冷たい中立《Kalte Neutralität》
スウェーデン王グスターヴは、間違いなくプロテスタントの救世主だった。しかし彼はドイツ人ではなく、デンマーク王クリスティアンと違って神聖ローマ帝国の諸侯でもなかった。
この事実が、プロテスタント同盟の指導者であるザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクの決意を固めさせた。たとえ同じルター派であろうと、グスターヴにことを委ねてはならない、ドイツの問題はドイツに住まう者によって解決されねばならない――と。
決意こそしたが、ヨハン・ゲオルクはスウェーデン軍との戦いを即座に準備したりはしなかった。彼は老獪な政治家であり、スウェーデンの、フランスの干渉を退ける必要性を確信してはいたが、自分がその事業を行って皇帝フェルディナントを手助けするのは馬鹿正直にすぎるとわかっていた。国を防衛するのは、皇帝の務めである。フェルディナントが自分本来の責任に立ち返るのであれば、帝国の臣として尽くすに吝かでないが、まずは皇帝が己の行いを改めなければならない。
皇帝を動かすには、複数の選帝侯が働きかけねばならぬ。個別に立ち上がっても、ファルツのフリードリヒのように打ち破られるだけだ。ヨハン・ゲオルクは、真のプロテスタント同盟を復活させるための共同発足者に、ブランデンブルクのゲオルク・ヴィルヘルムを選んだ。ブランデンブルクは、マンスフェルトに、ヴァレンシュタインによって、もう散々荒らされており、その上にグスターヴも、表面上はゲオルク・ヴィルヘルムへ協力を呼びかけていたが、その返答を待つことなく勝手に兵の募集をし、進軍通路としていた。
ゲオルク・ヴィルヘルムは、フリードリヒとも、グスターヴとも姻戚関係にあった。彼の妻はフリードリヒの姉であり、その妻の母、つまりゲオルク・ヴィルヘルムにとっての義母は、ボヘミアの叛乱が失敗して以降ベルリンに避難していた。ふたりは、ことあるごとにゲオルク・ヴィルヘルムへフリードリヒを助けるように迫っていた。
グスターヴの妻はゲオルク・ヴィルヘルムの妹であり、ゲオルク・ヴィルヘルムからすれば義弟となるスウェーデン王へ力添えをしてくれるよう頼んできていた。
ゲオルク・ヴィルヘルムはそれでも皇帝に忠誠を誓い、ポーランド王の封臣となることで中立であることを政治的に示していたが、フェルディナントのほうは忠義に報いる素振りが一切なかった。ブランデンブルク選帝侯領に隣接するメックレンブルク大公領は、ヴァレンシュタインに投げ与えられていた。ヴァレンシュタインがつぎに望むのは選帝侯の地位であろうから、狙われるのはブランデンブルクであり、そして皇帝はそれを阻止してくれそうもなかった。
そうしたこれまでの経緯もあり、ゲオルク・ヴィルヘルムはヨハン・ゲオルクの計画案に耳をかたむけた。まずフェルディナントに選帝侯軽視、プロテスタント軽視を止めさせる。これは魅力のあるアイデアだと思われた。バイエルンのマクシミリアンらを含めた、全選帝侯の結束はヴァレンシュタインの解任という結果を引き出せた。プロテスタントがここで今一度力を合わせれば、ドイツは再びひとつになれるかもしれない。
結果からいえば、ふたりのゲオルクの考えは甘かった。いや、甘いと論ずるのは、ゲオルクたちに酷な評価もしれない。どちらかといえば、フェルディナントが辛すぎたのだろう。
一六三一年二月二六日――
皇帝フェルディナント二世は、ハンガリー王位を譲って箔づけをしておいた息子フェルディナントとスペイン王女インファンタ・マリアの結婚式を挙行し、神聖ローマ帝国とスペイン、両ハプスブルクの結束を不可分のものとした。花嫁がスペインを発ってウィーンに至るまで、一年四ヶ月もかかったという。戦争中であるため慎重に進んだのが理由のひとつだが、各所でパーティを開きながらだったからでもある。婚礼の祝賀パーティも一ヶ月以上に渡って続いた。
