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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第四幕 スウェーデン戦争(1630〜1635)
37/63

アルテ・フェステ攻防戦《Schlacht an der Alten Veste》


 ヴァレンシュタインがツィルンドルフ、オーバーアスバッハ、シュタインにかけて築いた陣地には、ニュルンベルクに対し攻城戦をしかけるためというよりは、北四マイルほどにあるフュルトに構えるスウェーデン軍の動きを制約し、彼らを飢えさせる目的があった。


 ニュルンベルクとその周辺にはプロテスタントが多く、住民はグスターヴを支持していたが、それでも地の利は圧倒的にヴァレンシュタインの側にあった。

 事実上ヴァレンシュタインの本拠地であるボヘミア国境からニュルンベルクまでは八〇マイル。一方のグスターヴは、北ドイツの海岸までですら三七〇マイルもあり、本国スウェーデンはさらにバルト海の彼方だ。あてにできるかわからない同盟者ザクセンの国境まででも一〇〇マイルあった。


 ところが、一六三二年七月の中旬に陣地戦を始めたばかりのヴァレンシュタインの元に届いたのは、日和見のまま動かないだろうと踏んでいたザクセンが、スウェーデン側に立って帝国軍を襲撃してきたという思わぬ報せだった。アルニム率いるザクセン軍は、シュレージエンのヴァレンシュタイン留守部隊を追い払い、ボヘミアに再侵入する可能性をほのめかしていた。


 ここにきてザクセンが帝国軍と直接戦火を交える決断を下したのは、ヨハン・ゲオルクとアルニムの、わかりづらいが確かに存在はしている行動基準を推察することで説明できる。


 アルニムとしては、かつての上官であるヴァレンシュタインに正面切って歯向かうのは、自身に精神的な抵抗があるのみならず、麾下が戦うのを拒否するかもしれないので、勝算も見込めぬと判断していたのだろう。ヴァレンシュタインがボヘミアを離れたところでその背後を撹乱し、同盟者として最低限の義理を果たした上で、グスターヴの手並みを拝見しようという程度の考えがあったのではなかろうか。ヴァレンシュタインとの決定的な対立を避けることで、保険をかける意味合いもあったに違いない。


 ヨハン・ゲオルクのほうは、彼もフランス同様、ある種のバランス政策を推し進めているため、マクシミリアンがヴァレンシュタインと合同したのを見て、天秤の反対側へ一石を置く必要を認めたものと思われる。そしてもうひとつ、ヴァレンシュタインが最高司令復帰にあたってフェルディナントに呑ませた条件には、選帝侯の位が報酬として含まれていると、ヨハン・ゲオルクも確実に知っていた。ヴァレンシュタインがザクセン選帝侯国を要求する可能性を、ヨハン・ゲオルクは懸念したのではないだろうか。


 これは、やや過剰な防御反応といえよう。ヴァレンシュタインがボヘミアとザクセンの両方を獲得したら、オーストリアにとってはあまりにも強大な隣人となってしまう。フェルディナントは、そのゆえに、ヴァレンシュタインが選帝侯となるなら、ブランデンブルクかボヘミア、と規定しておいたのだろうから。とはいえ、秘密契約であるため、巷間に流布された噂は、ヴァレンシュタインが選帝侯位を要求し、皇帝が認めた、という程度に留まっていたに相違ない。

 ヨハン・ゲオルクにとっては、地位と所領の防衛に関して、どれほど過敏になってもやりすぎという事態はないというところであろう。


 当事者たちが下した判断の底に本当はなにがあったのかはともかく、現実としては、ヴァレンシュタインは二正面作戦を強いられることになった。ヴァレンシュタインはザクセン軍対策としてハインリッヒ・フォン・ホルクを送り出した。スウェーデンのホルンと紛らわしい名だが、彼は実際に北方産であり、デンマーク人である。


 ハムレットの舞台のモデルとなったクロンボー城の司令の家に生まれ、軍歴の初期はプロテスタント側で戦っていた。「いかれたクリスティアン」の元で、ついでデンマーク王クリスティアンにしたがい、一六二七年に一度捕虜になった。釈放後にクリスティアン王からシュトラールズントの守備を任せられ、ヴァレンシュタインの攻撃を受けて立ち、逆に敵将から才能を認められた。リューベックの和約でデンマークが戦争から退場すると、ホルクは帝国軍に身を投じ、ヴァレンシュタインの副官格のひとりになっていた。


 ホルクと八〇〇〇の兵が手元を離れたことで、ヴァレンシュタインの戦術はより防御的になった。堅固な陣地から本格的に討って出ることはなく、哨戒しつつ、機会を得たら襲撃を行うための騎兵隊を繰り出してスウェーデン軍を監視し続けた。


