いわせておけ、私は為した《Bien faire et laisser dire》
一六四二年一一月二八日――
フランスの宰相、枢機卿リシュリューが倒れた。以前よりさまざまな全身の不調に悩まされていたリシュリューだったが、それだけに、今回の異変は死に直結すると自ら悟っていた。
一二月二日、リシュリューは国王ルイ一三世に辞職を願い出た。王は辞任を認めず、直接病床へ訪れて、手ずから卵の黄身を宰相へ与えた。病を治し、まだまだ国と王家のために働いてもらいたいという、公私双方の心情が相まった率直な優しさであった。
リシュリュー排除を目論む貴族を寵愛したり、陰謀を企んだ者へ容赦しようとしないリシュリューの措置に抵抗したりと、ルイ一三世は問題を起こすことが一切でなかったが、宰相の国家に対する忠節には全幅の信頼を寄せていた。
翌三日夜――
リシュリューは最後の塗油を受け、昏睡に陥った。「汝の敵を許しますか?」という最期の告解の問いに対し「私には国家の敵のほかに敵は存在しない」と答えたと伝えられるが、事実にせよ創作にせよ、らしいエピソードであろう。リシュリューは外聞など一顧だにしなかった。
すべてはブルボン王家とフランス国体のため、カトリック枢機卿でありながらプロテスタントと同盟を結び、神への忠誠すら王と国家に優先することはなかった。かぎりなく無私であった。
一二月四日――
アルマン・ジャン・ドゥ・プレーシス・ド・リシュリューは五九歳で死んだ。激務がその寿命をずいぶんと削ったであろう。パリの人々は、訃報を悲しみというよりは好奇心を持って受け取った。
「あの悪魔、実は人間だったのか」
「まさか死ぬとはねえ」
――彼らのささやきあう声が聞こえてくるようだ。
生きていたころから、リシュリューは余人がなにをうそぶこうと気に留めず、ひたすら己の本分だけに邁進したが、死んでもそれは変わるまい。仮に神が裏切りの罪を鳴らしたとしても、笑い飛ばすであろう。地獄へ落とされようが、自分の仕事はフランス国そのものが知っている――リシュリューは悔いも過ちもなかったと断言するに違いない、そんな空想ができる。
貴族と違って利害の衝突がなかったので、庶民のあいだでリシュリューは憎悪されてはいなかった。しかし、やはり好かれてもいなかったようだ。フランスが難局にあることは一般市民も理解していたため、リシュリューの豪腕が失われたことで果たして戦争がどうなるのか、人々の関心はその点に集中していた。
リシュリューは死の前に、ひとりの若者を推薦し、フランドル戦線における総司令に任命していた。コンデ公爵の長男、ルイ・アンギャン二二歳である。テュレンヌについでリシュリューが才能を見抜いたこの男はすぐにフランス軍の二本柱の一方となり、のちに大コンデ公と称されることになる。
文官トップの宰相としての自らの後任に、リシュリューは枢機卿マザランを推薦した。この戦争を勝ち抜くためのつぎなる人材までも準備した上で、偉大なる政治家「フランス国家のもっとも優れた使用人」は歴史の舞台から退場した。
アンギャンはコンデ家の長男が名乗る称号であり、のちの大コンデ公も父のあとを継ぐまでではあくまでアンギャン公である。そのアンギャン公が向かい合う南ネーデルラントは、スペイン本国の叛乱続発によって軍備の多くが鎮圧に回され、当然ながら資金援助もなくお寒い台所事情であったが、首脳部の人事でもゴタゴタに見舞われていた。
枢機卿インファンテの死後、南ネーデルラント総督に推されたのは大公レオポルトであった。血筋の上で申しぶんなく、なにより本人がやる気充分で、その上実の弟が苦境にあるとなれば皇帝フェルディナントも無視できない――スペインにとって、まさにうってつけの候補者であるはずだった。
