第十五話 雨男
――北海道――
このあまりに有名で、巨大過ぎる観光地のことを、生粋の日本人であるこの俺は、いったいどれほど知っていたというのだろうか。
関西で生まれ、北陸の大学を出て、関東で就職し、はや二十年が経った。その間に結婚もした。そして今また、関西に単身赴任で戻ってきている。紆余曲折の人生の中で、これまで、たくさんの道産子たちとの出会いがあった。彼らとともに、いく度となく北海道を旅してきたし、道産子たちが話す数々の北海うん蓄も、すべて受け売りしてきた俺。
ハッキリ言って、北海道なんて簡単だと思っていた。全部わかっているつもりでいた。
――アマちゃんだった。
北海道が、いつから春になるのかすら、知らなかった。ゴールデンウィークなら間違いなく花と緑にあふれ、大変 心地良いとさえ思っていたのに。
*
今年のゴールデンウイークに、妻がどうしても雪のない北海道に行きたいと言うものだから、飛行機やら宿やらの手配に奔走した。
準備万端ととのったあと、彼女はぼそっとこう言う。
「この時期、北海道ってなにがあるの?」
いつもそうだ。すべて終わってからこういうことを言うのだ。
「どう考えてもシーズンオフっしょ?」
(えっ!)
「んなわけねっしょ。バ、バカなこと言いなさんな。ゴールデンウイークだよ」
「いやいやいや。頼ないなぁ。ひまわりもラベンダーも七月ごろだべさ。ほかの花だってだいたいが六月過ぎてからっしょ」
妻のふざけた北海道弁とは裏腹に、かなりごもっともな意見だった。
「さ、桜は?」
だいぶ苦し紛れだってことは、わかっているつもりだった。
「さ・く・ら? どうしてこっちでお花見したのに、わざわざ北海道まで二度もお花見しに行くわけ? それにあなたの言うことだから、どうせまだ咲いてないわよ」
ずばり言われて戸惑いを隠せない俺は、さらに墓穴を掘った。
「だ、大丈夫だよ。万が一、花の時期に早かったとしても、草なら青々と生えてるから」
「はあああ! く・さ?」
いつしか妻の北海道弁は消え、だんだんいらだってきているのがわかった。
「北海道の草は半端じゃないよ。考えてみて。限りなく広がる新緑の大草原と青い空を。そんじょそこらにチョロチョロ生えてるペンペン草とは、わけが違うからね。それにそれを食べてる牛。この時期の牛は目がもう生き生きしてて、見る価値十分あるから」
かなり適当なことを言った。
「なんで桜より早く新緑なのよ? バーカ」
(なんなんだ、この鋭いツッコミは)
旅行の手配などいっさいできない妻。いつも決まって、
「私、そういうの難しくてわからないの」
などと言う。でも本当は、なんでも全部一人でできるんじゃないのか。自分でやれば、こんな鈍臭いことにはならないとさえ、思っているんじゃないのか。
「天候だってあんまりよくなさそうよ。雪降ってるってニュースで言ってたし」
「大丈夫、大丈夫、そんなの。ずっと天気悪いわけじゃないから。知ってる? 北海道って日本で唯一梅雨のない地域なんだってよ。それはつまり雨が少ないってことでしょう」
言えば言うほど怪訝な顔つきになる妻。
――なぜ妻が、これほどまで俺のことを信用していないのか。それには理由があった。
何年か前に、二人で行ったオホーツク海。彼女がどうしても流氷を見たいと言うものだから。そのときも俺が、旅行の手配をすべてしたのだった。
忘れもしない三月上旬。妻はすごく楽しみにしているようで、何度も何度も、ちゃんと流氷が来るのか俺にたずねてきた。色々調べて、例年ならまず間違いなくこの時期に流氷が来ることを確認し、彼女には大丈夫だと言いきっていた。
ところが、まさかの暖冬にぶち当たってしまったのだ。雪などほとんどない女満別空港。曇った妻の顔つきとは対照的に、どこまでも澄みわたる青い空。海に出るまでもなく、流氷なんかないことは知れていた。
まったく災難としか言いようがない。まるで雨に降られるたびに、理不尽にもその責任をなすりつけられ、責めを負わされる〝雨男〟のように、すべては俺のせいになった。
