五
それから、およそ一時間、時刻はおそらく午後十時を越えたあたり、佐野と幸は先ほどのベンチから移動していなかった。佐野とすればそろそろ自分の家に戻りたかったのだが、そういかない理由が生まれたのである。
今、佐野の膝というか太腿に、幸は頭を預けて規則正しい寝息をたてているからだ。
先ほど、彼女が自分の頭を佐野の胸に押し付けて少しして、彼女の体は糸の切れた人形のように力を失い、そのまま彼の膝へ頭を乗せてベンチに横たわって寝息をたててしまったのだ。
このため、佐野は立ち上がる事も出来ず、かといって彼女を起こす気にも成れず、ため息混じりに空を見ているのである。
(やっちまったなぁ)
今の彼の心境をズバリと言い表した言葉である。今更になって男らしくない事は重々承知しているが、佐野はやはり誤った選択をしたとしか思えなかった。
ふと、佐野は空から自分の膝で寝息をたてている女へと視線を移した。
彼女の表情は糸が切れたように穏やかであったが、その目尻にはくっきりと涙の後が残っている。
また、彼女は両手で包み込むように佐野の右手を握っていた。まるで放してなるものか、とでも言っているようだ。
それを見て、口元で少し笑って息を吐きながら、佐野は残った手で彼女の頭を撫でた。ピクリとも動かない。
彼女が起き上がったら何を言うかを佐野は考えていた。いや彼女に言おうと思っている言葉はとっくに決まっているのだが、そのタイミングが思いつかなかったのである。
彼が幸に言おうとしている言葉は、今度こそ彼女を壊し尽す可能性がある言葉だ。それを口に出す最適なタイミングがまだ彼には思いつかないのだ。
佐野は小さくため息をついて、空を見上げた。雲ひとつ無い夜空に、少々の星が自らの存在を主張している。
未だ彼女が起き上がる気配は無く、もうしばらくは時間がかかりそうだった。
あれから三十分後、多少の身じろぎの後、幸が眼を覚ました。
「……時刻的にはおかしいがおはよう」
苦笑混じりに自分に話しかける佐野に気づいたのか、幸は瞳を彼に向け、ゆっくりと起き上がった。彼女にしてはやや緩慢な動きである。
「すいません。膝をお借りして」
「いえいえ」
佐野は一息にベンチから立ち上がり、大きく伸びをした。間接が固まっているのを感じる。
どう口火を切るかは決まった。なら、なるべく時間が早いほうが良いだろう。
幸が立ち上がるのを感じ、その後佐野は口に出した。
「幸、お前に言いたい事がある。聞いてくれ」
短く幸は答えた。
「はい。どうぞおっしゃってください」
佐野は空を見上げた後、一息に幸が居る後方へ体を向けた。
幸はいつもの無表情で佐野を見ていた。その無表情をおそらくまた崩そうとしている自分に、胸中で彼は苦笑する。
「……幸、今言う事では無いかもしれない。今ぐらいはこのままでいても良いのかもしれない。けれど、俺は空気が読めない奴だ。今、言おう」
「はい」
当たったばかりの宝くじを破り捨てるような気持ちだった。できればそんな事はしたくない。けれど、それは彼自身が決めていた事で、その決定を覆す気は無かった。
しかし、だからといって佐野が未練や後悔を持たないわけでは無いのだ。
〝ああ、直情的に、刹那的に、楽観的に生きたいなぁ〟そのような事を思いながら、佐野は言葉を生んだ。
「俺の幸せのためには、幸、おまえ自身の幸せが必要だ。だから、お前に聞こう。幸、おまえ自身が最も幸せになるためには何が必要だ?」
幸の眼が見開かれ、その体が小さく震えた。




