2.社交界
デビューから二年目のシーズンは、きっと楽しいものになると思っていたオパールは、がっかりしながら領地へと帰っていた。
噂は下火になるどころか、オパールはすっかり奔放な女性となっていたのだ。
何度かこの男性ならと思える人と朝の散歩に出かけたり、二人きりでバルコニーへ出て、キスをしてみたりもした。
だがあの子爵の次男の時のように、気持ち悪いだけでそれ以上を拒んだのだが、プライドを傷つけられた男たちが、あることないこと言い触らしたのだ。
そうなると自分だけ相手にされなかったと思った男は、さらに自分の時はこうだったと触れ回る。
そして気がつけば、オパールは未婚女性にあるまじきふしだらな女というレッテルを貼られ、あっという間に三年目のシーズンも終えていた。
(もう結婚は諦めたほうがよさそうね。好きでもない相手と結婚して無駄に財産を食いつぶされるよりも、自由に生きたいわ)
十八歳のシーズンを終わり、オパールは温かな家庭を築くという夢を諦めた。
オパールには二十歳になれば、すでに亡くなっている母方の祖母オルガ・ケンジットより小さな領地と十分な財産を相続できることになっている。
この遺産は結婚しても変わらずオパールのものという条件がつけられており、当時の祖母の心中を何となくだが察した。
母方の祖父はとても厳格で、鞭を常に持っているような人だったと母から聞いていたからだ。
オパールは領館に戻ると、今年は遊びよりも勉強に精を出した。
領地管理人のトレヴァーや執事のオルトン、家政婦のマルシアに教えを乞い、彼らについて回り、あれこれと領地運営や屋敷内を切り回す方法を詳しく勉強した。
途中でクロードが大学から戻ってきたが、そんなオパールを見てかなり不満そうに口を開いた。
「なあ、オパール。そんなに勉強してどうするんだ? 本来は男の仕事だろう? むしろ、管理人も執事も雇えばいいんだから、オパールが勉強する必要なんてないだろう?」
「あら、あなたも女は黙って家のことだけしていればいいって考えなのね。がっかりだわ。私はもう結婚するつもりもないから、二十歳になったらお祖母様の残してくれた土地で暮らすつもりなの。だからひと通りのことは知っておきたいのよ」
「結婚するつもりがないって、どうしてなんだ?」
「クロードは聞いていない? 私の酷い噂。でもこうして未だに友達でいてくれるってことは知らないのね」
「馬鹿か、お前は。そりゃ聞いてるよ。男だけの寄宿舎だって情報が入ってこないわけじゃないんだ。だが友達だからこそ、オパールがそんな……あんな噂のような女性じゃないって知ってるんだよ。この辺に住む人たちはみんなそうだ。お前のことを小さい時から知っているんだからな」
「……ありがとう、クロード」
クロードの言葉に嬉しくて涙が出そうだったが、オパールはどうにか抑えた。
普段からオパールは泣いたりなんてしない。
木から落ちて腕の骨を折った時だって、大好きだったポニーが死んでしまった時だって。
今際のきわに母が言ったのだ。
『泣かないで、私の可愛い子。どうか笑って』と。
だから、その時流れ落ちる涙を必死に堪え、鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で笑ってみせた。
すると母はすっかり痩せてこけてしまった頬をゆっくりと持ち上げ、笑い返してくれたのだ。
もうそれだけの力も残っていなかったはずなのに。
だからオパールは十歳のあの日より泣かないと決めていた。
歯を食いしばって前を向き笑っていれば、いつかみんな笑い返してくれる。
実際に、領地のみんなは笑い返してくれるのだ。
社交界の人たちが何を言おうとどうでもいい。
来シーズンが終われば、オパールは祖母が遺してくれた家に引っ越すつもりだった。
二十歳まではまだ二年近くあるが、社交シーズンを三回過ごし、結婚相手も見つけられないのだから仕方ないだろう。
遺産管財人はとても優しい人で、オパールの噂を知ってか、この提案を了承してくれたのだ。
もちろん、今まで通り土地の管理は自分が選んだ管理人に数年は任せるという条件で。
そのお陰で、四度目のシーズンを迎えたオパールの心は軽かった。
今回もまた放蕩者と呼ばれる気取っただけの男や、財産目当ての男、下品な噂ばかりしかしない淑女と呼ばれる人たちに囲まれても笑っていられる。
久しぶりに一度だけ踊り、心惹かれた公爵と目が合ったが、睨まれてしまった時も平気だった。
彼とはあの事件以来、顔を合せても挨拶さえされることなく無視されている。
話す価値もないというように。
無作法ではあるが、公爵はそれが許される立場なのだ。
あと数日でシーズンも終わる頃には、オパールは早々に荷造りを済ませていた。
一度領館へ帰ってから、新しい我が家となる祖母が遺してくれた小さな家に移るのだ。
領館のみんなは王都に出てくる前に、その旨を伝えていたので寂しがっていたが、馬車で一日もあれば戻ってこれるのだからと言い含めた。
