神聖ローマ皇帝フェルディナントII世《Römisch-deutscher Kaiser Ferdinand II.》
一六一九年三月二七日――
先日の皇帝崩御によって帝国会議での和平が難しくなったと考えたボヘミア王フェルディナントは、叛徒たちへひとつの提案を行った。
剣を納め、王に服すのであれば、大赦を発布し、プロテスタントの特権を保証する、と。要するに〈国王勅書〉を再度掲げたにすぎなかったが、もうひとつの付帯条件が叛徒たちの心を揺さぶった。
損害を補償しようというのである。
トゥルン伯率いるプロテスタント護民軍は連戦連勝を重ねてはいたものの、実際はボヘミアは身をすり減らしながら戦っていた。カトリックの土地、財産は没収されていたが、戦争の負担はプロテスタントたちにも重くのしかかっていた。護民軍への徴兵は強制であり、悪改鋳された貨幣は信用を落としていた。農民たちは、種を蒔いても戦で荒らされて台なしになることが目に見えている耕地へ仕事に行くことを嫌がった。今後一世代以上に渡って帝国全土を蝕む病の縮図は、既にこの時点でその大半があらわれていた。
悩みに悩んだが、結局ボヘミアはフェルディナントを信じることはできなかった。選挙はまだ為されていないが、シュタイヤーマルク大公としてのフェルディナントは次期皇帝の最有力候補なのである。ボヘミア王の立場としては弱気かもしれないが、この先帝国の支配権を握れば変心しないともかぎらない。
ボヘミアの拒絶は意外な連鎖を生み出した。帝国各地に反フェルディナントが飛び火していったのだ。モラヴィアで叛乱が勃発し、皇帝のおひざ元であるオーストリアでもプロテスタントが民会の開催を要求していた。ケルンテン、クラインなど、その他の地方も発火寸前の様相であった。
オーストリア本土での叛乱の気配に勇気を得て、トゥルンはへたばりかかっていた護民軍に活を入れて進撃を開始した。凋落しがちな軍の士気も、破綻状態に等しい財政も、ハプスブルクの首府を押さえてしまえば一挙に解決する。
六月五日――
ウィーンは一年前のプラハとよく似た気配に包まれていた。フェルディナントは民会の開催を認めざるをえず、招集された議会は即座に矢継ぎ早の要求を突きつけてきた。
イエズス会士の追放、ウィーン内にプロテスタント教会の建立することへの認可、オーストリアのプロテスタントへの自治権付与、対ボヘミア戦の即時停止――
トゥルン率いる護民軍が迫ってきていることをプロテスタントたちは知っており、要求は高圧的かつ強硬だった。
ときおりボヘミア人の撃ち放つ大砲の音が聞こえてくる中、激昂するプロテスタント議員たちの前でフェルディナントははっきりと民会の要求に対する拒絶を宣言した。むしろ脅迫する側が理解できないほどの頑なさだった。ボヘミア軍は既に城壁に迫っており、郊外のプロテスタントはトゥルンに合流している。城門を内側から開く算段はついており、勝ち誇ったプロテスタントたちは隠そうともしなかったので、フェルディナントが己の危機を知らぬはずはないのである。
プロテスタント議員たちが、わからず屋のイエズス会士へ手をかけるもやむなしと互いに目配せした、まさにそのとき、事態は動いた。正式装備の騎馬隊が、王宮の中庭に入り込んできたのである。紛れもなく帝国軍のものであった。叛乱軍は揃いの制服などそもそも持っていないのだ。
フェルディナントが剛胆さを保っていた理由を悟って、プロテスタント議員たちは逃げ出した。彼らの予測は正しく、カトリック側が保持していた城門から歩兵隊も入城しようとしているところだった。間一髪で逆転された口惜しさに歯がみしながら、議員たちはトゥルンに事態を知らせるためにウィーンを脱出した。
実際には、フェルディナントはなにも知らなかった。入城してきた騎馬隊も歩兵隊も、とてもトゥルン軍に抗することのできる数ではなかった。フェルディナントの弟レオポルトが、兄の窮地を察して、帝国軍の副将ダンピエールから手勢をわずかに割いてもらって急行してきただけだったのである。ウィーン全体を制圧するにも足りない兵力であったが、フェルディナントの安全を確保し、城壁の内外からプロテスタントに脅かされる守備隊を鼓舞する程度の力はあった。
