揃わぬ剣先《Schwertspitze ist nicht Ausrichten》
皇帝フェルディナントによる帝国再編は、当然ながらおひざ元のオーストリア、ボヘミアに留まるものではなかった。
先だっての帝国会議でフェルディナントの政策を支持した数少ない諸侯のひとりヘッセン・ダルムシュタット地方伯ルートヴィヒは、ヘッセン・カッセル地方伯モーリッツの所領を削封した分をもって加増され、忠義が報われた。「信義伯」ルートヴィヒには、さらにライン・ファルツの一部すら与えられたが、これはバイエルン大公マクシミリアンが富と栄光のことごとくを独占してしまわないよう、フェルディナントなりに均衡へ気を用いての采配であったようだ。
マクシミリアンにあまりにも与えすぎる――と味方のはずのカトリック有力者たちの口から散々いわれていたが、フェルディナントとてバイエルンの存在の大きすぎることを意識せずにはいられなかったのである。フェルディナントはほかにもシュパイヤー司教へライン河畔の土地を「回復」する許可を与えており、マクシミリアンへ渡るライン・ファルツ領をなにかと理由をつけて削っていた。
折しもドイツ北部にふたつの空白域が生じ、その支配者の座を巡っての鞘あてはすぐに危険な水位に達した。オスナーブリュック司教領の管理者であった、ルター派のフィリップ・ジギスムントは一六二三年の三月に死去し、プロテスタントから司教区を取り上げる恰好の機会をカトリックに与えた。そしてハルバーシュタット司教区の管理者は、あの「いかれたクリスティアン」であり、いまや公然たる謀叛人である彼の免職は時間の問題であった。
フェルディナントは、二番目の皇子、大公レオポルトを司教の座に就けようと考えた。ゆくゆくはフェルディナント三世として将来皇帝となる兄を、弟が聖職者となって物心両面から支える――その体制を整えておくことは、政略として当を得たものであった。なにせ、皇帝や領主といった、世俗権力からの徴税には断固抵抗するのに、教会税であればすんなり支払う者というのは、結構いたものなのである。もちろんいかなる徴収者に対しても支払いを渋る人間も多かったが、しかし教会税を拒んで世俗税を喜んで支払う者は、いた試しがないものだ。
だが、血族を「教会」へと考えていたのはフェルディナントだけではなく、マクシミリアンも空いた司教座に一族の者を送り込もうと欲しており、さらにザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクもまた、同様の計画を持っていた。とくにザクセン選帝侯には、現在プロテスタントが治めている管区の引継という大義があった。
しかし帝国内のカトリック、プロテスタント両雄の思惑より皇帝にとって脅威であったのは、デンマーク王が新司教区管理者就任レースへ参戦の気配を見せていることであった。デンマーク王はホルシュタイン公として、帝国諸侯のひとりでもあり、ドイツ内の司教区問題へ首を突っ込む権利を持っていたのである。
デンマーク王クリスティアン四世――皇帝フェルディナント二世より一歳年長であり、父王の死によって玉座に就いたのは前の世紀のこと、一五八八年で、国主としての経験はフェルディナントを遥かにしのいでいた。語学に堪能で学問を奨励する啓蒙のはしりをゆく王であり、また話し好きでもあった。クリスティアン四世に北国の陰鬱さを思わせる性情はなく、あるイタリア人は「彼がそんなにも寒い気候のところに生まれたとは、だれも信じられないだろう」と書き残している。
王はまた、プロテスタントの守護者を自任してもいた。その次男フリードリヒは既にブレーメンとフェルデンの教区を得ていたが、さらなる根拠地伸張を図る王は、大義のひとつとしてドイツのプロテスタント保護を看板に掲げていた。そして、帝国外のプロテスタント王国であるデンマークがドイツ内で影響力を拡大することは、フェルディナントとハプスブルク朝にとって忌々しく危険であったことは言を俟たない。