 グスターヴはヴァレンシュタイン以上に騎兵の扱いに長けた指揮官だったが、このときのスウェーデン陣地には敵軍の半分以下しか騎兵がいなかった。

 さらにヴァレンシュタインは毎日のように補給馬車で陣地へ糧秣を始めとする軍需物資を搬入したが、スウェーデン軍はニュルンベルクの蓄えを食い潰していくしかなかった。


 おそらく、ヴァレンシュタインは組織的兵站というものを、古代ローマ全盛期以来一四〇〇年ぶりにヨーロッパで具現化した、稀代の鬼才であった。グスターヴも無能とは程遠く、むしろ当時の略奪戦争からすれば、規律を保持して軍への適切な補給をし、供出元に対しては極力支払いをするよう努めた司令官であったが、ヴァレンシュタインの編み上げた定期的補給を実現する兵站力の前には相手が悪すぎた。


 七月の末には、スウェーデン軍は餓死の瀬戸際に追い込まれていた。ニュルンベルクを放棄して、マイン河、ライン河沿いに保持してある豊かな都市へ向かい、備蓄を食べるしかない。しかし、そうなればフュルトに詰めている二万もの軍はひとつの都市に入りきれないので、必然として河沿いに分散することになる。


 ヴァレンシュタインは当然追跡してくるであろうから、各個撃破の危険にさらされる上、マイン、ラインの閉鎖は北への帰り道が断たれることを意味していた。正確にいえば、マイン河の北側にはヘッセン・カッセルを始めとする友好諸侯の領地があるので、歩いて行けば帰れないわけではない。しかし、大砲は水路でなければ短い距離しか運べなかった。逃げれば、もう戦争は継続できなくなる。


 ひとつだけ、グスターヴが以前にった戦略的行動が効果を現していた。バイエルンを劫掠しておいたことで、マクシミリアンの軍は本拠地からの補給が得られず、スウェーデン軍同様に飢えていたのだ。さすがのヴァレンシュタインも、自軍を食わせる分しか補給の準備はなかったのである。



 八月一六日――


 半月以上を悲惨な状態で耐えたスウェーデン軍の元に、フランクフルト・アム・マインからグスターヴの右腕ウクセンシェルナがやってきた。文官である彼は指揮官としては期待できないが、各都市から守備隊を少しずつ引き抜いて六〇〇〇ほどの兵を連れてきており、なにより糧秣が到着したのが大きかった。


 八月の末までに、ヨハン・ゲオルクと、ヘッセン・カッセルのヴィルヘルムが援軍を寄越してきたおかげで、スウェーデン軍の兵力は三万を数えた。グスターヴはヴァレンシュタインの堅陣を破る挑戦をする決意を固め、手始めに帝国軍の前哨基地があったレドニッツの村を攻撃し、本陣へと追い払った。


 ヴァレンシュタインもスウェーデン軍が増えるのを黙って眺めていたわけではなく、ホルク隊の減少分を補って敵とほぼ同数の軍を揃え、防備のさらなる強化に努めていた。


 スウェーデン軍が陣を置くフュルトを見下ろす、小高い台地をヴァレンシュタインは占めていた。一番フュルトに近い側には森があり、そこを抜けたところに一三世紀に建てられた小さな古城アルテ・フェステがあった。


 台地の北側を横切るようにレドニッツ川が流れており、台地の角で屈曲してそこからは台地の東崖に沿っていた。レドニッツ川のあるほうから登るのはかなりの急斜面になっている。レドニッツ川に向け、一マイルほどずつの間隔を開けて小川が西側から流れ込んでいた。

 北からビーバート、クロイツ、グルントという小川で、北から攻めていくと、まずレドニッツ川が流れ、河原にはささやかな平地が広がっているが、進むと斜面の森と城があり、ヴァレンシュタイン軍の構築した防御壁と砲座が待ち構えていて、その先にもさらに川が連続して横切っているという、天然と人工の障害が複合的に混在している要塞であった。


 もっとも、帝国軍のキャンプはおおむねビーバートとクロイツのあいだに広がっており、土塁と胸壁による囲いもグルントより北側でしか設営されていなかったので、主に問題となるのは二本の川であった。台地の西側はあまり急斜面ではなく、南側の障害物はグルントと、その先に帝国軍が盛った土塁程度であった。


 だが、フュルトから南へ回り込もうとすれば発見される可能性が高い上に、結局川と土塁を乗り越えなければならない。西側から、ビーバートとクロイツのあいだに入り込んで攻めればもっとも障害物が少なく、突破しやすいものと思われた。ヴァレンシュタインも、西側をとくに警戒していた。