あとはとある子爵家で催される小さな音楽会に出席すれば、オパールのシーズンは終わる。
今夜のためのドレスを選び、クローゼットに並んだ他のドレスをオパールは眺めた。
このシーズンが終われば必要ないものばかりで、この屋敷に残していくつもりだ。
いくつかのおとなしいデザインのものはやはり必要になるだろうから、すでに鞄の中に詰めている。
――やっと終わる。
そうオパールが考えた時、執事が部屋へとやって来た。
「旦那様が書斎でお待ちでございます」
「お父様が?」
「はい。すぐにお越しになるようにと」
「……わかったわ」
父の書斎に呼び出されるのは、あの事件の翌朝以来だ。
あれからずっと放っておかれたので、オパールには本当に関心がないのだと思っていたが、こうして改めて呼び出されると嫌な予感がする。
それでも逃げ出すこともできず、もちろんするつもりもなく、オパールは堂々と書斎の前に立ち、ドアをノックした。
「入れ」
誰何することもなく、入室を許可されたオパールは、そっとドアを開けて書斎へと踏み入れた。
相変わらず父親の執務机は乱雑に書類が積み上げられており、その忙しさが窺える。
そして呼びつけたにもかかわらず、父親は顔も上げずに何か書類を書き綴っていた。
「お父様、何か御用でしょうか?」
待ちきれずにオパールが問いかけると、父親は不機嫌そうに顔を上げた。
そして大きくため息を吐いて、持っていた万年筆を置く。
「淑女たるもの、主人が先に何か言うまで口を開くものではない。まったく、躾もきちんとできなかったのは、私のせいでもあるな。お前を自由にさせすぎたようだ、オパール」
「申し訳ありません、お父さま。ですが今夜の用意を――」
「黙りなさい」
父親は怒鳴ることはしないが、家族の意見を聞き入れない。
オパールはそれがとても嫌いだった。
兄が大学から帰ってこないのも、この父に顔を合せたくないためではないかとオパールは思っていた。
うんざりした気分でいながら、オパールはしおらしく謝罪の言葉を口にした。
途端に父は機嫌を直したのかにっこり笑う。
その笑顔がやはり嫌な予感が当たっていたのだと、オパールに確信を持たせた。
「オパール、喜べ。お前の結婚がようやく決まったぞ」
「……はい?」
「それもかなりの上物だ。三年待った甲斐があった。あの騒動がなければ、三年前にまとめることができただろう縁談だぞ。いくらお前が傷物とはいえ、あの小僧や財産目当てのくだらない男にお前をやるつもりはなかったからな」
「お父様、結婚など私は――」
「もうすでに、相手とは契約を交わしている。先ほど、結婚許可証も手に入れたと連絡がきた。明後日にはお前は式を挙げるのだ」
もう確定事項になってしまったことに、オパールは異議を唱えることなどできなかった。
忙しく頭を働かせるが、この結婚から逃れるためにどうするべきか、二十歳にならないオパールができることはないとすぐに悟る。
今まで父親がオパールを自由にさせていたのは、その上物を狙っていたからなのだ。
三年間、オパールの父はその相手の弱みにつけ込むことができるまで待っていたのだろう。
いったい相手はどんな酷い人物なのだろうか。
再び傷物と言われたことに傷付けられながら、二十歳になれば離婚は可能だろうかと考えた。
そこでふと、あの気持ち悪いキスをしなければいけないのかと思う。
「お父様、それで……お相手は何という方なのですか?」
「やっと訊いたか。名前を聞けば、お前はこの父に感謝するかもしれないな。お前の花婿になるのは、ヒューバート・マクラウド。マクラウド公爵だ」
「……マクラウド、公爵?」
名前を聞いたオパールは眩暈がして倒れそうになってしまった。
マクラウド公爵は三年前に一度だけ踊った相手。
オパールが唯一心惹かれ、あの事件以降は無視をされ、先日は睨まれた人物だったのだ。
「なぜ……公爵様ほどの方が……?」
「マクラウド公爵は早くに両親を亡くし、若くして公爵位を継いだ。経験不足であり、甘すぎる。三年前にはまだどうにかなったかもしれない。ただプライドの高さから周囲に助けを求めることができなかったのだろうな。今の彼は借金で首が回らなくなっているのだ。そこで先祖伝来の土地を売る代わりに、自分を売ることにしたのだよ」
「……公爵様は借金のために、私と結婚することを承諾なさったのですか?」
「ああ、ここまで彼が堕ちていくのを何もせずただ見ているだけはなかなか辛抱がいった。だが、投資には待つことが大事だからな」
「投資……」
「考えてもみろ。公爵だぞ? 私は公爵の義理の父として、未来の公爵の外祖父として、仕事の幅が広がる。いいか、オパール。今までは自由にさせていたが、これからは身を慎め。そして公爵とともに問題に取り組むんだ。それもまた面白いだろう」
父親の言葉に返事をしたのかも定かではない。
ただオパールはふらふらと書斎を出て自室に戻ると、侍女に声をかけられるまで呆然としていたのだった。