しかしこの時点では、クリスティアン四世はこれまで通りの口先介入にのみ終始した。戦争の準備が整っていなかったからでもあり、クリスティアンにプロテスタントの盟主の座が約束されていなかったからでもあった。オランダのハーグから、「ボヘミアの正当なる王」にして「バイエルン大公に簒奪されたファルツ選帝侯」であるフリードリヒは、ヨーロッパ中のプロテスタント諸勢力へ助勢を訴えたが、今回もその足並みは揃わなかったのである。
とくにフリードリヒにとって困ったことは、義父であるジェームズが、王太子とスペイン王女の結婚を欲して、カトリックへ急接近している点であった。ジェームズは、ファルツ領内に唯一残ったプロテスタントの堡塁、フランケンタールからイギリス守備隊を撤退させることまでやったのである。これは完全な利敵行為であった。さらに、フリードリヒの長男ハインリヒを皇帝の娘かバイエルン大公の姪と婚約させ、敵対関係を終わらせるようにと薦めてきた。これによって、フリードリヒは妻の実家を、彼の外交戦略から完全に除外して考えなければならなくなった。
そうなると、やはり頼りになるのは実力行使のみだ。フリードリヒは、契約が切れていた傭兵隊長マンスフェルトと、ブラウンシュヴァイク大公クリスティアンへ書簡を出した。もはや何度目になるのか数える気にもなれないが、またぞろハプスブルクとの和約を破ることにしたトランシルヴァニアのガブリエル・ベートレンと呼応し、帝国の北西と南東を荒らして、ジェスイット原理主義のフェルディナントへ、プロテスタントを滅ぼすことなど決して不可能であること、したがって和議を結ぶことのみが正しいのだと思い知らせよというのである。
もちろん広大な帝国の端を少しばかり突ついたところで、所領を荒らされた当地の諸侯が怒りはすれど、皇帝が音を上げるわけはない。フリードリヒと彼の亡命政府の外交団は、トルコにもロシアにも、スウェーデンにもヴェネチアにもフランスにも、反ハプスブルク闘争への一斉決起を促していた。しかし支払いはすべて空手形、神聖ローマ帝国の各地をそれぞれが切り取ってくれ給え、という話であったため、だれも真に受けはしなかった。
当然ながら、腰を上げなかった者の中にマンスフェルトも含まれていた。彼は、オスナーブリュックにほど近い、ミュンスターに拠点を築くにいたっていたが、傭兵軍団を厭う、ごく一般的な都市や農村の住民のあいだに寄生の根を張る才能を有していた。気づいたときには、日々の生活の中に、マンスフェルトとその兵士たちへの奉仕が組み込まれている――それが、彼に目をつけられた地域の住民たちに見舞われる、不幸な運命の常だったのである。当座の口しのぎを確保していたマンスフェルトは、前払いのないフリードリヒの書簡を無視し、もっとよい条件がつくのを待つことにした。
ハプスブルクへの嫌がらせが趣味のようになっていたベートレンは決起し、マンスフェルトに比べると軍を安定して宿営させる才幹に欠けていたクリスティアンも、エリーザベトの騎士として、また「神の友にして坊主の敵」として、帝国への攻撃を承諾した。いまだにフリードリヒには口先ひとつで万を超える兵力を動かすだけの、あるいは戦争好きの荒くれが挙兵のさいの大義に利用できるだけの権威があったのである。
一六二三年の春に、クリスティアンは、兄であるブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル大公フリードリヒ・ウルリッヒの「守護者」を自称して、勝手に下ザクセン地方へ侵入していった。この行動は皇帝フェルディナントに恰好の口実を与えることにもなり、カトリック連盟の主将ヨハン・セルクラエス・ティリーが派遣されてきた。
ティリーはクリスティアンへ退去と皇帝に対する服従宣誓をするよう迫ると同時に、周辺地域の諸侯へは「野人公」を追い払うよう勧告した。クリスティアンのほうは、ハプスブルクとカトリックの専制に対し剣を把って起つようにと、諸侯と民草たちを煽った。しかし周辺諸邦の人々はおとなしく、荒っぽいことは苦手であった。それゆえに、クリスティアンが傍若無人に振る舞うこともできたのである。だが結局、クリスティアンは土地の人々から追い出されはしなかったものの、蜂起に巻き込むこともできなかった。
