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19.書類

 

 オパールの衝撃的な言葉に、一瞬室内が静まり返った。

 だがすぐに、ヒューバートは鼻で笑う。


「ふざけたことを申すな。私が昨日署名したのは、オマーからの書類であって――」

「あれはオマーが作成した書類ではありません。オマーを信頼なさるのは旦那様のご自由ですが、ご自分が署名なさるものになぜしっかりと目を通されなかったのです? 旦那様はいつも書斎で何をなさっているのか、私はそれが不思議でなりません」

「わ、私は勉強を……あなたにはわからないだろうが、大学では多くのことを学んだ。その時に学んだいくつもの課程の中に興味深いものがあるのだ」


 今やヒューバートは完全に勢いをなくしていた。

 オパールに指摘されて、自分が署名した書類の内容をしっかり確認しなかったことに不安になっているのだろう。

 それを学問などといった話で、現実を先延ばしにしている。


「確かに、学問に造詣を深めるのは素晴らしいことです。ですが有爵者が仕事もせず優雅に暮らせた時代は終わろうとしております。今の旦那様には、養っていかなければならない者たちがおり、管理しなければならない土地があったのです。それを全て投げてまで学ぶほどの価値があったのですか? その学問が金銭を生んでくれるとでも?」

「何といやらしい女だ! すぐ金に換算するなど!」

「もちろん、世の中お金が全てではありません。ですが生きていくためには、身分の貴賎を問わずお金が必要なのです。旦那様は私との結婚で借金を返すことができました。父からの祝い金で、当面の生活費は賄えます。ですが、その後は? 旦那様が一度も目を向けようとされなかったあの広大な領地で勝手にお金が生まれるとでも?」

「こ、今年はどの地域も豊作になると、皆も言っていた」

「皆?」

「友人だ。大学時代をともに過ごした、かけがえのない友人たちだ」

「では、その方たちは、しっかりご自分で領地を管理されているか、本当に優秀な管理人を雇っているのでしょうね。そして、管理人の報告にきちんと目を通していらっしゃる」


 ヒューバートがどんな学問に興味があるのか、オパールにはどうでもよかった。

 大切なのは、これからなのだ。

 オパールに現実を突きつけられてどんどん追い詰められているのに、それでもヒューバートはどうにかして逃れようとしている。

 再び落胆する気持ちを抑え、オパールは決定的な現実――証拠をヒューバートの前に置いた。


「これは昨日の午後、旦那様が署名なされた書類と同じものです。本当に旦那様が署名されたものは、きちんと金庫に預けておりますので、ここにいる者たちが外へ漏らさなければ、世間に知られることはないでしょう。……私と離縁しない限りは」


 オパールの言葉を聞いて、ヒューバートは何か言いかけたが、結局は書類に視線を落として恐る恐る手に取った。

 まるで現実に向き合うのが怖いとでもいうように。

 そしてゆっくりと目を通していき、次いで青ざめていく。


「こんな……こんなのは嘘だ!」

「本当です」

「だ、だとしても、これはいかさまだ。こんなこと、こんな……私から全ての財産を取り上げるなど、国王陛下もお許しになるはずがない!」


 オパールとヒューバートのやり取りを、今まで固唾をのんで見守っていた者、どうせオパールの虚言だと思っていた者など全ての者たちが、ようやく現実を知ったようだった。

 ヒューバートの言葉に皆が青ざめ、中には倒れそうになって支えられている者もいる。

 ノーサム夫人にいたっては、ぶるぶると激しく震えていた。


「残念ながら、それはあり得ません。調べましたところ、マクラウド公爵家の定めでは、公爵位以外の屋敷や土地の譲渡に関する条件はございませんでした。だからこそ、今まで借金の担保にできたのでしょうが……。その書類は正式な王宮の法務官が作成したもので、旦那様はその者たちの目の前で署名されたのです」

「お、王宮の法務官……?」

「ジョナサン・ケンジットは陛下がとても信頼されていると有名な法務官です。ここ一年ほどは陛下のご命令で他国へ赴いておりましたが……。旦那様のお立場なら名前だけでなく、顔見知りになっていらしてもおかしくないはずです。それなのに、ご存じなかったのですね」

「そ、それは……オマーが手紙で……」


 今やヒューバートの顔は蒼白といってもいいほどだった。

 端正な顔は悲壮感に歪められている。

 オパールは一時でもこの人を素敵だと思ったことがあるのだなと、不思議な気分になりながら続けた。


「オマーは手紙で二人の訪問者があることを告げていただけで、自分の用事だとは一言も書いていなかったと思いますが?」

「なぜそれを知っている? やはりあなたが仕組んだんだな!?」

「当たり前でしょう?」

「なっ!?」


 オパールがあっさり認めたことで、ヒューバートは言葉を失った。

 使用人の中には、オパールへ憎しみを込めて睨みつける者もいる。


「何度も申しますが、オマーは不正をしておりました。私はその証拠を握っており、またオマーの借金を立て替えてもおります。ですから、私がオマーにその手紙を書くようにと命じたのです」