……ところが、任命の直前になって国王フェリーペ四世は心変わりをし、自らの息子フアン・ホセを総督にすると主張したのである。フアン・ホセは王の直系とはいえ庶子、母親は女優マリア・カデロンであり、しかもまだ一二歳だった。フェリーペ四世にはほかにも多くの私生児がいたが、王子として公認され、宮廷にいるのはフアン・ホセのみだ。つまりそれだけ資質を見込まれていたということではあるが、この国難にあっては適切な人事とはいい難い。
ブリュッセルの受け止めはもっと率直であり、傀儡を送り込むことで完全にネーデルラントを支配し、もはや離脱が避けられないポルトガルの代わりに搾り取るつもりだろうと反発した。マドリードにも反対派がおり、しかしフェリーペ四世と王妃イサベルのあいだに生まれた子供たちは多くが夭折しており、フアン・ホセ以上の適任者はおらず、要は派閥争いにはならないがゆえ、ある意味ではより深刻であった。スペイン王家そのものが、もはや先細りしていたのだ。
結局フェリーペ四世はフアン・ホセの総督就任を無期限で延期せざるをえず、最終的には流れたまま、なかったことになる。当面の代行という名目でフランシスコ・デ・メローが南ネーデルラントに送られたが、この人事もまた拙いものだった。メローは実績ある外交官だったが軍人ではなく、現状のネーデルラント情勢への対処能力としてはフアン・ホセと大して変わらなかった。そしてなにより、レオポルトが選ばれなかったことで、フェルディナント三世はネーデルラントへの援助など意に介さなくなったのである。
翌一六四三年五月一五日――
フランス王ルイ一三世が崩御した。元からあまり丈夫ではないほうだったが、忠臣リシュリューを見送ってから急速に体調が悪化していたのである。最後の数週間は、ときおり目を醒ますほかはずっと高熱による意識混濁の中に沈んでいるという状況だった。
死の直前、ふと目を開いたルイ一三世は、コンデ公アンリが枕元に立っているのに気づいて、微笑んでこういった。
「コンデくん、きみの息子が大勝利をあげた夢を見たよ」
ルイ一三世が最期に見たそれは、正夢であるのみならず、予知夢だった。
五月一九日――
フランスと南ネーデルラントの国境地帯、ロクロワの町の南で、前日からにらみ合っていたスペイン軍とフランス軍が激突した。
スペイン軍はメローの指揮下に一万八〇〇〇の歩兵と八〇〇〇の騎兵、一八門の大砲を有していた。フランス軍はアンギャン公が指揮し一万五〇〇〇の歩兵と七〇〇〇の騎兵、一四門の大砲であった。
グスターヴの軍事革命に直撃されたドイツでは兵力が一万ほどの軍でも三〇門程度の火砲が運用されていたが、フランスの平原ではまだ旧い戦いかたが主流だった。
ロクロワの都市の周囲は大きく開けていたが、フランス軍が進攻していった南側は、東に森林が、西に沼沢地がある狭隘な地形だった。
前日の小競り合いを終えて戦闘隊列のまま露天で眠っていた両軍は夜明け前に起き出し、先に動き始めたのはフランス軍だった。スペイン軍の中級指揮官はスピノーラ時代からの古参も少なくなく、戦場の東の森へ夜間のうちにマスケット銃隊を送り込んでいたが、抜け目ないアンギャン公は真っ先にその伏兵を排除した。
両軍が本格的に衝突し、お互いの右翼部隊がそれぞれ優位を獲得し、相手の左翼を退けた。中央は兵員の質でも量でも上回るスペイン軍が押し込み、フランス側の砲兵陣地に突入するほどの勢いであった。危機を察したアンギャン公は直下と右翼の騎兵部隊を糾合し、敵中央の横腹めがけて突撃をしかけた。