七月一三日――
ティリーは下ザクセン地方へ進軍を開始し、三日後には最後通牒を発した。服従宣誓は拒否し、クリスティアンはマンスフェルトへ共同戦線の提案をしたが、マンスフェルトのほうは答えないということで狡猾に自らの立場を守った。応諾してティリーと戦うなどというのは問題外だったが、露骨に拒絶して、怒ったクリスティアンにティリーもろともミュンスターへ突撃してこられても困るので。
最終的に、クリスティアンは周辺で唯一彼と志を同じくすることを選んだ、ザクセン・ヴァイマール大公ヴィルヘルムとその弟ベルンハルトを供に、一万五〇〇〇の兵を率いて下ザクセンをあとにしたが、そのさいに、ハルバーシュタット司教区を、デンマーク王クリスティアン四世の息子へ譲渡する、と宣言したのである。もちろん法的根拠はない。しかし、まだ罷免されたわけではない現役の司教区管理者による、公式声明であることは確かだった。
さりげなく皇帝の面子に後足で砂をかけつつ、クリスティアンは西へ行軍していったが、結果的に退去命令にしたがったとはいえ、それで赦してやるほどティリーも甘くはなかった。「悪しきハルバーシュタット人」――新たにクリスティアンへ進呈されたふたつ名だ――を討つべく、「軍服をまとった修道士」は賊軍を追撃した。その兵力は二万五〇〇〇に近く、会戦となれば必勝疑いない。
クリスティアンのほうも兵力差は承知していたため、戦うのであればマンスフェルトの協力は不可欠で、そうでなければ逃げ切らねばならなかった。西へと向かうことで、プロテスタント軍はふたつの可能性にかけていた。まず第一に、ミュンスターは、ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテルから一〇〇マイル少々西に位置するため、そちらへ進軍しながらマンスフェルトへ援護要請をすることができる。そして第二に、マンスフェルトとの共同戦線が破談になったなら、そのまま西進してネーデルラント連邦の領内へ駆け込もうというのである。
前年に続いての押しかけ援軍だが、一万五〇〇〇の兵力と、下ザクセン各地で徴発した軍需物資を持っていけば、オラニエン公マウリッツもクリスティアンを無下にはできないはずであった。なにせ、戦況の悪化がオランダからマンスフェルトとクリスティアンに対する支払いを滞らせたのだ。マンスフェルトはドイツへ戻ってきても根拠地の確保ができたが、クリスティアンはなかなか兵らを食わすことが適わず、今回の冒険に訴えたのである。
七月二七日――
クリスティアンはハーメルンの南、ボーデンヴェルダーでヴェーザー河を渡り、ティリーはさらに南、コルヴァイのところで三〇日に渡河した。三日間のリードをクリスティアンはミュンスター周辺でマンスフェルトを待つことで空費してしまい、度重なる要請にもかかわらず、歴戦の傭兵隊長は出てこなかった。ここでティリーと戦うことのリスクのあまりの高さと、そして仮に勝てたとしても戦略的・政治的にはさして価値がない――そのことにマンスフェルトは気づいていたのである。
カトリックの一野戦軍が壊滅した程度でプロテスタント側に有利な和平は望めないし、ましてマンスフェルトが一侯国の主として遇される途はありえない。逆をいえばここでクリスティアンが粉砕されても、それでプロテスタント側はハプスブルク=カトリック体制への抵抗をあきらめることはできないだろう――というのがマンスフェルトの計算であった。
お手並み拝見、とばかりに放置されたクリスティアンは、全速でネーデルラント方面へと逃走していくほかなかった。
八月六日――
ついにクリスティアンはティリーに捕捉された。オランダ国境は目前であったが、数は多いが重たい荷物を背負っていないカトリック軍は、さまざまな戦利品を抱えていたプロテスタント軍よりずっと軽快であった。クリスティアンは防御陣地の構築を決断し、小村シュタットローンの近郊、沼沢地で挟まれた丘という条件は悪くない地点を選んで、部隊を配して砲座を設置することができた。