 八月三一日――


 グスターヴは決戦を求めてレドニッツ川の東側を進み、帝国軍本陣からよく見えるようにスウェーデン軍の旗を振ったが、陣地の堅牢さに自信を持つヴァレンシュタインは台地から降りて戦おうとはしなかった。東側の帝国軍斥候部隊はすべて駆逐されたが、大した損害でもないので、ヴァレンシュタインは無視を続けた。


 九月一日――


 スウェーデン軍は前日に引き続き東側から砲撃をしつつ、レドニッツ川のフュルトに近いところに新たな仮橋を数本渡し、川の北側で臨時防壁の設営を始めた。


 工事は翌二日も続き、ヴァレンシュタインはこの動きはスウェーデン軍が全周包囲の準備を始めたものと判断し、主力をもっとも防衛設備が薄い西へと移した。


 ところが、スウェーデン軍の偵察部隊は、帝国軍の配置転換が撤退準備ではないかと疑い、グスターヴへ報告した。グスターヴとしては、北の森を攻め上がってアルテ・フェステを奪取するかのように見せかけて、ヴァレンシュタインを誘き出すつもりだった。北での防壁工事は、それに備えての仕込みだったのである。

 グスターヴは偵察部隊の報告を再検討するために、自らレドニッツを渡って敵本陣に近づいたが、確かに敵兵の数が減っていた。実際には、北部と東部の防御力に自信のあるヴァレンシュタインが、あえて手薄にしたのだったが、グスターヴは相手の動きを誤って評価し、敵は撤退しようとしていると結論づけた。グスターヴも、ヴァレンシュタインも、お互い裏を勘ぐりすぎたのであった。


 敵が逃げる前にしかけようと急ぎ、グスターヴは夜を徹して布陣するよう全軍に命じた。配置は、東から陽動の砲撃を行い、北から本命の攻撃隊が突入し、ヴァレンシュタインの退却に備えて西と南の街道筋に騎兵を伏せるというものだった。


 翌三日――


 午前八時すぎから、スウェーデン軍は北部の森を進み始めた。ヘッセン・カッセルからの援軍と、ザクセン・ヴァイマールのヴィルヘルムとベルンハルトが右翼と中央部隊を率いた。そしてグスターヴは敵陣にもっとも近い地点への攻撃を担当し、砲兵が援護に当たった。


 帝国軍側は砲撃の音には気づいたが、もう何日もスウェーデン軍は大砲を放っているので、まさか森の中を敵がのこのこ進んでくるとは思わず、グスターヴ自らが先頭に立って向かってくるのを目にしたのは九時近くになってからだった。ヴァレンシュタインが西を最重点に警戒していたこともあり、誤解から始まったグスターヴの攻撃が、結果的に奇襲として成功するかに見えた。


 しかし、かなりの傾斜に加え、茂る木々の枝葉が邪魔をして、スウェーデン軍の突進速度は非常に遅かった。見通しが利かないので帝国軍の砲兵は当てずっぽうで撃つしかなく、スウェーデン軍は大砲からは無視できる程度の損害しか受けなかったが、防壁に接近したところでマスケットの銃撃を食らって大きな打撃を被った。その上、味方同士の姿が見えないために、スウェーデン軍にはいつもの連携がなかった。


 グスターヴは普段の戦闘であれば中央か右翼を指揮するのが常であったが、レドニッツ川と帝国軍の防塁に挟まれた、もっとも危険な箇所の攻撃を自ら担当するため、この日は左翼を率いていた。そのスウェーデン左翼は傾斜がゆるめの場所を進んだこともあり、森から一番最初に抜け出したが、ザクセン・ヴァイマール隊とヘッセン・カッセル隊はまだ茂みの中で難渋していた。


 帝国軍の北部防衛担当はアルドリンガーであり、経験充分の、しかも攻勢よりは防御戦闘のほうが得意な指揮官だった。アルドリンガーは、開けたところへグスターヴの本隊が顔を出すタイミングを完璧に計って、西側から騎兵部隊を突撃させた。


 平地であれば横隊の前を通過していく騎兵など単なる射撃の的だったが、森の中にいたヴィルヘルムたちにアルドリンガーの騎兵を射つことはできず、グスターヴの部隊は大打撃を喫してしまった。スウェーデン本土から連れてきた王直属の歩兵が三個連隊全滅し、トルステンソンが捕虜となった。


 出会い頭の一撃で強烈なダメージを受けはしたが、邪魔な木々がなくなったため、グスターヴは本来の力を発揮できるようになった。いまだ狭い斜面の途中という悪条件をものともせず、左右から騎兵を繰り出し、帝国軍騎兵隊をマスケット部隊の正面へ追い込んで一斉射撃で痛撃を与えた。全滅しなかった敵騎兵にマスケット隊は蹂躙されてしまったが、さらに新手の騎兵隊をぶつけて完全に崩した。


