第十話 鹿
《人間は動物の中で一番頭がよい》と、思っているあなた。本当に天井裏のネズミより頭がよいと言い切れるのですか? 確かに人は、ほかの動物が真似できないようなものを、たくさん創りだしてきました。例えば言葉とか。ではなぜ、言葉をしゃべると頭がよいと言えるのでしょうか。よく犬に向かって、こんなことを言っている人がいますよね。
「どうちゅたのー? ちゃみちかったのー? うれちぃのー?」
バカ丸出しじゃないですか。通じないとわかっていて、犬にしゃべりかけているんですよ。
(お前、大丈夫か? って、オレもか!)
そもそも頭がいいってなんなのでしょう? 明確には答えられませんよね。それ自体が人間のつくった勝手な概念ですから。
実のところ人間以外の動物は、ただ余計な事を考えてないだけで、決して頭が悪いわけでも、愚かなわけでもないんですよね。
*
奈良にたくさんの鹿がいることは、行ったことのない人でも知っているんじゃないでしょうか。でも、その鹿が、実は結構な暴れん坊で、やんちゃなやつらであるということは、あまり知られていない気がします。
友達に「奈良に行ったら鹿にせんべいやるんやぁ」と言う意味のことを、関東弁ではしゃぎながら言っていた夫婦がおりました。特にその奥さんは、大の動物好きとかで、(四つ足で尻尾がはえているヤツならなんでもええんか?)ちゅうくらいな感じの人なんです。
「子鹿って、バンビみたいに白い斑点があって、チョーかわいい!」
と、鹿の背に斑があるだけでこのハイテンション。
動物が餌を欲しがる姿がかわいいのはわかるのですが、相手は、あの奈良の鹿軍団ですよ。英語で言ったらディアギャングですよ。
(英語で言う意味も、合っているかもわからんが)
これまで自分を含め、数々の悲劇を目の当たりにしてきたのです。舐めてかかったらどんな目にあうか。優しい僕は、しばらく夫婦の夢を壊さぬよう、黙って見守ることにしたのでした――。
二人は、奈良公園に着くなり鹿を目にして大興奮。「かわいい! かわいい!」を連呼しておりました。僕の目には、こちらをチラ見してくるやつらが不気味でなりません。
早速、奥さんが鹿せんべいをご購入。
「一番ちっちゃいバンビにあげちゃお」
(バンビちゃうって、奥さん)
と、無謀にも群れの中へ! あっという間に取り囲まれて、背の低い奥さんは、鹿の群れに飲み込まれてしまいました。その様子は、あのピラニアを彷彿とさせます。
突然、
「ぎゃああああ……」
断末魔のような声が!
必死になにかを言い聞かせようとしている奥さん。
「おわり。お・わ・り。ね、もうないの。これはあなたのじゃないのよ。ダメ噛んじゃ。痛い!」
(鹿になにを言っても通じないんだってば、奥さぁん)
そのとき旦那は、
「アイちゃん、どうしたの?」
と、間抜けな半笑いで、またまた群れの中へ。
あれ! いつの間に買ったのか? 手に鹿せんべいを握りしめておりました。
(夫婦そろって……)
鹿の猛烈な勢いとそのド迫力に、すぐさま事の重大さを悟った旦那でしたが、そのときは既に手遅れなのでした。彼は、持ってる鹿せんべいを後ろ手に隠すのですが、後ろにいた鹿が「あ! くれた」とばかりに、片っ端から噛みまくります。間抜けだった旦那の顔が、恐怖に慄いておりました。
一方、奥さんは……、
とうとう鹿せんべいを放り投げ、なおも迫りくる鹿どもに、必死でジャンケンのパーを見せて、なにも持っていないことをアッピールします。
「ほら、ね。なんにもないの。ないんだってばぁ」
(奥さぁん、いいかげん気がついて。鹿には言葉は通じませんよぉ)
興奮した鹿は、スカートや服の裾に噛みついてきたり、中には飛びかかってきたりするやつまでいて、まるで奥さんを押し倒さんばかりの勢いです。
夫婦はたまりかね、とうとう群れから走って逃げだしました。
(言わんこっちゃない。言ってねえか。まっ、いっか)
しかし、本気のかけっこで鹿に勝てるわけもなく、追いたてられる様子はまるで、大勢のリカオンに襲われるガゼルのごとくでした。もうこうなると、鹿が肉食獣にしか見えません。しかも、その鹿のしつこいのなんのって、あれだけつけまわせば立派なストーカーです。
帰りの車の中で、二人ががっくりと肩を落としていたのが印象的でした。
後日、「宮島にも鹿いるけど見に行く?」の誘いを即答で断わられたことは、言うまでもありません。
*
近年、この奈良公園の植物は、鹿に食べられないように、トゲを進化させているらしいんです。
だからなのかな? イラついた鹿どもが、鹿せんべいを持ってる人を襲ってくるのは。
やつらは、手を狙って噛んできたりしますが、時々鹿せんべいと一緒に手もいっちゃってるんじゃないかと思うんです。
(ないない)
ちゃんと調べてないからわからないけど、何頭かは肉食獣化してる可能性もありますよ。
(あるわけねぇだろ!)




