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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第一幕 ボヘミア・プロテスタント独立戦争(1618〜1621)
2/63

トゥルン将軍《Marshall Thurn》


 一六一八年五月二三日夜——


 ボヘミアの首府プラハにおいてカトリック支配に抗するプロテスタント諸派が企てた政府転覆運動は、その第一段階が成功裏に終わった。


 フラドシン宮の窓から放り捨てられた三名のうち、マルティニッツと書記ファブリティウスはプラハを脱出し、国王フェルディナントと皇帝マティアスのいるウィーンへ向かったが、汚物の山に落ちたスラヴァータは担ぎ込まれた先で高熱を発し、逃げ出すこともできずに軟禁されてしまった。


 トゥルン伯を先頭とするプロテスタント側は、体制を整えるために迅速な行動を起こしていた。恭順を約した官吏はカトリックであってもその地位を安堵されたが、臨時政府の最高意思決定機関となる評議会の執政官には、叛乱に加わったプロテスタント各派閥の代表者一三名が選ばれた。


 その上で、トゥルンはそれぞれの勢力の負担によって一万六〇〇〇の護民軍を結成し、その司令官に伯自身が就任することを議決させることに成功したが、自らは執政官となることを固辞していた。


 表面上は、この時代にはあるまじきほど民主的で立憲的な体制に見える。だが、実際には、各派閥は本来利害を一致させることのできない相剋を抱えていた。ルター主義とカルヴァン主義のあいだの亀裂は埋めがたく、また、貴族、市民、農民の仲の険悪さは、今さら喧伝するまでもなかった。


 彼らをき動かしたのは、カトリックの守護者を自認する新王フェルディナントへの恐怖と反発であった。老齢のマティアスですら、腺病質の抜けぬルドルフに見切りをつけたプロテスタントに担がれて王位を得たにもかかわらず、宮廷をプラハからウィーンへとうつし、恩人たちの特権を着々と削ってきたのである。若く活力に満ちたフェルディナントは、さらなる苛斂誅求をもってプロテスタントたちを遇するだろう。その政策が実施に移される前に、叛乱は起こされねばならなかった。


 しかしプロテスタントたちには、革命成就後にいかなる世界を築くのか、その意思の統一がなかった。カトリック政府への反発以外に、彼らは共有するものを持っていなかったのである。


 カトリックと皇帝の、聖俗二重化された強大な権力に立ち向かうために必要だったのは、衆議ではなく、集権体制による強制力であったのだ。そういう意味では、実はトゥルンが執政官とならなかったのには巧妙な狙いがあった。叛徒に対して、国王と皇帝は必ず鎮圧軍を差し向けてくる。現実の剣の威力にさらされれば、プロテスタントたちは仲違いを忘れて結束するであろうし、独立を守る軍の権威は確固たるものになるだろうと見たのだ。


 だが、すぐにでもきたると思われた叛徒討伐の軍は、なかなか現れなかった。新王フェルディナントは即座に異端掃滅の〈十字軍〉を催すよう主張したのだが、皇帝マティアスの相談役である枢機卿クレースルが武力行使に慎重な姿勢を崩さなかったのだ。


 叛乱が軽く見られていた、という面もある。現にプロテスタント臨時政府は、ボヘミア内のカトリック都市へ断固たる措置を採ることができていなかった。全ボヘミア人へ平等な権利を与えるという、臨時政府の理念が空回りしていたのである。


 敵が目に見えないことで、プロテスタントたちの結束は早くもゆるもうとしていた。皇帝が、叛乱の首謀者への恩赦と平和的会談を申し入れてくるという噂が流れ、過激派を売り渡して自分たちは赦免を得ようとする一派の動きを察したトゥルンは、先手をとって革命の理念をひとつ犠牲にすることを決断した。


 六月九日――


 ボヘミア全土からカトリック右派の代表格たるイエズス会士(ジェスイット)へ追放処分が下された。夏が盛りを迎える前に、トゥルン率いるプロテスタント護民軍はカトリック都市クルムマウを攻撃し、陥落させた。力の行使によって箍の締め直された臨時政府は、実際にもたらされた皇帝マティアスからの和平提案を峻拒した。


