りん子の洗濯日和
朝から晴れて、洗濯日和だ。窓を開けてベランダに出ると、手すりが薄黒く汚れていた。
りん子は雑巾を持ってきて拭いた。あっという間に布が真っ黒になってしまう。洗って戻ってくると、また元のように手すりが汚れている。拭いても拭いても同じで、きりがない。
「灰でも降ってるのかしら」
手を突き出してみると、指先から腕のあたりまで、瞬く間に黒くなっていく。灰どころか、墨汁でもかぶったようだ。
りん子は窓を閉めた。洗濯物は部屋に干すほかないだろう。
しばらくして、もう一度外に出てみた。いつの間にか、空まで真っ黒になっていた。青空は確かに見えるのに、無数の黒い点が宙を漂い、光を遮断している。
「もう我慢ならないわ」
りん子はレインコートをかぶって出かけた。どこのどいつの仕業か、それとも工場の煤煙か知らないけれど、直談判してやめさせなければ気が済まない。
道に出ると、思った以上に視界が悪かった。車が何台も立ち往生し、大渋滞が起こっている。りん子もだんだん、自分がどこを歩いているのかわからなくなってきた。
すると向こうから、ことさらに黒い空気をまとったものが近づいてきた。黒いシャツとジーンズ姿で、髪も硬質な黒、さらに全身から黒いオーラをゆらめき立たせている少年だ。
「ちょっと! そこの小汚い少年」
りん子は腕や顔を払いながら近づいていった。少年はぎらりと目を光らせる。黒い砂嵐の中で、目だけが赤みがかって見えた。
「俺は闇の支配者だ」
りん子は呆れ返った。こんな空気の中でも威張り散らせるなんてどうかしている。
「早く元に戻して。洗濯物が干せないじゃない」
「洗濯物だと? 笑わせる!」
闇の支配者は横に大きく飛び、柵を越えてどぼんと川に入った。クロールやバタフライで泳ぎ回り、盛大に水を滴らせながら上がってくる。
「こうやって乾かせばいい」
草の上を転がり、水を切っていく。当然、土埃で顔も服も汚れてしまう。りん子は棒きれを持ってきて、闇の支配者を川のほうへ押し戻した。
「おい、何しやがる」
「もっとちゃんと洗って。汚くてしょうがないわ」
「これは花粉だ。お前にもどっさり付いてるぞ」
闇の支配者は愉快そうに言った。
りん子は自分の体を見下ろした。透明なレインコートがすっかり黒くなっている。調子の悪い印刷機で刷ったチラシのようだ。
「バカ言わないで。花粉が黒いわけないでしょ」
「俺を誰だと思ってる。こんなの染めるくらい朝飯前だ。トンカツにソースをかけるようなものだ!」
りん子は朝の天気予報を思い出した。今日は花粉がよく飛ぶと言っていた。まさか、それをこの少年が全部黒く染めたというのだろうか。
「そんなことして何になるの?」
「花粉が目に見えたら便利だろ。避けるなり洗うなり好きにすればいい。俺に感謝しろよ」
「見えても見えなくても多いのは同じでしょ。それに私は……」
りん子は言葉を切り、大きなくしゃみをした。
「花粉症か?」
「あんたのせいよ。これが全部花粉だと思うと……」
今度は続けて二つくしゃみが出る。
「ははは、無様だ……ッ」
闇の支配者は息を詰まらせ、上半身を大きく前後に振ってくしゃみをした。
「誰が無様ですって?」
「くそ、お前、うつしやがっ」
「花粉はっ、うつっ、うつら」
二人は交互にくしゃみを繰り返し、次第に何を喋っているのかわからなくなった。もうやめたい、とりん子は思ったが、このリズムから抜け出すことができない。
くしゃみをする度に、黒い飛沫が二人から吹き出し、彗星のように尾を引く。宙を斜めに駆け上り、周りの空気を巻き込んでさらっていく。
「こんなにくしゃみしたら、頭までふっ、吹っ飛んじゃうわ」
「まだまだ! 次はヒッ、ヒノキを染めてやる!」
ヒノキと聞いて、りん子は鼻を押さえた。気道の奥で棘の塊がむっくりと大きくなったようだ。
「ふっ……」
「ヒッ……」
体の中身を全部ぶちまけるように激しく、二人は同時にくしゃみをした。
りん子は後ろに吹き飛ばされ、仰向けに倒れながら、空へ上っていく黒い羽虫のような群れを見た。あれが取り憑いていたのか、と思う。顔からも手足からも、はがれて飛んでいく。ヘビやトカゲが脱皮する時はこんな心地なのかもしれない。
「あー、何だか軽くなったわ」
起き上がると、闇の支配者と目が合った。向こうもちょうど起きたところで、後頭部に大きなたんこぶを作っていた。そして、全身のどす黒さが幾分和らいでいる。
「ちっ。今世紀最大の魔法が解けちまったぜ」
苦々しく言ったが、表情はどこか晴れやかに見えなくもなかった。
二人のくしゃみは周りの黒い粒を根こそぎ吸い込み、渦を巻きながら遠ざかっていった。後にはふんわりと広い空が残った。りん子は両手を広げ、日差しを浴びた。透明なレインコートが光を弾き返し、指先まで白く輝いて見えた。
「確かに最大の魔法だったかもしれないわ」
色だけではなく花粉そのものまで、空の彼方へ飛び去ってしまったのだ。これでもう誰も、ティッシュを箱ごと抱えて歩いたり、目を取り外して金属たわしで洗ったりする必要がない。
さっそく帰って洗濯、と思った時、またしてもくしゃみが出た。続いて闇の支配者もくしゃみをした。
「ま、まさか……」
道行く人たちは爽やかな顔をしているのに、二人だけがくしゃみを繰り返していた。そのうちに頭はぼうっと熱く、喉はこそばゆく、体はじんわりと重くなってくる。
りん子は洗濯のしすぎで、闇の支配者は頭から川に飛び込んだせいで、見事に風邪をひいたのである。
二人はふらふらになりながら、先を競ってスーパーへ行き、りんごとゼリーとインスタントのうどんを買い込んだ。
「風邪のウイルスを色分けしてやらないとな」
闇の支配者は鼻声で言い、帰っていった。一体何種類あると思っているのだろう。途中で色がネタ切れになるに違いない。
ウイルスの名前を一つも思い出せないまま、りん子は家にたどり着いた。買ったものを冷蔵庫に放り込み、布団にもぐる。
窓の外で、空が揺れている。隣の家も、木も電柱も揺れている。街中を洗濯するように、りん子の頭上で景色が青く揺れていた。