正午ごろにカトリック軍も布陣を終え、戦闘が開始されたが、それに先立って敵軍の様子を見たティリーは、掲げられていたクリスティアンの軍旗に記された「神のため、彼女のため(Pour Dieu et pour elle)」という彼のいつもの標語を目にして驚き呆れ、かつ怒った。敬虔なカトリックであるティリーからすれば、神の名と俗人の女の名を並べて書くなど、ありえない冒瀆である。
「死にいたる堕落の袋詰めめ。そんなものを崇める彼奴に勝利などありえん」
クリスティアンの時代がかった騎士道精神も、軍服をまとった修道士にかかればこのいいようであった。
だが戦闘においては、神の加護は関係なく、戦力の質と量において優越するティリーの勝利は疑いないもので、かつ順当であった。狭隘な小高地に布陣し、機動戦を完全に放棄したクリスティアンに、正面から数で押してくるティリー軍を撃破できる見込みはまったくなかった。防御のみを考えたその陣地は、軍が潰乱するまでの時間を引き延ばすことができただけで、最初から負けが決まっていたのである。
攻勢はともかく防御戦闘には向かない騎馬隊がまず最初に崩れ、前線を支え切れなくなった歩兵部隊が退路を求めても、敵の襲来を防いでくれる左右の沼沢地が災いして後ろが閊えるばかりであった。
プロテスタント軍一万五〇〇〇のうち、戦死者は六〇〇〇を数えた。四〇〇〇あまりが捕虜となり、下ザクセン諸侯のうちで唯一クリスティアンの味方となっていたザクセン・ヴァイマールの兄弟もその中に含まれていた。どうにかオランダ国境を越えることができたのは二〇〇〇ほどで、残りはどこへともなく逃げ散った。そしてなにより痛手となったのは、一六門もの大砲と、軍需物資ほぼすべてがカトリック側に鹵獲されたことであった。
いままでも戦闘ではろくに勝ったことのないクリスティアンだったが、兵員を喪失したことはあっても、貴重な物資を保持したり、包囲網の突破は果たしたりと、戦略的な目標は達成してきていた。だが今回の敗北は、ただ戦術的な壊滅に留まらず、なにひとつ見るべきところの残らない大惨敗であった。
ガブリエル・ベートレンも、いつものように適当な小競り合いをすませてからウィーン政府とお互いに信じていない毎度の和約を結び、一六二三年のフリードリヒの反攻計画はものの見事に潰えた。そして、普段であれば執念深くつぎなる計画を練り始めるはずの若き亡命王が、このときは弱気の風に吹かれて皇帝に休戦を求めたのである。
義父であるジェームズの再三に渡る説得に反論する材料が尽きたからであり、ひょっとすると、ハーグの亡命宮殿へ転がり込んできたクリスティアンの尾羽打ち枯らした姿を目のあたりにして、戦争の悲惨さを実感したせいであったかもしれない。
これまで、フリードリヒは白山での大敗の直後、逃げてくる将兵の姿をプラハ市内で見たことがあるだけであった。戦争の当事者でありながら、フリードリヒはそれだけ前線から遠かったのだ。今回のクリスティアンは、会戦で疲れ果て、丸腰になり、わずかな部下とともに夜を徹して命からがら逃げてきたのである。負けたとはいえ戦闘直後、まだ元気の残っているアンハルトたちとは違った。
シュタットローンの戦いから三週間後、フリードリヒは皇帝宛ての休戦を求める書面に署名し、イギリスの外交団にそれを託した。
……ところが。
噛み合ないときは、なにもかもがうまくいかないもので、フリードリヒの抵抗の意志が折れたまさにそのとき、娘婿へ和睦を薦めたジェームズの最大の動機である、王太子とスペイン王女との縁談が修復不能なまでに決裂したのであった。
ジェームズの息子チャールズとその寵臣バッキンガムは、マドリード宮殿での王太子一行に対するスペイン側の態度があまりに無礼だったとして、怒りに震えながら帰国してきたのだ。もっとも、先に礼を失したのはバッキンガムのほうだ、ともいわれているのだが。
タイミングが揃わないばかりに、ひざを屈して和を乞う機会すら逸したプロテスタント陣営を救う手は、カトリック教徒の元から、フランス・パリより伸びてくることになる。