三月二八日――
ライプツィヒで会合を開いていた、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクを議長とするプロテスタント諸侯は宣言文を採択した。プロテスタントとカトリック、このふたつの党派の壁を越え、ドイツは団結すべきときがきたと。
〈回復勅令〉を撤回し、カトリックが武力を独占している状態を是正すると皇帝フェルディナント二世が保証し、プロテスタントの自由を認めるならば、ライプツィヒ会議は帝国の安全のために必要な措置を講じる準備がある。しかし、皇帝がカトリック至上主義政策を改めないならば、今後の事態に我々は一切の責任を負えない――
事実上の最後通牒であった。フェルディナントはプロテスタントと和解しなければならない。さもなければライプツィヒ会議の参加者はスウェーデンを妨げない、あるいはその味方となる。だが、フェルディナントが己の非を認めるなら、カトリック軍の代わりにプロテスタント軍がグスターヴと、ひいてはフランスと戦う、というのである。これははったりではなかった。
主だったプロテスタント勢力は、ルター派、カルヴァン派の区別なくライプツィヒ宣言に署名していた。前年にスウェーデンと同盟したヘッセン・カッセル地方伯と、封土を追われてスウェーデンに完全依存しているメックレンブルク大公すら、名を連ねていた。一等級のプロテスタントで名前がないのは、ライプツィヒまでくることがそもそもできなかったポンメルン大公と、スウェーデンを全面的に信じたマクデブルク、そして故意なのか事情があってなのかは不明だが代理人を派遣してこなかった亡命ボヘミア王フリードリヒくらいであった。
ヨハン・ゲオルクは口だけではないのだという証明のため、実際に兵の募集も始めていた。指揮官に任命されたのは、以前ヴァレンシュタインの幕営に務めていたハンス・ゲオルク・フォン・アルニム・ボイッツェンブルクであった。カトリック軍で働いていたとはいえそもそも個人の宗派はプロテスタントであったアルニムは、選帝侯の招聘に喜んでしたがった。ヴァレンシュタインがその人心掌握術を見込んで起用したように、アルニムは直接戦闘よりは募兵や兵站を組織するのに向いた軍人で、すぐに急ごしらえだが頭数は揃った軍隊を編成した。
一六三一年四月四日――
ライプツィヒ宣言文書は皇帝フェルディナントの元へ送られた。ヨハン・ゲオルクは個人的メッセージを記した書簡も添えたが、そうこうしているうちにスウェーデン軍はオーデル河沿いにどんどん南下してきており、フランクフルト・アン・デア・オーデルに迫っていた。
フェルディナントは軍人ではなく、急に帝国軍が弱くなった理由にまだ気づいていなかった。かといって、グスターヴが恐ろしく強いのだ、という発想にもいたらなかった。現実はその両方が相まったものであったのだが、それでも新生プロテスタント同盟軍に助けを乞わねばならない道理は皇帝の中には存在しなかった。
〈回復勅令〉は、腹心であるエッゲンベルクですら翻意させることのできなかった、フェルディナントの魂の中枢であって、ヨハン・ゲオルクがどうやって頼もうが、脅そうが、皇帝の決意が変わることはありえなかった。
同月一三日――
フランクフルトが陥落したと聞いて、とうとう皇帝もスウェーデン軍は危険なのだと理解するようになった。それでもフェルディナントはヨハン・ゲオルクに多少物柔らかな表現に変えた書簡を送るのみで、政策の転換やプロテスタントに対する謝罪をすることはなかった。ザクセン選帝侯の態度が頑なに変わらなかったので、その真意がどこにあるのかわからないまま、結局フェルディナントも最後は怒りに任せて命令を発した。プロテスタントのあらゆる募兵、徴兵活動に、帝国官吏は協力してはならない、と。五月一四日のことであった。
