第二話 どMと奴隷
『奥さん、君のあの〝尊敬の眼差し〟、どうしたのでせうね? ええ、夏、PCとiPodを繋いだとき見せた、あの〝尊敬の眼差し〟ですよ……』
(In respect for Yaso Saijou)
*
たいていの男は、結婚するとき「幸せにするから」などと、調子のいいことを言う。しかし、男と女の考える幸せは、根本が違っているため、ただ虚しく空回りするだけなのだ。恋人時代なら、記念日にプレゼントを忘れなければ、それでよかった。なにかサプライズの一つも考えたなら、泣いて喜んでもらえた。電球一つ取り換えただけでも感謝され、iPodをパソコンに繋ぎ、CDを録音しただけで、尊敬の眼差しを向けてくれた。なにかするたびに「凄い! 凄い!」を連呼する彼女。
……かわいかった。
(遠い目……)
……幸せにするなんて簡単だと思っていた。
(涙 目……)
*
《結婚して、彼女は妻となった》
財布が同じになり、記念日にプレゼントを買うことがなくなった。
というか、妻が自分で自分に買うようになった。
記念日に関係なく、買うようになった。
いつの間にか、買うようになった。
いつからか、妻がなにを買ったか、まったく覚ことができなくなっていた。
――電球?
取り換えていないと、叱られるようになった。
俺は、iPodの録音係なのだそうだ! 録音係は充電係でもある。
「充電しておいて」
iPodを渡される。
「え? そこのコードにさすだけだよ」
「そうよ。難しいこと頼んでないよ。すぐにできるでしょう」
「…………」
あの〝尊敬の眼差し〟は、いったいどこへ?
尊敬どころではない。このごろ、俺を見る目の焦点が合っていない。
――たわいない約束。
「共稼ぎだから、家事は〝できるほう〟がすればいいじゃん」
「そうだね」
妻が言う〝できるほう〟とは、俺のことだった。そして〝できるほう〟とは、決して〝できるやつ〟という意味ではなかった。
――ある日。
「食器洗浄機、買おうよ」
俺の提案が、
「必要ないよ」
無下に却下された。
「え? お皿洗うの、めちゃくちゃ楽になるよ」
「――どうしてすぐ楽することばっか考えるの。手で洗えば済むことなんだから、必要ないでしょう」
そうだった。妻には必要ないものだった。
妻にだって係はある。たとえば洗濯は妻の係だ。全自動で乾燥までする、自慢の名機はドラム式。洗濯物を放り込んで指一本で完了だ。
(たたむのは俺の係)
ごはんを炊くのだって妻の係。真空圧力IH炊飯器『釜炊き名人』は、指一本で料亭の味。
(米を研ぐのは俺の係)
「お風呂の栓、抜いといたよ」
(掃除するのは俺の係)
とにかく、猫のように水に触れることを嫌う妻。
この扱い、この威圧感、誰かに似ている。誰だ? ……そうだ! 姉ちゃんだ。
幼少期、俺を完ペキにコントロールし、こき使った姉。
「竹、アイスクリーム買ってきて」
「いやや、めんどくさい」
「はよ行ってき」
有無を言わさず命令を下す。
「ど、どんなやつ?」
「喉が冷えたらなんでもええねん」
なんでもよかったためしがない。
「……なんやこれ?」
「喉が冷えたらなんでもええって言ったやん」
「なんで『なんでもええ』言われて、チョコでもモナカでもなくアズキやねん」
「アズキおいしいやん」
「あんたほんま、父親そっくりの味覚音痴やな。いっぺん亜鉛のアイスでも食わしたろか」
とりかえに行かされることもしばしばあった。
――電話で、
「大丈夫、大丈夫。竹にやらすから」
なにやらいやな予感がして、俺はそっとトイレに隠れた。なぜか、迷うことなくトイレに向かってくる姉の足音。
「竹ちゃぁぁぁん……」
(でたぁぁ! 恐怖のネコなで声)
このあとの頼みごとに対し、姉は必ずこう釘をさす。
「あんた、やってなかったらしばくからな」
仕方なくやっておくと……。
「あんた、やったらできる子やん。偉いでぇ」
(お前は尼崎の殺人ババァか?)
辛かった弟時代……。弟という名の奴隷だった。
妻にも弟がいる――。
*
飲んでいる席で、時々妻のことを愚痴ったりするのだが、誰一人として同情してくれる者はいない。同情どころか、みな、口をそろえてこう言うのだ。
「竹さんて、ドMですか?」
「いいえ、奴隷です」
――やかましぃわ!