「何と卑怯な!」

「卑怯? ずいぶん的外れな非難をなされるのですね。旦那様は私のオマーについての訴えを一蹴されました。もしあの時、わずかばかりでもお耳を傾けていただけていたのなら、今回の手紙についても疑われたのではないでしょうか? 少なくとも書類の内容を精査されたのでは? 確かに、書類には最初に領地の名称が並び、それぞれに予想される収益などが細かく明記されておりましたので、一見してただの報告書のように思えたでしょう。ですが、最後まできちんと目を通せば、私の名が記されており、おかしいと気付かれたはずです」

「わ、私はオマーを信用していると言った。それをあなたは利用したのだ!」

「ええ、利用しました。ですが、私は何度も旦那様に確認いたしましたでしょう? 本当に、訪れる方は私とは関係ないのですか、と」

「それは……まさか関係があるとは思わないだろう!」


 苦し紛れに怒鳴るヒューバートに、オパールは悲しげな笑みを向けた。

 それからふっと無表情に戻り、深いため息を吐く。


「旦那様は、本当に私に興味がなかったのですね。必要なのは持参金だけで」

「何を今さら――」

「ジョナサン・ケンジットは私の母方の叔父です。そのことさえも、ご存じなかったとは……」

「で、では、あなたは家族ぐるみで私を騙したのか! やはり、おかしいと思ったのだ。あなたと結婚するだけで、あれほどの祝い金を出すなど……。やはり私はあなた方を訴えるぞ!」

「ですから、それは無駄だと申しております。この書類と同じものに不備はございません。本来なら必要ないことですが、私と叔父が――ジョナサン・ケンジットが血縁関係にあるということから、公平を期すために第三者である叔父の同僚に立ち会っていただいたのです。あの方の署名も本物の書類には記されておりますので諦めてください」


 もはや完全に言葉を失ったヒューバートに、オパールは憐れみに近い視線を向けた。

 ヒューバートはただ愚かなだけなのだ。

 その原因は幼くして公爵位を継いだ彼に、誰もその位に相応しい義務と責任を教えなかったことだろう。


「叔父もおそらく、訪問した時に訊ねたはずです。私のことを」


 その言葉にはっと息を呑んだのは執事のロミットだった。

 昨日、二人の訪問者を書斎に案内した時に、ヒューバートに向かって一人が「奥様はご在宅ですか?」と問いかけていたのを見ていたのだ。

 しかも二人は玄関先で名乗ったにもかかわらず、オマーからのただの使いだと思っていたロミットは簡単に聞き流してしまっていた。

 そのうちの一人は、つい先日オパール宛てに届いた手紙の差出人名だったというのに。


「叔父と私はあえて関係を告げることはしませんでしたが、実際に会っていれば、その関係性は一目瞭然だったはずです。……縁戚関係にあるとまでは思わなくても、何かあると疑い、書類に関しても慎重になったでしょう」


 オパールは自分と叔父のことを告げたものの、自分の噂を思い出して付け加えた。


「叔父もはじめはこの計画に反対しておりました。ですがそれは、きちんと目を通せばわかることを書いているのですから、旦那様が気付かれないはずはないと。その時に私に向かう怒りに対して心配してくれていたのです」


 ケンジットについての話は、ヒューバートを恥じ入らせた。

 公爵である自分は、王宮の法務官の名も知らず、二人の目の前で書類にろくに目を通すことなく署名したのだ。

 どれだけ自分が無能であるか、白日の下に晒したも同然だった。


「先ほどおっしゃったように、旦那様が求められるのなら、私は離縁に応じます。どうされますか? 旦那様は今や、公爵位以外に何もございませんが、私と離縁なさいますか? そしてまた、新たに財産を持った女性と再婚なさいます? 今でも公爵位は――爵位はお金では買えない魅力的なものですから、それに付随する負債にはきっと目をつぶってくださいますわ。ただその方が、反抗的な使用人や、扶養義務のない親戚に寛大かどうかはわかりませんが……。それとも、その御身でもって働かれますか? ご友人を頼れば、何かしらのお仕事を紹介はしてくださるのではないでしょうか?」


 オパールの言葉で、ここにいる者たちはようやく目を覚ました。

 今まで自分たちが〝気の毒な公爵様とステラ様〟を主役にした物語に酔いしれていたことに気付いたのだ。

 御者のケイブが「奥様にはきちんと敬意を払うべきだ」と訴えた時も、悪女に誑かされたのだと皆がケイブを憐れみ諭そうとした。

 ケイブこそが正しかったというのに。

 自分たちの未来は、夫である公爵を負債だと暗に告げた女性――公爵夫人に握られている。

 室内は今度こそ完全に静まり返っており、誰も何も口にすることなく、オパールを悪魔か何かのように怯えて見ていた。


「わ、私は……」

「それともう一点、私の遺言状は先ほど、叔父を証人として作成いたしました。もし私が死亡した場合、全ての財産がいくつかの慈善団体に寄付されます」

「なっ……」


 呆然としていたヒューバートが反応したのは、オパールの遺産の行く末ではなく、それを明確に告げたためだろう。

 まるで自分を殺したとしても無駄だと言わんばかりの言葉に、ショックを受けたのだ。

 それでもオパールにはどうでもよく、いっさいの感情を消して再度問いかけた。


「さあ、旦那様どうされますか? 私と離縁してここから出ていかれます? それとも残りますか?」




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