それ以来、こと北海道に関して、妻は俺のことをまったく信用しなくなったのだ――
*
リビングで北海道の旅行雑誌を眺めながら、大きな声で独り言を言う妻。
「着いたら絶対、生ラムのジンギスカン食べよっと。お昼は味噌ラーメンで、ウニやイクラの海鮮丼もはずせないなぁ」
彼女の興味は、完全に北海グルメのほうにシフトしていた。
俺は、なんとか妻の気を引こうと、旅程を発表することにした。帯広から富良野をまわって夕張にも行こうという計画だ。ジンギスカンやラーメンを食べるのなら札幌にも行かなくてはならない。夕張から更に南下して札幌を目指す。海鮮丼は小樽で……。
富良野は、言わずと知れた『北の国から』のロケ地である。ご多分に洩れず大ファンの俺は、当然ながら観光のメインに決めていた。更に初日の宿は、『風のガーデン』のロケ地となった富良野プリンスホテルである。ベタだか間違いないはずのコースだ。この自信たっぷりのコースに妻は、
「よくわからないけど、そんなにまわれるの?」
「北海道は、一般道が高速道路みたいなもんだから。都会と違ってかなりまわれると思うよ」
「夕張ってメロン以外になにがあるの?」
「メロンだけあれば十分でしょう。それ以外はなにもないと思うし」
「ジンギスカンやラーメンって、札幌にあるのはチェーン店とかじゃないの?」
「札幌は、北海道のすべてがそろっている街だからね」
「なんか、ぜんぶがあやしいな。メロンだって時期はずれなんじゃないの?」
まるで新人旅行プランナーが、ベテランプランナーに、ダメだしされている気分だった。
「大丈夫、大丈夫。メロンなんてハウスで作ってるんだから一年中あるし、特にゴールデンウイークは書き入れ時のはずたよ」
「あなたの言う〝大丈夫〟だけは、大丈夫だったためしがないから」
妻の心配はつきない。
*
なにはともあれ旅行当日を迎えた――。
さすがにゴールデンウイークの千歳便を、往復でおさえることはできなかった。仕方なく、とかち帯広空港便となったのだが……思えばここから間違っていた気がする。せめて千歳便なら到着したときの印象も、また違っていたかもしれない。
最初に妻が表情を曇らせたのが、着陸間際の機窓から飛び込んでくる、十勝平野の、見わたす限りの雪原を見たときだった。
「ねえ。下は真っ白なんですけど……」
「え! そうなの?」
「このさい花はいいわよ、花は。草はどうしたの? く・さ・は?」
「く、くさ? 草にそんなに期待してたの?」
この一言にキレれた妻。早口でまくしたててくる。
「この時期の牛は、目が生き生きしてるんだっけ? そんな話、どーでもよかったけど、こうなると逆に見たくなったわ、その牛」
「まあまあまあ……」
なだめにかかっても、もうどうにも止まらない妻。
「こんだけ雪が積ってたら、牛もまだ冬眠してるのかしら」
「ははは……。牛は冬眠しないよ」
「そんなこと、いちいちあなたに言われなくてもわかってます」
まわりを気遣ってか、俺にしか聞こえないおさえた言い方だったが、腹の底からしぼり出すその声は、俺を震え上がらせるのに十分だった。
――帯広に到着してすぐ、空港からほど近いレンタカー屋で車を借りた。
「とりあえず、『北の国から』のロケ地を見にいこうよ」
と言うと、妻は衝撃の一言をいいはなった。
「私、『北の国から』って一度も見たことないんですけど」
「えっ! えええええ! 俺が、『北の国から ――遺言――』の放映のとき、あんだけ大騒ぎしてビデオに録画してたやん。そのとき一緒に見てなかったっけ?」
「あなたが一人大騒ぎしてただけでしょう。『北の国から』なんて〝ジューン〟、〝ホタル〟っていう可哀想な兄妹のお話ってこと以外、なにも知りません」
なんと、漫才師――COWCOW――のネタ以上のことを知らない様子の妻。
(それにしても、可哀想な兄妹の話って、どんな理解やねん。たしかCOWCOWをテレビで見てたとき、大爆笑してなかったっけ?)