 帝国軍騎兵隊第一波の退却を援護し、スウェーデン軍を斜面の下へ追い落とすため、アルドリンガーは第二波の騎兵攻撃を命じた。敵の新手を見たグスターヴは坂を駆け下りていったが、これは単なる退却ではなかった。

 追ってきた帝国騎兵隊第二波へ、今度はスウェーデン軍が平地にあらかじめ展開させていたマスケット隊が出会い頭の猛撃を浴びせ、緒戦の意趣返しを果たした。


 帝国側の損害は一斉射で一〇〇騎以上にもなり、騎兵隊長フッガーも被弾して落馬し、傾斜を上って自陣へ帰ることはできなくなった生き残りは大回りして戻るために東西へ逃げ散った。瀕死のフッガーへ、グスターヴは手ずから死出の一献としてワインを与え、敵ながらあっぱれな勇気を讃えたという。


 その一方、ザクセン・ヴァイマールのヴィルヘルムが斜面を登り終え、アルテ・フェステの占拠を図ったが、古城は帝国軍の工兵によって防壁がつけ足されていて、突破口を開くことはできなかった。

 弟のベルンハルトは森の西部を進み、ヴァレンシュタインの本陣が見える位置までたどり着くことができたものの、射程の短い軽野砲では届かないとすぐに判断した。しかし、敵将の頭上に砲弾を降らせることのできる重砲は、この険しい斜面を登ってこられないことが明白だった。


 敵が北側にしかいないことに気づいたヴァレンシュタインは、次々と配置転換をして追加兵力を投入してきており、もはやスウェーデン軍に前進は不可能であった。


 夕刻になってから、レッヒ川の戦いでも活躍したフィンランド人決死隊が帝国軍の防壁を乗り越えて敵陣潜入を果たし、砲塁をいくつか奪い取った。ところがそこで日没が訪れ、その上大雨が降ってきて、帝国軍陣地を砲撃する絶好の機会は失われてしまった。


 雨は夜通し止まず、大砲の火薬はほとんど湿気ってしまい、マスケットの発火率も極端に低下した。白刃による散発的な戦闘は起こったが、大局には一切影響を与えるものではなかった。


 翌四日――


 グスターヴは戦闘継続を断念し、確保できていたわずかばかりの攻略基点も放棄して、フュルトの本陣へ全軍を帰還させた。ヴァレンシュタインも、火薬が湿気り、道もぬかるんで騎兵が疾走できないことから、追撃をすることはなく陣地の守りを堅め直すことに終止した。


 一連の攻防戦で、スウェーデン軍の戦死者は一二〇〇を数え、重傷者もほぼ同数だった。帝国軍側の戦死者は三〇〇に留まり、重傷者は七〇〇ほどだった。

 戦闘での死傷はさほど多くなかったが、両軍陣地内で赤痢が蔓延し、かなりの数の病人が発生した。そして、新鮮な飼葉が払拭したことで、双方合わせて一万頭もの馬が死んだ。


 一八日――


 疫病の猛威と糧秣の欠乏で、陣地を維持できなくなったスウェーデン軍は撤退を開始した。出発に先立って、グスターヴは戦列を組ませ、ヴァレンシュタインの目に止まるよう軍旗を振って見せたが、やはり帝国軍は陣地から出てくることはなかった。


 もっとも、消耗し切ったこの状態で戦えると、グスターヴも本気で思ってはいなかっただろう。帝国軍のあいだでも病魔は猖獗を極めており、スウェーデン軍がいなくなったところで、ヴァレンシュタインにそのままニュルンベルクをとすことはできない。だからこそ、グスターヴは兵を退いたのだった。


 二三日――


 ヴァレンシュタインもアルテ・フェステの陣を引き払った。勝利したとはいえ、帝国軍の損害も軽くはなかった。病人は当面使い物にならないし、馬の欠乏は深刻な問題だった。

 だが、ヴァレンシュタインはグスターヴよりもはるかに余裕があった。彼の領地は、メックレンブルクとアルニムに多少荒らされたシュレージエンの数カ所以外は健在であり、新たな軍団を立ち上げることは充分に可能である。スウェーデン軍より体力も残っている帝国軍は、行きがけの駄賃に、周辺の村落に火を放って回った。グスターヴが再びやってきたとき、食料を得られないようにするためだ。


 このヴァレンシュタインの劫掠により、戦場となったツィンドルフ始め、地域一帯は大きな被害を受けた。もっともひどい村では人口の四分の三が失われたという。


 とはいえ、グスターヴもバイエルンで同じことをやっていたのだ。そして、ヴァレンシュタインと違って兵站組織を持たないマクシミリアンは、壊滅したバイエルン軍の再建ができないため、戦線から脱落して本拠地へと戻っていった。

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