッと換気扇の回る黒い天井を見上げながら神父が笑っていた。
「あぁ、愉快!」
「俺は不愉快だ」
腕を組んで俺は抗議した。
だが相変わらず聞こえていないかのような様子で神父は振り返る。その目は暗闇で光る猫のように爛々と輝き心底楽しいと言った様子で不気味な笑みを貼り付けている。
「ではなぜこのタイミングでこの男は死んだのか。ジャック答えてくれ」
舌打ちをしながらもしっかりと俺の頭は回り出す。神父との付き合いは長い。以前にもこんな事が何度かあった。流石に今回ほどタイミングが悪い事は無かったが。
(出血多量ではない。なぜなら切断面は荒いし青黒く変色しているものの血は出ていないしあのタイミングでの理由にならない。ならば…)
「ショック死」
「惜しいな、ショック死と同じ原理ではあるがこのタイミングという重要な点を忘れている」
教師がヒントを出すように視線を男から外したイヤホンに視線をやる。渋々ながら俺は部屋を進み屈んで手に取ってみるとイヤホンからはバタバタと廊下を走るような足音と銃声の音が鳴っていた。
俺は眉間に皺を寄せ立ち上がる。もしやと思いはしたが口に出すことすら俺の心が拒んでいた。
「人間は手を切るより、足を切った方がよりショック死を起こしやすい。もちろん太い血管があるからというのもあるのだろうが…逃げられるという希望が潰えた為ではないかと私は考えた」
それを立証する為のあの実験だったというわけだ。神父は思い出したのかクックッと少し笑ってから
「人は絶望によって死ねるのだ」
深く重いため息を思いっきりついてやった。
車の中で軽く応急処置を施した手で頭を掻く。
嫌なことを教える奴もいたものだ。
「…そういえば今の実験を見せたのも昔、神父が言っていた俺の将来は私を最も喜ばせるものになるつぅやつに関係があるのか」
神父と出会ったばかりの頃の話だ。今こいつは側から見れば悪意によって俺を生かしている。生かされている俺にとっては悪意かどうかはあまり気にならないが。善意に殺されかけ悪意に生かされている。なんともまぁ数奇な運命だ。などと呑気に言えるほど当の本人は達観できない。
「いや、これは私の趣味だ」
「最悪だな」
そう吐き捨てるように言って俺は隠された部屋を後にする。
プシュッという音の前にクックッと笑い声が聞こえたような気がして廊下を歩きながらため息が漏れた。
ぐるぐると嫌な気持ちが渦巻く心を引きずるような足取りでやけに遠く感じた事務室の扉を開ける。
扉の開く音に合わせパサリと青みがかった長く黒い髪が揺れて青い大粒の瞳が俺をしっかりと捉えていた。
どうせ俺も隣の椅子に座るのにコトネは立ち上がって近寄る。
「先程はありがとうございました先輩」
そう言って頭一つ小さな少女は目を細めはにかむように笑った。
そんな姿にしばらく俺はなんと返答しようか言葉に詰まる。コトネは自分の可愛らしさを自覚しているのだ。それなのにたかが仕事の先輩である俺にそんなお礼を述べるという事は…
「揶揄ってるのか?」
「はぁー!?違います!純粋なありがとうの気持ちです!!人をなんだと思ってるんですか!!」
「分かった分かった。書類終わらすぞ」
そう言って椅子へ向かう。
コトネの手にはもう不死身の聖骸布は無い。恐らく厳重に保管された筈だ。
これからあの聖骸布を巡って争い事が増えるだろう。白の明星、その末端の会社が何やら動いている事も先程ジョウノから聞いたし今後の身の振り方も決めておかなければいつ頭のモヤモヤで動けなくなるか分かったものではない。
「先輩、来週のアレ忘れてないですよね?」
しばらく経って書類を終えたのかペンを置いて伸びをしながらコトネはそんなことを言った。
「…あぁ、もちろん」
俺は書類の手を止めずに頷く。まぁ、今は難しい事を考えるのはやめにしよう。大きな仕事が終わったのだ。楽しい息抜きがあっても誰も文句は言わないだろう。
ふぅ、と俺は顔を上げてコトネの方を見ながら
「文化祭だろ?」
「はい!!」
眩しいくらいの笑顔で頷くコトネに釣られて俺の顔には笑みが浮かんでいた。