そうは言われても、ほかに行くあてもないので、とにかくロケ地に行ってみた。当然ながら、〝五郎の石の家〟なんか見たところで『なんのこっちゃ?』てなもんで、妻の目は冷めきっていた。唯一、ロケ風景を写したパネルが、ドラマの雰囲気を伝えていたが、それにもあまり興味はなさそうだった。
「ドラマ知らないんじゃつまんなかったね」
恐る恐るかけた俺の言葉に、妻は意外にも、
「大丈夫、今日泊まるホテルは『風のガーデン』のロケ地だったんでしょう? 私、そっちは見たから」
あまりのふがいなさを哀れに思われたのか。それとも諦めてしまったのか。妻の言葉が優しくなっていた。
ホテルにチェックインし、食事前に二人で大浴場へ行った。せめてもの思いとして、妻が風呂からあがってくる前に『風のガーデン』の撮影場所がどこか、フロントに確認しておくことにした。
――ところが、
「あのう、お客様……。それでしたら新・富良野プリンスのほうになりますけど」
驚きの事実を突きつけられた。
「えええええ! こ、困ります。妻が楽しみにしてるんです」
完全にパニックになった。
「近いんですよね、そこ。歩いていけるんですよね。わたり廊下かなにかあるんでしょう?」
「はぁ。ゲレンデを越えた向こうでして……スキーシーズンでしたらリフトでも行かれますが、この季節はシャトルバスに乗っていただかないと……」
「な、なんでですか? 〝新〟てついてるけど、同じホテルなんでしょう? 隣なんでしょう?」
「いえ、お客様。違うホテルじゃないんですが、同じでもありませんで……」
「もうそんなややこしいこと……」
それからの俺は、『風のガーデン』の『か』の字も口に出すことはなかった。ただただ食べ物の話で誤魔化し続けたのだ。ブッフェスタイルのレストランには、肉も魚もたらふくあるらしいとか、ジンギスカンもラーメンもやっぱり札幌に名店が多いとか、思いつくままを話した。おかげで、その後、妻からは一言も『風のガーデン』の話はでなかった。
今にして思えば、興味がなかったのか、それほど期待していなかったのか、実は間違に気づいていたのか……? 本当のところはよくわからない。ただ、彼女がドラマのロケ地全般に、あまり興味がないのは確からしい。
*
初日から散々な結果となり、複雑な思いで富良野をあとにした。目指すはメロンで有名な夕張だ。
(起死回生。名誉挽回。頑張れ俺)
妻は、メロンが大好きである。とにかく、メロンさえしくじらなければ大丈夫だ。
「親しくしているところのお土産も、メロンでいいよね?」
「そうねえ。五千円くらいまでならそれもありかもね」
心なしか、妻の機嫌も上々のようだ。
山道をしばらく『夕張』の標識を頼りに進んだ。道路沿いにビニールハウスが建ち並び、メロンを作っていることは明白だった。高まる期待のなか、とりあえず駅前まで行ってみることにした。
ところが、行けども行けども駅が見えてこない。そのうちに行き過ぎたようで、『夕張』の文字が反対車線の標識にでてきてしまった。あわててUターンするも、再び駅を通り過ぎてしまう。
何度となくUターンを繰り返し、行けど戻れど、なぜか一向に駅らしきものが見えてこない。駅どころではない。街らしきものも、商店街のようなものも、開いているメロンの直売所も、いやいや、そもそも人影が見あたらないのだ。
そのうちに、トイレに行きたくなった。道路沿いに、一軒、大きなホテルがあったので、休憩がてらトイレを借りることにした。
スッキリして出てきたとき、ふと目に入った看板に『夕張駅』の文字が飛び込んできた。それは、ちんちん電車の駅か? はたまた遊園地にあるような遊具の駅か? よく言えばかわいい、はっきり言えばクソ小っちぇ駅だった。
「チェッ。わかるか、ボケ」
と、思わず舌打ちしたほどだ。
それにしても、メロンはいったいどこで売っているのか。小屋のような駅舎にポツンとある案内所に、おばちゃんがいたのでたずねた。
「この辺りで夕張メロン、売ってる所、どこですか?」
「あれまぁ。メロンはまだ時期じゃないのよ」
「ええええぇ! なんで?」