スペイン軍の中央歩兵部隊は、最精鋭のスペイン人による方陣が後列、それよりは練度が落ちるワロン人やイタリア人、ドイツ人の方陣が前列となっていた。スペイン軍中央前列はアンギャン公の突撃を受け止めることができず、隊伍のあいだを広げて敵を素通りさせてしまった。思わぬ相手の反応で攻撃が空振りしたアンギャン公だったが、戦場の反対側に移動できたことを最大限活用し、フランス側左翼を退けていたスペイン軍右翼へと打ちかかって追い払った。
戦場がもっと広ければ、両軍の右翼は持ち場の勝利のあとで敵中央の背後を襲っていただろう。そうなれば、アンギャン公の相手は堅牢なスペイン人方陣であり、スペイン騎兵隊は味方が突破される前に練度で劣るフランス軍歩兵隊を食い破っていた。最強の戦力を温存していたスペイン軍の戦術は通常なら正解だったが、今回の戦場の特性と双方の勢いの差によって、裏目に出てしまったのである。
こうしてフランス軍は全戦線で優位を確立し、スペイン軍は士気の低い部隊から崩れていった。残ったのは、本場スペイン式方陣のみである。メローは敗北を認めなかった。スペイン軍には、まだ戦闘に参加していない別働隊がいたのである。フランス側も、早馬の伝令が出発していることは知っていた。敵の増援が現れる前に勝負を決めようと方陣へ挑んだフランス軍だったが、三度に渡って撃退され、したたかな損害を被った。
しばらくのちにスペイン騎兵隊を追撃していたフランスの騎兵隊が戻ってきて、包囲は完全なものとなった。現れるだろうと思われていた敵増援もやってこず、フランス軍は鹵獲したぶんも含めた三〇以上の大砲で方陣をじわじわと削っていく戦法に切り替えた。スピノーラを支え、マウリッツに軍制改革の必要性を痛感させ、グスターヴのスウェーデン軍を生み出す遠因となったスペイン方陣は耐え続け、しかし確実に兵士は倒れていった。
夕刻になっても戦いは終わらず、双方の軍使が交渉し、スペイン兵に名誉ある退却を許す代わりにフランスの勝利を認定すると条件がまとまった。午後になってからのフランス軍の戦いは、まさに攻城戦さながらだった。兵士の肉体で織り上げられし城塞――方陣の強固さはいまだに健在であった。
ロクロワの戦いでのスペイン軍の損害は戦死、重傷が六〇〇〇、捕虜四〇〇〇で、生き残ったスペイン兵士には撤退が認められた。フランス軍も戦死、重傷者は合わせて四〇〇〇以上となった。
敗戦は、単に南ネーデルラントのスペイン軍を粉砕したに留まらなかった。崩壊した組織を立て直すために有能な軍人が必要とされ、ピッコローミニが再びフランドル戦線へ派遣されることになったのである。帝国軍は六五歳のガラスに頼るしかなくなった。
七〇をすぎても冴えを維持していたティリーが例外なのであって、この先いかに負け続けようが、ガラスを無能呼ばわりするのは公平ではないだろう。普通は寄る年波には勝てないものなのだ。もっとも、ガラスは全盛期でも平凡な将だったが。
ヴェルトとマーシーは平均以上の優秀な将だったが、彼らはあくまでバイエルンのマクシミリアンが雇い主であり、信仰はプロテスタントでもあった。関係が悪化する前はファルツのフリードリヒとも友好的につき合っていただけのことはあり、マクシミリアンは教派の偏見より実務を重視する合理的な領主であった。それだけに利己的であり、実益がないとなかなか動こうとしないという面も持ち合わせていた。
六月二三日――
ブライテンフェルトとロクロワ、二連続の大敗を受けて、皇帝フェルディナントはフランス、スウェーデン両国と、準備的ではない本交渉に入ることを承認した。しかし会議は一年半も開会されず、その上四年間も続くことになる。
フランスとスウェーデンは占領地の拡大を図り、また、自国の取り分を掠めようとする利害関係国と争うようになり、神聖ローマ帝国のほうでは、ときおり敵軍を押し返せるので、もしかしたら賠償が安くなるのではないかと期待してしまうからであった。




