二
本を読み始めて数時間、日が落ち始め、空が暗くなり始めた頃、ベンチに座る佐野に近づいてくる人影があった。
佐野はゆっくりと視線をその人影に移した。彼の顔は小さく苦笑いをしている。
「……どうも、一週間ぶりですね」
彼の目の前には黒いスーツを着た青山が、酷く真面目そうな表情で立っていた。
「……何で幸が、僕のところに来た?」
その質問に佐野は本をベンチに置いて立ち上がり、答えた。
「俺がそう命令したからですよ。言っておきますけど、この命令を撤回する気はありません」
青山は歯を噛み締め、苦々しい口調で問い続けた。
「佐野さんは、幸をあなたの物に、すると言ったでは、無いですか?」
「言いましたよ。だから俺の所有物である幸に、こう命令したんです。『幸、お前が最も幸せになれるように行動しろ』ってね」
青山は一瞬眼を見開き、数瞬の間の後、その瞳を閉じた。
そこには様々な感情の波が見て取れ、数秒の時間の後、彼は大きく息を吐いた。
何処か気が抜けた様な表情だ。
「……佐野さん。君は、優しい、ですね」
「そうでしょうか?」
青山はその口元を小さく笑わせた。
「ええ、とても優しい。でも、それ以上の、捻くれ者だ」
「ハハハ、この正直者を捕まえて何を言うのですか?」
佐野は意味も無くふざけた。気を張り続けるのも疲れるのである。
その後、数分ほど時間が経ち、ポツリと青山が呟くように口に出した。
「……僕はまだ、幸を受け入れられません」
佐野は表情を真面目な物に戻した。青山が彼に何か重要な事を伝えようとしている事は分かったからだ。
「そうですか」
青山が視線を上げ、佐野はその視線の先を追った。
ポツリと一つ雲が生まれて、漂っている。
「でも、分かりました。僕はいつか、絶対にいつか、幸に、幸せにしてもらいます」
「……幸は喜ぶと思いますよ」
浮雲は悠々とのびのびと漂い、佐野を見下ろしていた。これに安堵感にも似た寂しさを覚えながら佐野は青山の次の言葉を待った。
程なくして、青山の言葉が続いた。
「だから、佐野さん。身勝手なお願いを一つ、聞いてくれませんか?」
「内容次第です」
青山と佐野の視線が下がり、自然とそれらが合った。
「僕が幸を、受け入れられるように、なるまで、幸を拒絶しないでいてくれませんか?」
佐野は逸らしたくなる視線を動かさないよう固めて、小さく笑いながら答えた。
「拒絶しませんよ。あいつは俺の物です」
あえて、佐野は〝今は〟とは繋げなかった。
佐野の返答に安心したように青山は肩の力を抜き、頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
青山の頭を見ながら佐野も返事をした。
「ええ、頑張って幸せにされてください」
あれからしばらく、佐野達は何となくベンチに腰かけ、何をするのでもなく、空を、先ほどの浮雲を見ていた。
浮雲の形は少し変わり、日は更に落ち、昼でも夜でも無い曖昧な時刻に成った頃、佐野はふと青山に問い掛けた。
「ところで青山さん。幸は今何処に居るんですか?」
「昼ごろ、僕を訪れた時、家に帰るように言ったので、おそらく育友荘に居るのでは無いでしょうか?」
その言葉に佐野は一息入れて立ち上がった。
「なるほど、それじゃあ育友荘に行きましょう」
「……何故ですか?」
佐野は空を見上げた。東側の空に一番星が現れていた。
「今日はせっかくの七夕です。織姫に会いに行こうじゃないですか」