「メロンは受粉してから実がなるまでに四十五日かかるから……」
おばちゃんが、言い訳にならないような言い訳を、申し訳なさそうにした。
「な、なんでゴールデンウィークに合わせて受粉させとかないんですかね?」
と、俺が悔しそうに言うと、今度は後ろで舌打ちが聞こえてきた。恐る恐る振り返ると、こっちをにらめつけている妻がいた。その突き刺すような視線に苦笑いを禁じ得ない俺。
「だからシーズンオフなんじゃないのって言ったじゃん」
(そんな! 北海道やのに、ゴールデンウィークがシーズンオフやなんて……)
結局、メロンがなければ、ほかになにもない夕張。
いや、なくはない。確か高倉健主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』のロケ地だったはず。どうする? とりあえず行ってみるか? と一瞬迷ってすぐに考え直した。『幸福の黄色いハンカチ』を妻が知るわけがない。これ以上、わけのわからないロケ地の話しで、妻の神経を逆なでするわけにはいかない。口が裂けても言うべきではない。
最悪なことに天気もずっとグズつき模様だ。妻がおばちゃんにたずねる。
「北海道の天気は、ずっとこんな感じなんですか?」
「そうなのよ。低気圧が停滞してるとかで、ゴールデンウイーク中、ほとんど晴れ間が出ないのよ」
それを聞いて妻が俺にこう言う。
「北海道って梅雨が唯一ない地域じゃなくて、一年中梅雨しかないみたいね」
いつも俺の話になんか、ろくに返事もしないくせに、なんでこんな細かいことまでしっかり覚えているんだ! 言った本人でさえ忘れていたのに。
返す言葉が見つからず、そのまま黙って収穫ゼロの夕張をあとにした。
*
それからも、パッとしない旅行は続いた――。
札幌ラーメンは今や全国区で、本場で食べても感動するほどではない。それよりラーメン屋が多すぎて迷いに迷った。そのため、昼ラーメン、夜ジンギスカンの予定が、二時をまわってからのラーメンとなってしまった。こうなると、さすがに夕食のジンギスカンは重い。それで、予定を変え夜に小樽の海鮮料理を食べることにした。
チョイスしていた店は、小樽が全国に誇る最強の居酒屋、『一心太助』だ。初めてこの店を訪れたときの感動が、今でも鮮明に蘇ってくる。毛ガニ、ボタンエビ、ウニ、イクラ……。北海道を代表する海産物が、破格の値段で食べられるのだ。その量たるや、ここを訪れたほとんどの客が『アホほど』と表現する量だ。
妻には絶対に、期待を持たすようなことは言わない、と決めていた。なにも知らずにあれを見たら、きっと感動することだろう。そして今度こそ、俺のことを見直すに違いない。俺は、このサプライズにかけた。
散々歩き回り、妻をつれまわしたあげく、たどり着いた場所は、空き地になっていた――。
あいた口がふさがらないとはこういうことか。しみじみ思った。
なぜだか最近の旅行雑誌にその名を見ないとは思っていた。だからわざわざ、当時の旅行雑誌を引っ張りだしてきたのだ。あれだけはやっていた店だから、まさか潰れるようなことはあるまい、と信じて疑わなかった。
「店が大きくなって移転したのかも。そうか経営者が変わって名前を変えたか」
いいわけじみた俺の言葉に、妻はただただ無言だった。
「ちょっと聞いてくる」
俺は、逃げだすようにその場から駆けだし、近くの小さな商店に飛び込んだ。そこで店番をしていたおばあさんに『一心太助』のことをたずねた。
「あれ、あんたいつの話をしているの? だいぶ前にノロウィールスがはやったっしょ。あそこもノロだして潰れたのよ」
もうそのまま蒸発してしまおうかと思ったことは、言うまでもない。つくづく、妻に期待を持たせるようなことを言わないでよかったと思った。
しれっとした顔で戻り、聞いてきたまんまを淡々と妻に伝えた。妻は、歩き疲れてお腹が空いてきたから、ジンギスカンでも食べられると言いだした。俺としては、小樽は海産物だという思いが強かったし、小樽においしいジンギスカンの店があるとも思えなかった。
