二
七月一日、日曜日。
昔の事を思い出しながら自転車を走らせて少し、とうとう佐野の視界に幸の住む育友荘が入ってきた。
「……」
青山は来たのだろうか? 来ていないのだろうか? そう考えながら佐野はアパートの前に自転車を止めた。
時刻は七時四十分を回ったところ、佐野が青山に言った時間まで少しばかり時間がある。
とりあえず佐野はこの前訪れた203号室まで行く事にした。
自身の靴が階段を鳴らす音を他人事のように感じながら、佐野は頭上へ視線を向けた。育友荘の錆付いたトタン屋根と数個の星が瞬いている夜空が眼に映る。
数えれば二十秒に満たない短い階段の上りが佐野にはとても長い。
階段を上り終わり、試験結果を待つ心持ちに似た物を感じながら203号室へ歩き、佐野はその部屋の前に立った。
部屋の中からは物音はしない。灯りも付いていない。幸は帰ってきていないのだろうか?
「…………」
彼女が居るか居ないか、佐野に分かるはずも無いが、彼はドアの横に付いているチャイムを鳴らした。彼が何度も幸に言ってきた事である。訪ねてきたらチャイムかノック。
すると、無音の203号室の中から物音が生まれた。
トン、トン、トン、トン、と玄関に向かって来る音が佐野の鼓膜に響く。
佐野は小さく深呼吸をした。結果を見る時はいつも心臓が高鳴ってしまう。
滑らかにドアが彼に向かって押し開けられた。
「…………何で?」
いつもと同じ青いワンピースを着た無表情で、しかしいつもと違って困惑している幸に、佐野はいつもの様に笑いながらこう切り出した。
「…………こんばんは。話でもしないか?」
時刻は七時四十八分、今佐野は胡坐をかいて、正座している幸と向かい合っていた。
彼女の部屋は畳の床だと言うのに無機質な印象を受けた。実際に住んでいるのは人では無いのだが、人の部屋という印象を受けず、まるでモデルルームのようだ。
幸は無表情なままだが、視線を佐野に合わせず、自分の膝元の畳に向けている。
「青山さん」
「ッ」
佐野がそう口に出した瞬間、幸の肩がビクッと跳ねた。怯える小鳥のようだ。それに彼は罪悪感を覚えつつ、言葉を続けた。
「昨日のあれから青山さんには会ったか?」
幸は短い言葉で答えた。
「いえ」
佐野も短い言葉で返した。
「そうか」
一分ほど沈黙が続いた。沈黙を切ったのは佐野である。
「……勝手な事して、悪かったな」
佐野はそう口に出した。目的語は付けなかった。分かりきっている事だ。
「いえ、私が悪いのです」
この幸の答えも予想していた自分が、少々佐野は嫌いだった。
幸が佐野を責めようとするはずが無いのだ。彼女はそういう用途のために作られた物なのだから。
いっそここで泣くなり怒るなり無視するなり、彼自身を責めてくれる方が遥かに佐野にとっては気が楽だった。
「お前は悪くない」
幸は首を左右に振った。
「……私が役立たずだからいけなかったのです。私がもっともっと優秀で、ポンコツで無ければ、きっと幸せに出来ていたはずです。私は、あなたが私に迷惑していた事さえ気づけませんでした」
滑らかに確信を持った響きだった。
「……いきなり見知らぬ誰かが訪れ続けて来るんだ。迷惑じゃない奴のほうが少ないだろう」
佐野はなるべく軽く聞こえるように努めた。
「はい、その通りです。少し思考すれば分かる事だというのに、私はそんな簡単な事にさえ気づいていませんでした。私は人を幸せにするための物なのに、私があなたを不愉快にしていた事実にさえ気づけなかったのです。」
再び沈黙が訪れ、今度は三十秒ほど続いた。
「……そりゃ、最初の頃はお前が来た事に困ったし、恐かったよ。でも、途中からは結構楽しかったよ」
「……ありがとうございます。でも嘘は付かなくて結構です」
「嘘じゃないんだけどなぁ」
佐野は軽くため息を付いた。ちまちま言っても幸には何も伝わらないらしい。
昨日の事を佐野は話す事にした。八時までの時間つぶしと、もう一度彼女の言葉を聞くためだ。
「昨日も聞いたんだけどさ。幸は結局何をしたかったんだ?」
「……誰かを幸せにしたかったです」
予想通り過ぎる解答に佐野は苦笑した。
「じゃあ、誰を一番幸せにしたかったんだ?」
「……」
答えは分かりきっているというのに幸は口を閉じた。彼女にとってそれは答えてはならない質問なのだろう。
しかし、その答えを佐野はあっさりと口に出す。
「青山さん」
また幸の肩が震えた。
けれど佐野は言葉を止めない。
「幸は青山孝幸さんを幸せにしたかったんじゃないのか?」
幸の肩の震えが大きくなった。その視線が上がり、佐野の視線と合った。
「……私は、出来損ないです」
彼女の声が震え始めた。
「俺はお前の事を出来損ないと思っていないし、その答えは質問の解答では無いな。お前は青山さんを幸せにしたかったんじゃないのか?」
声の震えを更に大きくして幸は口を開いた。
「……止めて、ください」
それがもう解答に等しいという事実に、幸はおそらく気づいていない。
佐野は少々胸に痛みを感じながら、小さく息を吐いた。
「ん、分かった。止めとく」
時刻は七時五十五分、佐野はもう少し待たなければならなかった。