それでも何事もなければウィーンの失落は免れえなかっただろう。しかし運命の流れは変わった。はたしてイエズス会士として堅忍不抜の信仰を貫いたフェルディナントにもたらされた恩寵なのであろうか。
六月一〇日――
ボヘミア内にしぶとく突き刺さる喉元の骨、ブドヴァイスを下すべく進軍していたマンスフェルトは、ブドヴァイス手前の小村サブラート近郊で、帝国側の主将ブクォイ率いる討伐軍に行く手を阻まれた。攻城陣を敷くつもりであった鈍重装備のマンスフェルト軍は、不利な地形に押し込められたまま、軽砲とマスケットによって散々痛めつけられた。
攻城戦用の兵器を簡単に失うわけにはいかないマンスフェルトは陣地を守って粘り強く戦ったが、伝令を出したにもかかわらず陽がかたむいても増援は現れず、やむをえずして夜間退却した。戦場に遺棄した戦死者だけでも一五〇〇名にのぼり、乏しいボヘミアの蓄えから捻出された各種装備の損失は実数以上の重荷となって今後降りかかるであろうと目された。
なにより、初の本格的な野戦で、プロテスタント側が、しかも歴戦のマンスフェルトが敗れたのである。窓外投擲事変以降負け慣れていなかったプラハは大恐慌をきたした。緊急招集されたボヘミア・プロテスタント臨時政府評議会は、全会一致で護民軍司令トゥルンに帰投を命じた。勝利をつかみかけていたにもかかわらず、直前で手を引かねばならなくなったトゥルン司令が、評議会の弱気の虫を罵ったかどうかは伝わっていない。
プロテスタント軍はオーストリアを去り、フェルディナントは最大の危機を免れた。帝国の継嗣者として活動を再開したフェルディナントは、夏の終わりまでに良いニュースと悪いニュースをひとつずつ受け取った。
良いニュースはといえば、フェルディナント大公の神聖ローマ皇帝登極へ、国際的なカトリック連合の支持が固まってきていることであった。終止打算的な態度であったフランスも、フェルディナント容認にかたむいた。プロテスタント陣営の中でも、ザクセン選帝侯は帝冠の空白は望ましくないと考えており、フェルディナント即位をやむなしと考えているという噂だった。
悪いニュースは、ハンガリーで大規模な叛乱が勃発したというものである。最悪の点は、叛乱軍の首魁ガブリエル・ベートレンが――彼自身はカルヴァン主義者であり、曲がりなりにもキリスト教徒だが――どうやらトルコの後ろ盾を得ているらしいことであった。イスラム教徒どもが、この情勢へ介入しようと蠢動しているのだ。ただし、不倶戴天の敵につけ入る隙を与えぬため、帝国の統一を優先させねばならないと喧伝すれば、多少の強硬策を正当化する口実ともなるであろう。
フェルディナントはカトリックの三選帝侯と諮り、皇帝選挙を八月二八日に開くことを決定した。ファルツ選帝侯フリードリヒはボヘミア問題の終熄まで選挙を延期するよう求めたが、当然ながらフェルディナントらカトリック選帝侯は聞く耳をもたず、ほかのプロテスタント二侯の支持も得られなかった。
ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクは、「私は選挙からなにもいいことが起きないことを知っている。フェルディナントのことはわかっているからね」と、ボヘミアでの国王選挙とその後のことを想起させ、同様の事態が帝国全土に広がるだろうという予言めいたことを口にしながら、それでも選挙の延期や、フェルディナントの向こうを張る対立候補の人選に動こうとはしなかった。
ブランデンブルク選帝侯のほうは、最近ポーランド王より封土として得たプロイセン(これは後年のプロイセン王国からすれば東端のごく一部にすぎない、ケーニヒスベルクを中心都市とするバルト海沿岸の一地方である)の取りまとめにのみ忙しく、プロテスタントとしての合同には興味を持っていなかった。
七月三一日――
ボヘミア、ラウジッツ、シュレージエン、モラヴィアがプロテスタント国家連合を結成するにいたり、さらにハンガリーも合流するであろうという推測が流布され、カトリックにとっての悪いニュースは最悪ではなくなった。状況は容易いものではないが、敵はまとまり、はっきりとした。あろうことかプロテスタントは、間接的にではあるがムスリムと手を組むというのである。