それを素直に妻に伝えると、彼女は、すうっとその場を離れたかと思うと、タクシーのりばに行き、運転手になにやら聞いてきた。
「松尾ジンギスってとこがおいしいらしいよ」
あっけなく店を聞きだしてきた妻。
(なんなんだ! この旅慣れたアドリブは)
結論だけをいうと、松尾ジンギスは実にうまかった。かろうじて妻の機嫌は、彼女自身のフォローによって保たれ、俺はその株を、暮れゆく小樽の夜気のように、下げ続けたのであった。
*
最終日のトマムでは、ついに大雪となった――。
宿泊先の『星野リゾート』は、冬ならば広大なスキー場として賑い、夏場はスポーツ全般に加え、気球やパラグライダーも体験できる、素晴らしいリゾートホテルらしい。
特に人気を博していたのは、雲海テラスだった。ゴンドラで山頂にあるテラスに上がり、特別な気象条件のときだけに現れる雲海を見るツアーだそうだ。その雄大で幻想的な風景は、見るものすべてに感動を与えること必至だと、パンフレットにも大々的に謳っていた。
ただしそれは、ゴールデンウィーク明けの五月中旬から開始されるツアーである。天気にめぐまれたとしても見られるものではなかった。
まるで北海道のすべてのイベントが、ゴールデンウィークを避けているかのように思われた。よくよく考えればそれもそうだ。北海道の夏には大自然があり、冬にはウィンタースポーツがある。いずれもまごうことなきハイシーズンなのだ。その端境期であるゴールデンウィークは、妻の言うとおり完全にオフシーズンだったのであろう。
窓の外は、なにも見えないくらいの猛吹雪。この時期にスキーをしにきてる客などいるはずもない。リフトだって動いてはいないのだから。結局、部屋から一歩も出られずに、北海道の最後の一日は終わった。
――この夜、俺にとってこの旅最大の悲しい出来事があった。
缶ビールを買いにロビーに降りたときのことだった。ギャルっぽい女の子が、電話でしきりに誰かと話をしていた。
「うん。そう。素敵よ、北海道。この時期に奇跡的に大雪が降ってねぇ、それがすっごくきれいなの。うん。そうなの。なんでもおいしいし……、うん。帰りたくない……」
赤く染めた髪、長く伸ばしたまつ毛、華やかに盛った爪、厚く塗った化粧。彼女は、派手な装いとは裏腹に、素直な心で北海道の魅力を積極的に見つけ出し、ひとり感動していた。それは、まぎれもなく純真無垢な少女であった。
俺は、そのとき気づいたのだ。良し悪しを決めるのは自分自身の心なのだと。妻にとって散々な旅になってしまった今回の北海道旅行も、それは妻自身の心の問題なのだ。自分の期待と違っていても、耐えられないほど酷い状況ではないだろうに。ゴールデンウィークの北海道に、雪が降ってなにが悪い? ウンコが降っているわけじゃないんだぞ。
同時に俺は、妻の本心にも気づかされていた。妻は俺を〝雨男〟に仕立て上げ、とにかく嫌なことのすべてを、俺のせいにしたいだけなのだ。それはもう、妻の願望なのだろう。俺がなにかすれば必ず悪いことがおきるはずだ、という彼女の予測が当たっていて欲しいと願っているだけなのだ。
潤んだ目で、電話の少女を熱く見つめる俺。その視線に気づいた少女は、
「ごめん、なんかキモイオヤジが、スケベェそうにこっち見てんの。怖いから切るね……」
と、怪訝な表情を露骨にみせ、唾でも吐きかけるような感じでそっぽを向き、その場を立ち去っていった。
それでも俺は、感動を禁じえなかった。あんなギャルっぽい子が、北海道に感激していた! そうなんだ。北海道が悪いんじゃないんだ。俺が間違っていたわけじゃないんだ。ただ……。
*
翌日、とかち帯広空港に戻って帰りの飛行機を待っている間、妻がつくづくこう言った。
「私、なんかあなたのこと見直したわ」
「え! なんで?」
「あなたのやることなすこと、その半端ないはずしっぷりって、まったくブレがないのよね。つまりあなたの真逆をやればすべて当たりってことじゃない。私、あなたの取り扱いを間違ってたみたい」
いったいなにをどう間違っていたというのか? 今後俺は、どういう扱いをされるというのか?
