二
時刻は六時二十七分。佐野と幸は先の彼の言葉通り、辺りを散歩していた。まだ朝早いという事もあり、人々の往来も少なく、とても静かである。
「幸と話すようになって今日でどれくらいだっけ?」
そう彼は問い掛けているが、彼はその答えを知っている。ついさっき考えていた事だからだ。
「一ヶ月と六日間です」
「……毎度の事ながら、お前は細かい事を良く覚えているな。そして良く即答できるな」
「いえ」
何故、それほどまで幸が細かい事を記憶できるのかも、その情報を即答できるのかも佐野は知っていたが、あえてそう言ってみた。
それから数分後、佐野と幸は彼らが何度も何度も通いつめたあの公園に着いた。この公園を目的地に歩いていたのではなく、何となくいつものように歩いていたらこの公園に足が向かっていたのである。
やはり、日常というか習慣というものは不思議なもので、無意識のうちに様々な選択をするものだ。もし、幸との日々が日常となっていなかったら、きっと佐野は今日この時この公園には訪れていなかっただろう。
幸はこの場面でも佐野の日常に影響を与えていた。
「せっかくだ。ベンチに座って何か話そうじゃないか」
「はい」
彼らはこれもまた何回も座った古ぼけたベンチに腰かけた。
〝ふぅ〟と佐野は息を吐いた。空は快晴であり、ぽつんと一つ浮雲が頭上を漂っているだけだった。
雲は自由で良いな、と佐野は何となく思った。
「お前と話して一ヶ月と六日間。良く毎日毎日飽きもせず俺を訪ね続けてきたな。正直大変だったか?」
「いえ、あなたの元を訪れる事は私の負担ではありませんでした」
やはり即答だった。その事に佐野は笑ってしまった。ここ最近の無理に作った笑
いではなく、本当に自然と笑いが生まれてしまったのだ。
彼ら以外誰も居ない公園に彼の笑い声だけが響く。
「あっはっはっははははははははは」
「……」
幸は釣られて笑うような事はせず、無表情のままだ。普段なら独りで笑う事に空しさを覚える佐野だが、彼女の前ではそのような感情は生まれなかった。
ひとしきり笑い終わり、佐野は顔に笑みを張り付かせたまま、幸と再び話し始めた。
「やっぱりお前は普通じゃないな」
「私の行動に何かおかしな点はございましたか?」
幸は無表情に首を傾げた。これも佐野は何となく予想できていた。
「いやいや、何もおかしな所は無いよ。お前にとってはそれが普通な事なんだから、何もおかしい事は無い。ただ、そうだな、俺とお前が結構違うやつってのが原因なんだろうな」
その言葉に幸は無感動に目を伏せた。
「……やはり、私には他人の気持ちを理解する事は出来ないのでしょうか?」
おそらく、この問いは彼女が初めて『彼』とやらに否定された時から、彼女を苦しめ続けてきた命題なのだ。少なくとも佐野はそうだと判断した。
佐野はその言葉に返答する前に、一度頭上を見上げた。
先ほどの浮雲がまだ悠々と漂っている。
「……幸、これは俺の持論なんだけどさ」
「はい」
幸の相槌に佐野は雲から彼女へ視線を移した。
「多分さ、俺たちは他者の事を理解できないんだよ」
無表情のままの彼女が、一瞬固まったように感じられた。
それは佐野の妄想かもしれない。
「……何故、そう、考えるのですか?」
佐野は言葉を続けた。何とかして、彼なりの考えを彼女に伝えたかったのだ。
もう伝える事の出来なくなる事かもしれない彼の思考を、考えを、価値観を彼女に教えたかったのだ。
「俺は自分が嫌になる時があるくらい理性的に考えてしまう人間だからさ、どうしても漫画やアニメ、小説やドラマみたいなものに良く描写される、心と心を通わすみたいなストーリーをそのまま正直に信じられないんだ。いや、決してそういうキラキラした物語が嫌いというわけじゃないよ。むしろハッピーエンドは大好きさ」
佐野はそこで一度深く息を吐いた。
「……でもさ、俺は思うんだよ。それらの物語の主人公たちは本当に相手の気持ちを全部理解できたのかなって」
ここで、幸が口を挟んだ。彼女にしては珍しい事だ。
「相手の気持ちを理解できたからこそ、あなたの言う主人公たちは相手にとって利益のある行動を選択できたのではないですか?」
佐野はこう答えた。
「そうかもしれないけど、俺はそうは思わないよ」
「何故ですか?」
「……だって、主人公たちとその相手たちは、結局違うものじゃないか」
佐野は幸の返事を待たずに言葉を続けた。
「結局、自分と他者ってのはさ、5W1H、違う時間に違う場所で違う相手と違う何かに違う事を違う理由で違うやり方でしているんだ。そんな一つも同じになれない俺たちが他者の事を理解できるはずが無いと思うんだよ」
幸は無表情のままだ。
「……なら、何故、人は誰かと共に在ろうとするのですか? 独りは寂しいから、相手を理解したいからでは無いのですか?」
それはあの雨の日以外の全ての時において、彼女が崩した事の無い表情だ。
けれども、ここまで彼女が佐野の言葉に質問してくるのは初めてであり、それはつまり彼女が佐野の言葉に良くも悪くも何かしらの興味を持っているという事であるはずだと、佐野は思った。
「うん。そうだと思うよ。他人を理解してその人と共にあれば独りじゃないし」
〝それでも〟と佐野は言葉をつないだ。
「やっぱり、理解しようとする事は出来ても理解する事は出来ないと思うよ。自分とは違うものを完全に理解できるなら、その時点で自分とそれは同じものだとし、自分と違うものに対して出来るのは、理解した気になる事までだと思うんだ」
「……理解した気になる、ですか」
「少なくとも俺はそう思っている」
佐野は立ち上がった。携帯を開き時刻を見てみると六時五十分。
そろそろ約束の時間だ。
幸も佐野に続いて立ち上がった。
「だからさ、幸、お前が誰かの気持ちを理解できない事をそこまで悩まなくても良いと思う。少なくとも俺はそれを許可するさ」
幸は数秒ほど瞳を閉じた。
佐野は口元で笑いながら聞いた。
「……納得できないか?」
「……いえ、そういうわけでは」
その言葉が佐野には何処かぎこちないように感じられた。
「とりあえず、俺はそう考えているって事は憶えていてくれ」
「……分かりました」
片眉を上げた佐野に幸は小さく頷いた。
「それじゃあ、行くか。そろそろ時間だ」
「……何処に向かうのですか?」
(そろそろ、話した方が良いか)
佐野は一度息を吸い込んだ。
「幸、今日お前に会ってもらいたい人がいる」
幸は続けて聞いた。
「どなたでしょうか?」
当然の疑問である。しかし、この場でそれを言う訳にはいかなかった。今日彼が彼女に会わせようとしている人物は、彼女が言う初めての『彼』である可能性が高い青山だからだ。
「まあ、それは会ってからのお楽しみって事で納得してくれ」
「分かりました」
佐野はそこで一度頭上の空を見上げた。
先ほどの浮雲は未だ遥か上空を悠々と漂っていた。
それが佐野には憎らしかった。