いまやカトリック正統のみが地上の絶対善、神の意思を体現する勢力であることは、少なくともフェルディナントにとっては自明のこととなった。実際にボヘミアとトランシルヴァニア侯ガブリエル・ベートレンとのあいだに攻守協約が結ばれたのは八月二〇日になってからであったが、これは既成事実の追認にすぎず、あってもなくても選帝侯会議の日程に影響はおよぼさなかったであろう。
八月二八日――
予定期日の通り、選帝侯会議はフランクフルト・アム・マインで開かれた。カトリックの三選帝侯、プロテスタントの三選帝侯の代理人、そしてボヘミア王フェルディナント。証人として、国内外の貴族が十数名と、バチカンから派遣された教皇勅使が一名。これが出席者であった。
フェルディナントが選帝侯たちと並んで議席につこうとしたそのとき、陪席にいたプロテスタント貴族のひとりが叫んだ。
「フェルディナント大公はボヘミア王ではない! あの選挙は無効である!」
「静粛に」
議長であるマインツ選帝侯がいかめしい口調で告げ、剣の柄に手をかけた衛戍兵が二名、左右から挟み込んでその貴族を議場から連れ出した。プロテスタント三選帝侯の代理人たちはわずかに苦い表情をしたが、彼らの内心をいみじくも代弁した田舎貴族を、かといって公然と擁護するわけにもいかず、議長の措置を無言で肯定するほかなかった。
厳粛というよりは重苦しい雰囲気の中で皇帝選挙は開かれ、三人のカトリック選帝侯はフェルディナント大公に投票し、ボヘミア王たるフェルディナント自身も、己に対して票を投じた。この時点でフェルディナントの勝利は確定したが、新帝はそれだけで満足するつもりはなかった。フェルディナントの登位を神聖ローマ帝国の選帝侯が満場一致で定めたという事実を欲したのである。
あきらめに近い無表情のままで、ザクセン選帝侯の代理人がフェルディナントへ投票し、ブランデンブルク選帝侯の代理人もそれにならった。残されたのはファルツ選帝侯の代理人であった。無論、ファルツ選帝侯たるフリードリヒはフェルディナントに帝冠を与えるつもりなどなかった。ファルツ選帝侯の代理人はバイエルン大公マクシミリアンに投票すると宣言したが、陪席にいた当のバイエルン大公は鼻で笑うのみだった。
マクシミリアンに代わって、議長のマインツ選帝侯が、バイエルン大公は自分への投票をすべてフェルディナントに譲渡する旨、同意している、と指摘した。フェルディナントへの投票に書き換えるよう用紙を突き返されたファルツ選帝侯代理に、もはや選択の余地は残されていなかった。
これにより、選帝侯会議の満票をもって「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」皇帝フェルディナント二世が誕生した。
表面上はフェルディナントの完勝に見えた。しかし、薄氷を踏んでの勝利であったということが即座にあきらかとなった。
皇帝位受諾の書類に署名をし、聖書を前に宣誓をすませたフェルディナントは、バルコニーへ歩を進めた。フランクフルトの市庁舎前には新帝の登位を祝賀するべく住民が集められていたが、当のフェルディナントが露台の上に現れ出たとき、一糸乱れぬ「新皇帝万歳」の叫びは起こらなかった。
フェルディナントは怪訝に思うと同時に不興を覚えたが、それはなにも、群衆の中に紛れ込ませてある「煽て屋」たちへの支払いが不足していたためではなかった。新帝が事態を知ったのは、盛り上がり切らぬ宣誓式が終わってからのことだ。
ボヘミア王フェルディナントは去る八月一七日にボヘミア・プロテスタント臨時政府によって廃位されており、同月二六日に急遽催された選挙によって、新ボヘミア王にはファルツ選帝侯フリードリヒが選出されていたのである。その報せを持った早馬がまさに選帝侯会議の途中に到着して、人々は騒然としているところであった。
そこへ、話題の「廃王」が「新帝」として登場しては、民衆の困惑も無理からぬことだったのである。