勇者征伐 1
これは、遠い異世界の物語。
◆
にわかに秋めく時節の夜だった。
「次長、今日はお疲れさまでした!」
「お疲れさま! 明日もよろしくな!」
手を振りながら駅の方角へと歩き去る部下達を見送って、木村祐司は街灯の下で深いため息をついた。
吐き出す己の息から香る酒気に、先程まで居酒屋でおこなっていた打ち上げの光景を思い起こす。部下も上司も、みな笑っていた。取引先との商談は概ね成功に終わったからだ。
株式会社マクロサイバー、新進気鋭のIT企業。木村の勤めるアストライト株式会社の関連会社にあたるが、その事業規模は二回り以上大きい。いま進めている社運を賭けた新規プロジェクトにおいて、急成長を続けるあの企業の協力を取り付けたのは非常に大きな前進と言えた。
さらにもう一度ため息をついて、木村はようやく街灯の下から離れ、帰路についた。
人気の無い松並木の道。渡橋公園、敷地面積20haにも及ぶ、渡橋市の中心部を緑で染める広い都市公園を横断するこのコースが、彼の住む社宅マンションへの近道だった。
頭上には薄く森林のアーチが広がり、枝の切れ目からは街明かりに照らされた黄色い夜空と、遠くのビルの屋上に光る航空障害灯の赤い点滅が見えた。
今日の仕事は上手くいった。それでも、彼の足取りは重かった。
営業部から二人リストラする、商談の前、今朝の社内会議で決定した事柄だった。
営業部次長である彼は、明日の朝までに首を切る部下を選ばなければならない。
再び今日の打ち上げの光景、とりわけ仕事の成功を喜ぶ部下たちの表情を思い出し、憂鬱な気分になった。
木村は今年で四十七歳。入社してもう二十五年になる。
大学を卒業し、それなりの企業に入り、それなりに真面目に働いた結果、営業部次長という今の地位がある。
同僚との出世争いに遅れを取ることなく、四十代後半にして部長の椅子も見えてきた。幸い部下にも恵まれ、周囲からは成功していると評される。
それでも、木村の頭の中には常に、忸怩たる思いがあった。そしていつも、言い知れぬ焦燥に駆られていた。
分厚いスーツの内側、纏わりつく汗に通り抜ける秋風が冷たい。
鈴虫の鳴き声を遠くに聞きながら、人気のない夜の公園を歩いていく。
正義とは何だろう。
木村はふとそんな事を思った。
会社という組織を維持するため、出来の悪い社員を犠牲にする事は必要な行動だ。木村も、これから行う首切りは仕方ない事だと理解している。
しかし、個人の立場に目を向ければ、その正当性に意味などあるだろうか。解雇される部下にしてみれば、己を害する脅威以外の何物でもない。
少なくとも木村は理解していた。己の部下に、心根の悪い者は一人もない。全員に違った得意分野があり、今まで力を合わせてやってきた。ただ、それでも、営業成績の下から2番目までを切れ、という基準を与えられてしまえば、数字は残酷なまでに容易く犠牲者を選び出す。
正義も邪悪も此処にはない。
混沌とした世界だ。
昔はもっと、分かりやすい場所にいた。
善悪の明白な道筋、ただ一つの正義を追い求める、王道の物語を、木村は懐かしく想起して。
「…………誰だ」
ちょうど公園の広場に差し掛かったところで、足を止めた。
慎重に周囲を見渡す。広場の中心に設けられた砂場に、子供用のスコップが刺さったままになっている。
広場を囲むように配置された遊具はあまり整備が行き届いておらず、若干の錆が付いていた。
周囲が酷く静かに感じた。いつの間にか虫の声が止んでいる。夜空は曇っていたが、雨の気配はない。代わりに、前方に僅かながら人の気配があった。
「いやー、すみません。夜分遅くに」
前方に立ち並ぶ街灯の向こう。薄い闇の中から滲み出すように、その男は現れた。
「木村祐司さん、でお間違いないですかね?」
服装は仕事帰りの木村と同じく上下とも黒いスーツ姿、一方でその年齢は二十くらい下に見えた。
二十代前半と思しき若い顔立ちに、人のよさそうな笑顔を張り付けている。ふと僅かながら違和感を覚えたが、それを上手く言葉にする事はできなかった。
「はい、そうですが、何のご用でしょう?」
眉間にしわを寄せながら、木村は警戒を強める。さらに二人、男の背後から男女が現れていた。
一人はサングラスをかけた長い黒髪の女。一人は眼鏡をかけた小柄な男だった。
全員揃ってダークスーツを身にまとい、両腕に小型の情報端末を巻きつけている。
情報端末はベルトで固定されていて、色はスーツと同じ黒、タッチパネル式のハードウェアのようだった。一昔の携帯ゲーム機に少し似ている、と木村は思った。
「そう硬くならずに、我々は怪しい者じゃありません。どうか力を抜いてください」
朗らかに言われたが、無理な相談だった。仕事の帰り道、夜の公園で三人の若者に囲まれている。
異様な状況だ。身構えずにはいられない。彼らはいったい何者なのか、果たしてどの様に、正体を伏せたままやり過ごすか。
考えを巡らせていた木村だったが、すぐにそのような思案に意味がない事が分かった。
「我々は政府特務機関『異界情報危機対策局』の者です」
すでにこちらの正体が割れている。そうでなければ、彼らがここに現れる道理がない。
『異界情報危機対策局』、通称"異対"の者達。
「私は第一支部、三班『カザキリ』、班長の朝倉です。後ろの二人は――」
朝倉と名乗る男は親指で、背後の女を指し、
「片瀬と」
次にその隣の小柄な男を指した。
「こっちが山西です。宜しくお願いします」
朝倉以外の二人の表情に笑顔はなかった。木村への嫌悪、いや警戒心を隠さず、鋭い眼差しでこちらを観察している。
冷ややかな視線を受け止めたときやっと、朝倉の表情に抱いた違和感も理解できた。朗らかに笑う朝倉の、しかし目だけは、後ろの二人と同じなのだ。
木村を警戒すべき相手として、油断なく窺っている。それも只ならぬ警戒であった。今まさに炸裂せんとする爆弾に、真向対峙するが如き極大の危機意識をもって、彼らはここに立っている。
その理由を、朝倉は斬り込むように質してきた。
「木村祐司さん。あなたには『異界侵犯』及び『現世界反逆予備罪』の嫌疑がかけられております」
木村は一歩下がり、肩をすくめた。
「なにをワケの分からないことを」
「それとも」
突然、すぅ、と朝倉の表情から笑顔が消えた。
氷点下まで温度の下がった眼光が木村を射抜く。
背後では、片瀬と山西が上着の内側に腕を突っ込んでいる。
「こう、お呼びした方がよろしいか?」
そして、次の台詞を言い終わる前に、既に戦いの火蓋は切られていた。
「原典『ワールド・クエスト』の転生者、"勇者ロミオ"さん」