三
二分ほど沈黙の後、幸がポツリと言葉を漏らした。
「私は失敗作です」
「……そうなのか?」
相槌を打った佐野に、幸は頷いた。
「望まれて生まれてきたのに、望まれた事の何一つ私は満足にこなせません。とんだ、役立たずです。さぞ『彼』は私に失望しただろうと思います」
「……あの人がお前に失望したとは思えないんだがな」
幸は眼を閉じた。
「失望したに決まっています」
確信を持った響きだ。彼女は本当にそう思っているのだろう。
正しくないとしても、認識した事実は本人の中では絶対と成る。
佐野はため息をついて、頭上に視線を向けた。見えるものは古ぼけた天井と、これもまた古くなった電灯だけである。眩しさに小さく眼を細めた。
何と無しに佐野はある言葉を口に出した。彼が自身で考えた言葉であり、行動の指針としている言葉である。
「…………言わぬが花と言うけれど、花は何も語らない」
幸が瞳を開けたのが佐野には分かった。
「……『彼』が本当は私に失望していないとでも言うのですか?」
「それは、俺には分からない。俺は青山さんじゃないから。昨日お前に言ったけど、他者を理解できないと俺は思っているから」
それから少しの時間が経ち、時刻が八時を超えた。
佐野はそれを自分の携帯電話で確認し、八時八分と表示されているのを見て、息を吐きながら、立ち上がった。それにつられて幸の視線が上がる。
「幸、あの公園に行かないか? そこで話したい事がある」
青山は来なかった。
それに自分が喜びを覚えている事を自覚して、佐野は自嘲気味に胸中で息を吐いた。
それから数十分、時刻は八時半を越えた頃、佐野は幸を連れて昨日も来た公園を再び訪れた。
何度も何度も彼女と訪れたこの公園で、佐野は幸に話をしようと思ったのだ。
佐野は幸と共にベンチまで歩き、彼女を座らせた後、その左隣に座った。
何となく頭上へ彼は視線を傾けた。昨日は見る事が出来たあの綺麗な浮雲はとっくに見つからなくなっている。それは当たり前の事だが、彼は小さく笑ってしまった。
さて、と佐野は視線を右隣へ視線を移し、地面へ視線を向けている彼女を見た。
「幸、お前は今何がしたい?」
彼女の視線が地面から佐野へと向けられた。その眼には何の色も感情も浮かんでいなかった。
「……私は――」
幸はそこまで言ってその先の言葉を飲み込むように言葉を切った。その眼に多少の光が戻る。
佐野は彼なりに予想した彼女のその先の言葉を言ってみた。
「『いなくなりたい』か?」
彼女の眼が見開かれた。
「……何故、分かったのですか?」
そう問われたとしても、何故分かったのかは佐野にも分からないのだ。ただ、幸ならそう言うだろうと思っただけだ。
予想通り過ぎた彼女の返答に彼は軽い苦笑をこぼした。
「お前ならそう言うって思っただけだよ」
その言葉の後、佐野は苦笑を消して、真面目な顔で幸に言った。
「幸、いなくなるなよ。少なくとも俺はお前にいて欲しい」
「……私は使用する価値がありません」
無表情だが、悲しげな表情に佐野には思えた。
佐野は左手で軽く頬を掻き、軽く息を吐いた。
「お前がいくら何を言ったとしても俺にとってお前は価値のある存在だ」
幸は首を左右に振った。
「無理をしなくて結構です。私のような役目を果たせないガラクタに価値があるはずがありません」
佐野は今度は軽くため息をついて、多少の苛立ちを感じながらも彼女にこう聞いた。
「幸、お前が自分に価値が無いって思っているのは分かった。じゃあ質問だ。お前は自分に価値が無いという事に対してどう思って……いや、嫌か嫌じゃない、どっちの感情を持っている?」
自分でも意地悪だな、と佐野は思った。彼はその答えを彼女自身から聞いているからだ。
幸は自身が無価値へとなってしまう事を恐れ、誰かを幸せにしようと三年以上苦しんできたのだ。そんな彼女のこの質問への答えは決まっているはずだ。
幸は無表情のまま、しかし先ほどとは違い、滑らかとは程遠い言葉で答えた。
「……嫌な、はずが、無いじゃない、ですか」
震えた声だった。
佐野はそれに一度彼女から夜空へ視線を移してこう言う。何処か演技くさい口調だ。
「……そう言えば、もう〝十二時過ぎ〟だな」
幸は彼が何を言っているのか理解できていないようだ。
ちくりと胸を刺すような痛みを覚えつつ、彼は言葉を続けた。
「幸はじゃあ、自分に価値があったら嫌か?」
問われた彼女は顔を細かく左右に震わせた。
「そうで、あったなら、幸い、です」
声の震えは大きくなるばかりだ。
佐野は右手で彼女の左手をギュッと握った。その手は小さく小さく震えている。
「……そうか。それなら――」
一瞬だけ空を見上げ、佐野はキラキラと輝く星に眼を細めた。
「それならさ、」
佐野は思った〝ああ自分はもう戻れないな〟と。
〝自分は決定的な選択を下そうとしている〟
〝今ならまだ引き返せる〟
〝止めておけ〟
そのような言葉がグルグルぐるぐると彼の頭を廻っていた。
胸中だけで佐野は目一杯のため息と精一杯の苦笑いをした。そのような言葉で引き返せるなら苦労しない。
「幸、俺が」
未だ冷静に先を見る理性が警報を最大限に鳴らしている。それらすべてを佐野は鼻で笑った。
偶には良いじゃないか、直情的に生きるのも。
そう、自嘲気味に思いながら、言葉を続けた。
「お前に価値をやるよ」
幸が眼を見開いたのをぼんやりと佐野は感じた。
「……何を、言っている、のですか?」
理性的にしか考えられない自分が、嫌いじゃないが偶に嫌になっていたのだろう?
なら、食わず嫌いは止めて慣れない事をするのも良いじゃないか。
彼はそう自分に言い訳した。
佐野は大きく息を吸って、こちらを唖然と呆然と見つめる彼女にこう言った。
「幸、俺を幸せにしてくれ」
彼の右手の中の震えが止まった。