皇帝とその側近たちは、ライプツィヒ会議が軍を準備しているのは、グスターヴと共同戦線を張るためだ、と結論づけた。
フェルディナントは、この戦争はドイツ対ヨーロッパ列強、オーストリア・スペインのハプスブルク王朝対フランスのブルボンとスウェーデンのヴァーサ連合、なのだという認識をしようとはしなかった。フェルディナントにとって、これはカトリック対プロテスタントの争いであって、あくまでもドイツを再カトリック化するための戦いであった。
ヨハン・ゲオルクのほうが正しい視点を持っていたのだが、見通しすぎていたがために、却って理解を得られなかったのである。そしてヨハン・ゲオルクのほうにも無理解があった。宗派対立を脇に置き、ドイツの国体を保持するという誠意を己は持っているとヨハン・ゲオルクは自負していたが、相手にも純粋な誠意があるとは思わなかったのだ。
フェルディナントの誠意はイエズス会に対するもので、グスターヴの誠意はルター、カルヴァンを超えた全プロテスタントに対するものだった。
戦争の性格が変化してきていることを、おそらくはフランスのリシュリューも理解していた。と、いうよりは、単なるカトリックとプロテスタント間の宗教戦争ではなくなったので、リシュリューはスウェーデンとの同盟に踏み切ったのだと思われる。
主君ルイ一三世を神聖ローマ皇帝に登らせるのが密かな野望だったともいわれるが、リシュリューはそんなことを本気で考えてなどいなかっただろう。もちろん、得られるのなら帝冠をあえて棄てはしなかろうが、リシュリューにとっては、目的は獲得ではなく、あくまでも防衛戦争だった。フランスを万力のように締め上げる、ドイツとスペインというふたつのハプスブルク、最低でもそのどちらかを、可能ならば双方を弱体化させ、祖国の安全を確保するのがリシュリューの務めだった。
スウェーデンのグスターヴは、情熱で動く人間であって、冷静に沈思熟慮すれば気づいていたかもしれないが、おそらくは、あえて考えていなかった。グスターヴにとって、戦いは、先代までの負債を返し終わって以降、基本的に誇りのためであった。ポーランドも、ロシアも、神聖ローマ帝国も、スウェーデンの統治者に王位があるとは解釈せず、対等の関係にあると認めなかった。現に、先だってフェルディナントが寄越してきた使者も、グスターヴに対し「王」や「陛下」といった尊称を使わなかった。
この先、グスターヴは「もし私が皇帝になったら……」と、メックレンブルク大公に語る機会があったが、それは必ずしも本音の発露、むき出しの野心を意味してはいない。ファルツのフリードリヒを復位させるという提案も、原則は不当に地位を追われた者への救済であって、選帝侯会議での票が目当てだったわけではない。もちろん、誇り高きグスターヴは、諸国の王がどうしても自分の王冠を見ようとしないならば、皇帝になることで否が応でも認めさせてやる、という気概は持っていたであろうが。
他方、ヴァレンシュタインには、宗教からも王朝からも離れた、独自の世界観があったようである。ヴァレンシュタインはなにかしらの建設計画を持っていたが、それは彼自身の地位と分離可能なものであった。皇帝が支配する新たな領邦なのか、新たな王冠を創出するのか、計画が形をなすことはなかったため詳細は不明だが、ヴァレンシュタインは自らが支配するためだけに新国家を準備していたわけではなかった。妨げる者がいなければヴァレンシュタインは皇帝になっていたのか、それすら疑わしい。
もしかすると、手元に転がり込んできた場合ですら、ヴァレンシュタインだけは帝冠をつかみ取ろうとしなかったかもしれないのである。
