腐海って存在してたんだ………。
仏像に教えられるまま、僕は普段訪れることのない胡散臭い路地へと足を踏み入れていた。
いわゆるピンクの看板のお店やマルヤな事務所の並ぶ通りは、近所の子供なら物心つく頃には「絶対に近づいちゃいけません」と言い含められる場所だった。
御多分に洩れず、僕も言い含められた口だったが、妹の危機なので、この際気にしないことにする。
だいたい、朝の10時ともなれば、彼ら活動時間とも著しく外れているだろうし、そうそう危ないこともないだろう。
教えられるまま、いかにも怪しげな金融会社の看板を掲げた建物の2階へと足を踏み入れる。
人が1人歩けるくらいの細い階段を上った先にあった安っぽい木の扉のひび割れた磨りガラスには、手書きの紙がガムテープでベットリと貼られていた。
【神野心霊探偵事務所】
その場で回れ右しそうな僕の足を踏み留めたのは、脳裏に浮かんだ怯えて泣きじゃくる妹の顔だった。
とりあえず、推定1ヶ月間の仏像との語らいを犠牲にして得た情報なんだから、せめて顔くらいは見ていこう。
そんなお人好しなことを考えた自分を今なら全力で止める。
アレは関わっちゃいけない人種だ、と。
しかし、そんな貴重な意見をくれる親切な人はその場には存在せず、僕は、素直にその扉を開けてしまった。
そこは、魔窟だった。
まず、襲ってきたのはとてつもない異臭。
今、考えるとタバコと酒と腐りかけのツマミ、そして脱ぎ捨てられて隅に堆積していた洗濯物の絶妙なブレンドだった。
が、幼い当時の僕に、そんなことが分かる訳はない。
逃げる事は許されていない。
脳裏の妹の泣き顔に退路を塞がれていた僕がまず最初にした事は、部屋の奥にある窓を開け、そこに行く途中に目の端に入った台所(当然のように汚染された食器やカップ麺の空で埋まっていた)の換気扇をつける事だった。
そして、ソファーに長々と伸びていた人間らしきものをそこから蹴り落とすと、問答無用で近くの銭湯へと追い出した。
だって明らかに異臭の原因の1つだったのだ。
そうして、追い出すついでに財布の中から数枚の紙幣を強奪し、コンビニでマスクにビニール手袋、ゴミ袋をゲットした僕は、半日かけて魔窟と戦うこととなった。
ゴミはゴミ袋へ。
洗濯物もとりあえず、分けてゴミ袋へ。
汚れた食器は辛うじて存在した台所洗剤とスポンジで洗って片付け。
途中で帰ってきたナニカが、横で「それはゴミじゃない!」とか「あぁ〜〜!それ、限定の食玩!!」とか叫んでたけど、気にしない。
ゴミに埋もれてたんだから全部ゴミ!
反論は受け付けない。
そうして、ようやく足の踏み場ができ、耐えられない異臭が、マスク越しならどうにか………なレベルに落ち着いた後、僕はようやく「はじめまして」の挨拶をすることに成功した。
向かいのソファーで何やら真っ白に燃え尽きたようになっているのが、この事務所の主人であり唯一の職員の神野肇だった。
人相がわからないほど伸びきった髭を剃り、顔の大半を覆っていた髪を後ろで1つに結んでみれば、意外な事に整った顔立ちの男の人だった。(後にまだ20代前半だったことが判明した)
「良厳寺のヌシ様、なんて人間をよこしてくれたんだ。僕の大切なコレクションが台無しだよ」
ブツブツと呟く声を鑑みるに、仏像さんはちゃんと仕事をしてくれたらしい。
今度、お礼にカモミールの線香を焚いてあげよう。
しかし、人が訪ねてくると分かっていてあの状態だったのか。
手書きとはいえ探偵事務所の看板を掲げている以上、客商売だろうに、全くなっていない。
人間、第一印象で8割は決まるという定説を知らないんだろうか。
僕が依頼者なら、扉を開けた時点で、速攻閉めて回れ右してる。
実家が人間相手の商売をしている為、知らずに刷り込まれていたらしい商売魂がビンビンに刺激される。
「………な、なんだい。そんな怖い顔して。確かに掃除をしてくれた事には感謝するけど、悪いのは君だろう?!」
知らず眉間にシワがよっていたみたいで、正面に座る神野さんが多少どもりながらも声を上げた。
てか、多少険しい顔してたからって小学生に怯える大人ってヤバくない?
込み上げてきたため息を押し殺し、僕は、ペコリと頭を下げた。
「余計なことをすみません。あのままでは、僕はこの部屋に存在するのも難しかったもので、つい衝動的に動いてしまいました」
忘れていたけど、一応、僕はここに妹を助ける術を教えてもらうためにきているんだった。
今更感満載だけど、礼儀は必要………かも、しれない。
「なんか、謝ってるように見せかけて結構酷いこと言ってるからね、君」
「そうですか?そう聞こえたならすみません。ずっと中にいたら麻痺してわかりにくくなっていたかもしれませんが、ありとあらゆる悪臭がブレンドされて酷い事になってましたよ?今、僕は割と真剣に体に染み付いてないか心配ですし」
若干涙目で訴えてくる神野さんに首を傾げつつ、自分の腕の匂いを嗅いでみる。
大丈夫、だよね?
匂いが原因で妹に嫌われでもしたら立ち直れそうにない。
やっばり、帰る途中で僕も銭湯にのに寄って行こうかな?
「もう、いいよ。この話題を続けてたら、僕の精神的負担が大きくなっていく未来しか見えない。さっさと本題に入ろう」
僕の様子をやっぱり涙目で見つめつつ、神野さんはそう言った。
ようやく、先に進んでくれる気になったみたいだ。
今日は母親が休みで妹といるけど、貴重な学校のない休日なんだから、僕だって早く帰って妹と遊びたい。
「妹さんが霊視の疑いがあるんだって?物心つく前にその手の能力が発現するのはそう珍しい事じゃないけど、兄の君が《聴く》能力を持っている以上、そうそう楽観視も出来ない、か」
唐突に、神野さんの空気が変わった。
今までのヒョロヒョロして頼りない雰囲気から、しっかりとした大人へと。
どこが変わったと言葉では言いにくいけど、それは顕著な変化、だった。
その上で、彼は、じっと僕の目を見つめてきて、ポツリと呟いた。
「で、君は、どうしたいの?」
読んでくださり、ありがとうございました。