――だいたい、北海道へ行きたいと言ったのは、君のほうじゃないか。それを俺が、すべて滞りなく手配し、一日たりとも野宿なんてさせていないよね。
俺は、天気を司る神様でも、その親戚でもないんだ。俺には、低気圧もつくれないし、大雪を降らす力だって備わっちゃいない。俺にいったいなにを期待しているのだ? 俺がそんなビッグな男に見えるのか――
飛行機は、羽田に向かって飛び立った。離陸して三十分くらい経ったころ、突然、機内アナウンスが流れ、機長が話しを始めた。
「ご搭乗いただいております皆様に、お知らせいたします。当機は、とかち帯広空港から羽田に向かって順調に飛行を続けておりましたが、突然、油圧系統の不具合を知らせるランプが点灯したため、とかち帯広空港に戻ります。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、安全を確保するための措置ですので、なにとぞご理解ください。なお、当機がとかち帯広空港に戻るまでの飛行には、なんら問題はございませんので、どうぞご安心ください」
いっとき、機内が騒然となったあと、水を打ったように静かになった。みなそれぞれ不安に思っているようだった。
飛行機は揺れるわけでもなく、機長の言うように順調に飛び続け、やがて着陸態勢をとった。
そのときは、とにかく一刻も早く着陸して欲しいと願うばかりだった。でもあとで考えてみると、三十分も問題なく飛行できてとかち帯広空港に戻れたのであれば、そのまま羽田にだって飛んでいかれたのではないか? と思う。
飛行機は、無事着陸した。と、同時に安堵の声が機内に響いた。ほっとして妻のほうを見た俺は、彼女の形相に、
――再び凍りついた。
ロビーに響くアナウンスは、引き換えした便の欠航をつげ、ホテルの斡旋や明日の振り替え便に関して、航空会社のカウンターで相談を受け付けるという内容だった。また、空港のロビーや待合室も開放してくれるという。既に、カウンター前には長蛇の列ができていた。
疲れきった顔で重そうにキャリーバックを引きながら、妻がぼそりとつぶやいた。
「私、もう二度とあなたとは、北海道には来ませんから」
どうも彼女は、本気で俺が飛行機の不調を起こすほどの、なにか負の力を持っていると信じているようだった。でもそのときの俺は、正直もうどうでもよくなっていた。
降りしきる雪がその激しさを増し、空港の大きな窓ガラスの外は、視界が限りなくゼロに近い。まるで空港全体が、大きな怪物にでも飲み込まれてしまったかのようだった。
二人は、出発ロビーにある待合用の椅子にぐったりと腰を下ろした。妻は、売店で買ったパンとカフェオレで軽い食事をとり、俺はただただ疲れ果て、缶ビールを片手に焦点の合わない目で天井を仰ぎ見ていた。二人に会話はなく、ただただ長い沈黙だけが流れた。
ふと気づくと、妻は既に寝息をたてていた。ざわついていたロビーがなんとなく静かになっていて、遠くで泣く赤ちゃんの声だけが耳に届いてくる。メインの照明も一段暗く明りを落としているようだった。
なんだかんだあったが、不思議と穏やかな気持ちで、これもいずれは旅の思い出になるのだろうと思えた。あす東京に戻ると、この長い休みが終わる。あさっての朝一には、大阪行きの新幹線に乗っているだろう。妻ともしばしのお別れだ。
俺は、妻の寝顔をつくづくと眺めていた。ときおり口をむにゃむにゃと動かして、なんとなく笑っているようにも見える。疲れ果てた妻は、もう朝まで起きることはあるまい。彼女の寝るときの癖で、右手でしっかりと俺の腕をつかんでいた。