いずれにせよフェルディナントはカトリック対プロテスタントという旧来の対立軸を選択し、グスターヴもプロテスタント救済を大義に掲げていたため、ヨハン・ゲオルク渾身の賭けは不発に終わった。フェルディナントに袖にされた以上、ヨハン・ゲオルクは振り上げた拳を、プロテスタントのために、グスターヴのために打ち下ろさなければ筋が通らなくなってしまう。
グスターヴはライプツィヒ会議の領袖である両ゲオルクが同盟を申し込んでくることを待っていたが、クリスティアン・ヴィルヘルムを送り込んでいたマクデブルクが危機的状況に陥り、ぐずぐずしてはいられなくなった。クリスティアン・ヴィルヘルムの後見として、ディートリヒ・フォン・ファルケンベルクという将校が守備隊長としてマクデブルクに入っていたが、攻囲の相手はティリーであり、いつまで保つかは心許なかった。
実際には、ティリーがマクデブルクを攻撃したのは消去法の結果であった。ヴァレンシュタインの将軍解任に伴って兵站が消滅したため、ティリーは軍へ補給をすることがますます困難になっていた。ヴァレンシュタインの指示を受けた各地の補給官は、代金が支払われないかぎり軍需物資を渡さなかった。これ自体は不当なことではない。これまではヴァレンシュタインが物資の生産者をも兼ねていたために、配下の軍は常に補給を保証されていたのである。生産者、集積者、消費者が別々となるなら、受け渡しには代金が必要とされる。
将軍を解任されたヴァレンシュタインは、いまや大荘園の運営者であり、売り手としての立場でしかなかった。実際に、ヴァレンシュタインはこの年の小麦の市場価格高騰で、かなりの儲けを出している。
一方、ティリーは支払える金銭を持っていなかった。フェルディナントは金欠のゆえにヴァレンシュタインに自弁を条件として兵権を許可していたのであり、いまや帝国軍に給金を支払う者はいなかった。補給がないからといって「軍税徴収」という名の略奪をすれば、住民たちはグスターヴに助けを求めるだろう。
ティリーのそもそもの主人であるバイエルンのマクシミリアンはなにをしているかといえば、あろうことか、五月八日にフランスと新たな条約を締結していた。マクシミリアンがフランス党だというのは公然の秘密であったが、しかしいまは時期が悪すぎる。なにせ、スウェーデンのグスターヴはフランスとの同盟を堂々と公表しているのだ。マクシミリアンのほうは、条約の存在を秘匿している。
フランスとの条約の内容は、「フランスは、バイエルンの選帝侯位を承認し、保証する。バイエルンは、フランスの友を攻撃してはならない」というものであった。ティリーは、マクシミリアンをあてにできないと、陰気なあきらめを抱くしかなかった。
現在、スウェーデン軍の他にドイツに「敵」は存在しない。合法的に略奪ができるのは、スウェーデンと同盟していることで法的にも「敵地」であるマクデブルクだけだった。
グスターヴにとっても、マクデブルクは難しい存在だった。唯一の友好的同盟都市なのだが、その救出のために中立地帯を進軍すると、のちのち敵を増やしてしまうかもしれない。五月上旬の時点でスウェーデン軍はフランクフルトから西に進み、ベルリン近傍にあったが、マクデブルクまではさらに倍以上の距離がある。
南にはザクセン選帝侯国があり、アルニムに率いられたライプツィヒ会議軍がいた。ヨハン・ゲオルクがプロテスタントとしての立場より神聖ローマ帝国の一員としての立場を重んじれば、容易く横撃を受け、スウェーデン軍は壊滅の憂き目に遭うだろう。ヨハン・ゲオルクの武装中立維持は、グスターヴにとって嫌な頭痛の種だった。
五月一七日――
マクデブルクは十数度目かの攻撃にどうにか耐えたが、既に城壁外の小砦はすべて陥落しており、これ以上は持ちこたえることもできそうもなかった。




