掌編「間欠泉の湧き出る村に」
お読みいただきありがとうございます。
間欠泉の湧き出る村に来ている。ここでは都会のような喧噪はなく、混雑する過密な電車に乗ることもない。ただ、地球との距離が近く、しかもそれ以外の意味を持たないそんな場所で心を静めている。
ここでは、タイムカードで出勤を管理されることもない、日雇いの農場なら話は別だが。多くは個人が経営している農家や漁師なのだから、そんな心配はない。仕事を左右するのは時計の指し示す時刻ではなく、天候による。波が高ければ漁には出られない。コーヒーを飲む前に一仕事か、それとも日が昇ってきた頃にコーヒーを飲み、一仕事か、いずれにしろその指令は天候に基づく。このような柔軟性のある働き方は自然のなかの流動体に人間が与しているようである。そこには利益はあっても気にしない。しかし、税金は毟り取られるだろう。新規で就農するものには国から補助金が下りる。だから、このような生活に憧れる者はそこらじゅうにいるから、村は色々な人で賑わっている。
ところが、このような村であっても全く自殺者が出ないわけでもない。時々は朝刊の新聞に載るのだ。それは個人的な事情によるのかもしれないが、この生活に嫌気を差す人の隠れ家なのかもしれない。だから、村に滞在する者はいても、全員が永住するのではなく、また本国や都市部に帰ってしまう。彼らが言うには、農村はよいが、毎日自然に即して、あの間欠泉の湧き出る轟音の下、黙々と作業をするのは、なんとも人が自然に隷属したようで、己個人の人格が蔑ろにされると思えてならないと、それで村を後にする者はいる。これに対し、元々この村で育ったものはこの生活が心地よかったりする。自殺するのはそうやってあれやこれや選択したものの特権であって、私達は成るがままに受け入れるだけなので、特に煩わしいことはない。この音の下で働くのが隷属しているように思えるというのも物言いだから言える意見だろう、私達はその隷属を受け入れている。コーヒーを飲み、魚を取り、夕方に家族友人と杯を乾かせるならそれでよいのだと。
私はどちらの意見も頷けるような気がして、そう理解できそうなのもその手がかりに自分の体験に由来しているのだと思った。仮にここに留まれば、私も幾人もの都会人と同じようにいずれ帰るのだろうか、それともここで余生を過ごすのだろうか。しばらくはこの音の下で釣りをして魚の動きや空の動きに体を、視線を委ねていたい。今は地球との距離が近いところにいるのは私の社会性や人間の文化を剥奪しているかのようで私は小気味よいのだ。




