第二章 『選ばれた血』⑤
新薬研究施設は、施設の名からはかけ離れた病院のようなところだった。大きさは一般的な大学病院並み。近代的なその外観からだけでも、かなり高度な設備が整っていることが窺い知れる。
二人の男たちとともに、俺は施設へと足を踏み入れた。
入口からエントランスホールを抜ける。だが、その先は、銀行の保管金庫のような厚い扉が道を塞いでいた。
何もできずに黙って様子を見ていると、二人の男のうち、左側に立つほうが言った。
「これより先は、おひとりでお願いします。扉の向こうに、別の案内がいますので」
「分かりました」
そう俺が返事をすると、右側の男がパネルを操作して扉を開いた。
「どうぞ」
声に促され、俺はおずおずと先へと進んだ。
すると、また扉があった。今度は、磨り硝子の自動扉だ。
「こうすれば開くのだろう」と、扉前の床を踏んでみる。
しかし、うんともすんとも言わない。ぐずぐずしている間に、後方の厚い扉も閉まってしまった。
「な、何だ」
慄く俺の全身に、直後、緑色の光が浴びせられた。
「照射完了。滅菌状態が確認されるまで、暫くお待ちください」
そんな声が機械音で聞こえてくる。どうやら、殺菌のための光が当てられたらしい。
慌てた自分を格好悪く思っているうちに前方の自動扉が開いた。
俺は、恐るおそる扉を抜けた。
自動扉の先は、ひたすら続く長い廊下になっていた。廊下の左右には、幾つものドアノブが見える。
「お待ちしておりました」
いきなり横から声をかけられ、前ばかり注視していた俺は飛び上らんばかりに驚いた。
叫びそうになるのを辛うじて堪え、そちらに目をやる。
声の主は、二十代半ばほどの女だった。
「お疲れ様でした。これより、お部屋へと案内いたします」
そう告げると女は、廊下を先に立って歩き始めた。俺は、大人しくそのあとに続くことにした。
左右合計二十ほどのドアをすぎたところで、女は立ち止まった。
「こちらが、本日より五日間をすごしていただくお部屋となります」
女がドアを開く。
俺は、ゆっくりと足を踏み入れると、おもむろに室内を見回した。
同時に、
「ほう、これは」
思わず感嘆の声が口をついて出る。
それもそのはず、背もたれ可動式の医療用シングルベッドは言うに及ばず、テーブルやソファー、テレビ、冷蔵庫、さらには、ゲーム機や雑誌の類までもが置いてあったのだ。
背後から女が聞いてくる。
「どうでしょうか? お気に召していただけましたでしょうか?」
「えぇ、もちろん。でも、たった五日間寝泊まりするだけなのに、どうしてこんなに立派な部屋を?」
振り返りそう俺が問うと、女は、
「できるだけ日常と変わらない環境ですごしていただくためです。そのほうが、正確な治験結果が得られますので」
と、当たり前のように答えた。
「成程」
俺は分かったような顔をして返事をした。
だが、今朝までの宿無し暮らしを考えれば、ここは、日常の環境ではなく天国だった。
「では、今後のスケジュールについて説明をいたします。これより、簡単な問診と健康診断をさせていただき、その後、午後七時にご夕食。お食事は、私がお部屋へと持参いたします。本日はそれで終了ですが、明朝八時に新薬の投与を行いますので、お早目の就寝をお願いいたします。それから、現在、当施設には、貴方様の他に九十九名の被験者の方がたがいらっしゃいますが、一切の接触はお避けください。なお、それに伴い、この部屋の鍵は内部からは開けられないようロックさせていただきますので、ご了承願います」
「分かりました」
「トイレと浴室は、左手になります。お着替えは、浴室に準備しております。その他、何かご不便ありましたら、どうぞご遠慮なく、備えつけのインターホンにてお申しつけください」
「はい。ありがとうございます」
「では、担当の医師が参りますので、少々お待ちください」
最後に深く頭を下げてから、女は部屋を出て行った。
ひとりになった俺は、そっとソファーに腰を降ろした。……柔らかい。
今度は天井を見上げてみる。……屋根がある。
それだけではない。わざわざ公園まで行かずとも便所があるし、毎日風呂にも入れる。そして、何よりも、日に三度の飯が食える。
俺にとってはそれら全てが有り難いことなのに、これで五日後には百万という大金まで手に入るのである。
「こんなに幸せでいいのだろうか?」
そう呟き、俺は頬を緩ませた。
十分後。白衣を着た医師による問診と健康診断が行われたが、先の女の言葉どおり「簡単」なものだった。
午後七時に夕飯を食うと、それからすぐに俺は風呂に入った。
湯船の中では、ゲンさんが、「熱い風呂にでも入れりゃ最高なんだがな」と言っていたのを思い出して少し泣いた。
風呂を出てベッドに横になると、俺は、長旅の疲れからかいつの間にか眠っていた。
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次回更新は、7月7日(土)、七夕を予定しています。