 なおも抵抗を続けるカトリック都市ブトヴァイス攻略の指揮を執るトゥルン司令の元を、執政官シュリックが訪ねたのは、七月も半ばをすぎたころのことだった。


 トゥルン伯ハインリヒは当年とって五〇歳、対トルコ戦で功績をあげたこともある、軍人としても政治家としても脂の乗り切った壮年の男であった。シュリック伯はトゥルンよりふたつばかり年少であったが、由緒正しい家門の出身であり、圭角の強いトゥルンよりも幅広い層から親しみを受けていた。


 先に口を開いたのは、年少者のほうだった。


「トゥルン卿、あなたが事実上、ボヘミア・プロテスタント臨時政府の長なのです。なぜ執政官にならなかったのですか」

「私が執政官となりながら軍の指揮官を兼務しては、一執政官としての分を超えてしまうだろう。かといって執政官それぞれが固有の軍備を抱えるようなことになれば、協調は望むべくもない」


 トゥルンの答えは、上辺は良識に溢れ、もっともな響きをそなえていた。シュリックはうなずいては見せたが、口に出しては遠回しながらも、トゥルンの進める過激政策を批判した。


「われわれの目的は、皇帝と新王に〈国王(Majestäts)勅書(Brief)〉の有効性を認めさせ、失われたプロテスタントの権利を回復することにあるはず。なぜ交渉の席そのものを拒否なさるのですか」

「彼らはいままで、いくど約束を破った? 交渉などではらちはあかぬ。連中はまず〈勅書〉を保証せねばならない。その上で話があるのなら聞かないでもないが、しかし、あのフェルディナント大公と意味のある会話が成立するとは思えないな」

「大公はボヘミア王となるにあたり、われらの要求通り〈勅書〉へ署名しています。クロスターグラープとブラウナウで起こったことは、いささか度がすぎていたのではありませんか」


 シュリックが挙げたふたつの都市では、カトリックであるプラハ大司教管轄の土地に、過激派のプロテスタントたちが新たな教会を建立し、摩擦を引き起こしていた。新王フェルディナントの態度を試すための挑発行為であったことは、明白であったが、大陪審はプロテスタント側へ敗訴を宣告していた。その判決を下したスラヴァータは、先日フラドシン宮の窓から投げ捨てられている。


「程度問題ではない。〈国王(Majestäts)勅書(Brief)〉は有効か否か、それだけだ。そもそも、プラハ大司教管区への地権の移譲自体が、〈勅書〉に違反している疑いがあるにもかかわらず、その点の審理がされていない。無効判決だ」


 トゥルンは不興げな表情と声とで応じたが、シュリックはさらに危険な領域へと切り込んだ。


「そもそもあなたが動いた動機は、個人的なものだったのではありませんか?」

「なんだと」

「あなたはカールシュタイン城代の地位をマルティニッツに奪われている。彼を追い落とす口実を探していただけではないと、いい切れますか?」

「それは違うぞ!」


 己の激情と革命的プロテスタント精神を融合させることにおいては超一級であるトゥルンは、大げさな身振りとともに口舌を振るった。


「私が問題にしたのは、重要な地位に就いているプロテスタントの後釜にカトリックを据えた、その点に尽きるのだよ。私が城代を降ろされても、後任がプロテスタントであれば異を唱える気はなかった。同じようなことはほかでも起こっていたのだ。皇帝と新王にプロテスタントの諸権利への配慮は欠片もない、その象徴的な出来事だったというだけだ、私個人の一件は」

