二
かなり遅い朝食も終え、佐野は眼鏡も掛け、ポロシャツにジーンズという若さもお洒落さも清々しいほどに存在しない格好に着替えた。
古本屋で立ち読みでもするという昼食までの予定も決め、佐野は意味も無く鼻歌混じりに玄関のドアを開き、息を呑んだ。
彼は自分の眼が見開かれたことを何処か他人事の様に自覚した。
そこには昨日一昨日と佐野を訪れた女性が、昨日一昨日と同じ青いワンピースを着て、昨日一昨日と同じ様に背筋を伸ばして立っていた。
いや、唯一違う点として、その左手には昨日一昨日無かった封筒がある。
しかし、それが何だというのだ。休日の昼間、玄関で名も知らぬ女が直立不動で立っているのだ。加えてその女は二日前から自分のところを訪れ、訳の分からないことを言っているような女だ。疑いようの無い不審者である。
彼の思考を多大な困惑と少量の恐怖が支配していくが、それに気づく様子も無しに、目の前の女は口を開いた。
「こんにちは、良い天気ですね」
「……こんにちは、すいませんがいつから居たんですか?」
自分の冷や汗を無視しながら佐野は問い掛けた。出来ればたった今この女が彼の家を訪れに来て、チャイムを鳴らす直前に自分がドアを開けてしまったものだと思いたかったからだ。それならまだ幾分普通の事と言って良いだろう。
けれど、彼女の返答はある意味予想通りに期待を裏切った。嫌な予感と言うものは良く当たる物なのだ。
「今日は土曜と休日でしたので九時頃から待たせて頂きました」
現在時刻は十時半、彼女の言うことが正しいとするならば、一時間半もの間彼女は玄関の前で立っていたことになる。
佐野は唾を飲み込んだ。
「……チャイムを鳴らしてくれれば良かったのですが」
「寝ていらしたら迷惑と思いまして」
「……で、今日は一体何のご用件で来たんでしょう?」
その言葉を待っていたのだろう。彼女は持っていた封筒を両手で佐野に渡した。
「昨晩、事情も素性も分からない相手に幸せにして欲しくは無いとおっしゃられたので、私が分かる限りの私の情報を書き出して参りました。どうぞそれをお読みください」
「……これを渡すためだけに、一時間以上ここで待っていたんですか?」
返答は即答だった。
「はい。迷惑でなければそれをお読みください。では、私は失礼します」
彼女はそう言って頭を下げた後、昨日一昨日とまったく同じ様に階段を下っていった。
残された佐野は手渡された封筒を見て、左手でこめかみを少し掻いた。その肌はじんわりと湿っている。
「……どうしたもんかな?」
今のところ佐野が疑いも無く確実に分かっていることは、どうやら面倒くさいことに巻き込まれたということだ。
古本屋の隣にある喫茶店にて、佐野はさきほどの彼女に手渡された封筒を開いていた。
一息の間を入れた後、頼んだミルクティーを飲みつつ、佐野は封筒の中を見た。そこには就職活動に使う履歴書のような紙が一枚だけ入っている。
「って、これだけかよ」
強張ったままの表情でその履歴書らしきものを見てみると、そこにはこう記述されていた。
『名前、幸。年齢、5歳。』
この時点で佐野は紙を投げ捨てる又は破り捨てたかったが、それは我慢して読み進めた。ここでそんなことをしてしまっては話が進まない。
『身長、160cm。体重、60kg。性別、女。最終学歴、無し。資格、無し。特技、家事全般。志望動機、幸せにしたいから』
「……これから俺に何を読み取れと?」
彼女から渡された履歴書らしき物を読み終わり、佐野はついそう言ってしまった。
これだけの情報から相手の事情や素性を読み取ることなど一介の大学生に出来るはずもない。というか出来るのであれば将来は探偵か何かに就職する。
少なくともあの女は馬鹿か何かであると結論付け、佐野は大きくため息をついた。
古本屋で一時間ほど立ち読みし、佐野は適当に昼食を済ませ、当ても無くぶらぶらと歩いていた。その頭で考えていることは例の青いワンピースの女のことである。
一体彼女の目的は何なのだろうか? まさか本当に佐野を幸せにすることを目的だとでも言う気なのだろうか?
それは無いと思うのだが、探偵試験のようなあの紙の内容が真面目に書かれた物だとしたのなら、あながち簡単に否定は出来るものではなかった。
「ん? 佐野か?」
と、ここで佐野は後ろから誰かに声を掛けられた。振り返ると、そこには短めの黒髪に、活発そうな雰囲気を持つ青年がいた。
佐野が大学でよく話すようになった同じ学科の宮代大吾だ。
「おお、宮代か。何やってんの?」
「バイト帰り。佐野こそ封筒持って何やってんの? バイトの面接?」
ここで佐野はあの青いワンピースの女性のことを宮代に聞いてみることにした。もしかしたら何か良い案が産まれるかもしれないと思ったからだ。人生、他人との助け合いが大事である。ビバ協調主義。
「あのさ、宮代、もしもの話なんだけどさ。お前が暮らしている家の前に連日女が尋ねてきて、お前のことを幸せにさせてくれって頼んできたらどうする?」
「まず、それなんてギャルゲーってツッコミを入れるな」
宮代の迷い無い――いっそ清々しいとすら感じられる――言葉に佐野は深くため息をついた。宮代はそういえばそういうキャラであり、それがあって彼と佐野は話すようになったのだ。
「……うん。で、俺がそのなんてギャルゲー的展開に巻き込まれている訳なんだが、どうしたら良いと思う?」
「詳しく聴かせろ」
無駄に真剣な口調になったのが佐野には腹立たしかった。