「……では、彼らにどこまで譲らせれば目標は達せられるとお考えなのです」

「〈勅書〉の完全な有効性の確認と、いままでプロテスタントが失ったものすべての回復、最低限このふたつであろう。つぎのボヘミア王については、人選のめどが立っている」

「なんと……」

「ファルツ選帝侯フリードリヒどの。これによって神聖ローマ帝国の支配者を決する投票において、われわれプロテスタントは七票中四票を占めることができる」


 遠大なトゥルンの計画――いや、個人的な野望であろうか――を聞かされ、シュリックはものもいえずに立ちつくした。古い家柄である伯爵家の当主として、シュリックは武装中立の現状を引き延ばすことが肝要だと信じ、その考えにしたがってボヘミア王の選挙でもフェルディナント大公へ票を投じたのだ。負ければすべてを失う危険な賭けに出るには、シュリックは多くのものを持ちすぎていた。そして、トゥルンの背後にはさらに大きな勢力がいることにこの時点では気づいていなかった。


 選帝侯のうち、マインツ、トリアー、ケルンの三侯は司教であり、不動のカトリックであった。いや、実際にはケルン司教がプロテスタントになろうかという事件が以前に起こってはいたのだが、ローマ教会とスペイン軍の干渉によって失敗していた。


 当時の選帝侯ゲープハルトが改宗にかたむいた理由のひとつが、カルヴァン派の修道女に惚れたためであった、という点もまた、支持を集約するには弱かったが、それでもなお、この小宗教改革の挫折は、カトリック勢力の底堅さをプロテスタントたちに思い知らせたものであった。


 俗人四侯のうち、ファルツ、ザクセン、ブランデンブルクの各侯は現在プロテスタント。そして、第四のボヘミア王というのは特異な位置を占めていた。王位は継承順位に基づいた相続制ではなく、選挙によって決められるのである。これまでボヘミア王の椅子に座ってきたのはハプスブルク家の一員、カトリック信徒であり、波瀾が起きることはなかったが、理屈の上ではその出自や宗教は問われていないのだ。


 皇帝マティアスの死期が近いことは、だれもがわかっていることであった。選帝会議に先だってボヘミア王にプロテスタントを据えれば、神聖ローマ皇帝をもプロテスタントとすることが可能になる。皇帝がボヘミア王にフェルディナントを推挙した上で退位したのは、自身の死によって選帝会議が三対三の分裂状態と化して収拾不能になることを防止するためであったが、プロテスタント側からすれば千載一遇の好機でもあったのだ。


 しかしトゥルンはボヘミア代々の譜代貴族ではなく、王位選挙の投票権を持ってはいなかった。そしてシュリックら穏健派は、ハプスブルク家の思惑通りに、フェルディナントへボヘミアの王冠を与えてしまった。トゥルンは、プロテスタントが合法的に勝利できる機会を逃したことに、これまで切歯扼腕してきたのだった。


「貴卿は執政官でしょう、シュリック伯。私はあなたがた評議会の決定にしたがいまするよ」


 そういってトゥルンはシュリックの肩を叩いたが、執政官はそれぞれの下部議会の投票にさらに縛られており、早々一致した方向へボヘミア議会としての決を採ることはできないという点を承知の上での、嫌味であった。


 帝国そのものの新教化という、プロテスタント革命の真の決着点を見越していたのは、この時点でのボヘミアにはトゥルンしかいなかったが、シュリックの指摘の通り、実際のところトゥルンを動かしていたのは私怨と激情であって、たとえプロテスタント人民が絶滅しようともカトリックに抗して戦い抜くべきだという、神学的徹底さを感得していたわけではなかった。


 叛乱を起こした当の本人たちすら事態の重要性を理解しきれていないのであるから、情報伝達は早馬と噂話に頼るほかないボヘミアの外の人々が、帝国の一地方で起こったありふれた叛乱であると受け取ったとしても、なんら無理はない。


 反ハプスブルクの共闘を持ちかけられたフランスだったが、ボヘミア・プロテスタント臨時政府の特使はすげなく追い払われていた。国王ルイ一三世は弱冠一七歳の若者であり、「敵の敵は味方」という、すれた公式を理解するには若すぎた。敵国とはいえカトリックであるハプスブルク朝に抗するプロテスタントを援助するには、宗教的良心が大きな障害となったのである。

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