四
「……」
佐野たちはかれこれ両の手の指ほどの回数通いつめた喫茶店に入り、適当な席で向かい合って腰かけていた。佐野の目の前にはホットのミルクティー、幸の前にはオレンジジュースが置かれている。
佐野はここに来る間、幸と歩きながら改めて考えていた。
彼が幸という相手の在り方に干渉するかどうかという事だ。
何度も何度も彼自身しつこいと思っているが、未だ彼には答えを出せないのだ。
いや、佐野自身、自らの望む事は分かっているのだ。
彼は幸のあり方に干渉したいと思っている。しかしながら、いざその結果が良からぬ方向に転がってしまった場合の罪悪感と責任を出来うる限り背負いたくなかった。
背負われた責任は下される事は無い。簡単には決断できなかった。
佐野が何もしなければ、幸の在り方は今までと変わらず、他人に尽し続けるだろう。
佐野が何かしてしまったら、幸の在り方は今までと変わり、彼女は何も出来なくなってしまうかもしれない。
平穏な停滞か、危険な賭博か。どちらを選ぶのかという話だ。
佐野は臆病で理性的な人間なのだ。ハイリスクでリターンがあるかどうかも分からない選択をしたくは無い。
「……どうかなされたのですか?」
「え?」
どうやら、佐野は考え込んだまま黙ってしまったらしい。
彼の前で幸が無表情に小首を傾げていた。
「……暗い表情をしていらっしゃったようなので、何かあったのではないかと思ったのですが?」
「いや、どうでもいい内容を考えていただけだよ」
「どのような内容ですか?」
幸は首を逆方向に傾げ、無表情なのに興味深そうに佐野の目を見た。こいつはある意味器用だよな、と佐野はぼんやりと思った。
とはいえ、今佐野が考えていた内容を馬鹿正直に幸に伝える事など出来るべくもない。
佐野は適当に思いついた話題を口に出す事にした。
とは言ったものの、その話題もやはり、幸についての事である。
「いやさ、幸はどうやったら笑うんだろうなって思ってた」
その言葉を聞いた彼女はまばたきを数回した。佐野の言葉が意外だったらしい。
「……私の笑顔を見たいのですか?」
「ん? ああ、そりゃ見てみたいさ。もう一月ぐらいお前と話してるしね」
その言葉は紛れも無い佐野の本心だ。
幸はその場で少し顔を伏せ、瞳を閉じた。
一分ほどの沈黙が続いた。
「……すいません。笑えません」
佐野の脳裏にあの雨の日の幸が、眠ったまま誰かを幸せにしようとし、圧倒的な哀色を張り付かせて涙を流していた幸の姿がよぎった。
「……そうか」
「すいません」
「いや、気にしなくて良いよ」
「……」
幸は終始無表情のままだったが、一ヶ月ほぼ毎日のように彼女の無表情を見続けた今の佐野にはこれが当たり前のように感じられた。
しかし、実際にはそれは当たり前の事では無く、普通の人間なら、今の場面で何かしらの表情をするものだ。
確かに今の佐野なら何故幸がここまで表情を変化させないのかも分かっている。けれども、佐野はあの雨の日に――哀しいという表情だが――確かに幸の表情と呼べる物を見たのだ。
見てしまったのだ。認知したという事実を否定する事は出来ない。
それゆえ佐野幸喜という青年は、幸は笑えないのではなく、笑う方法が分からないだけであると思ってしまうのだ。
幸はきっと彼女の名前の通り、幸せそうに笑う事が出来ると思ってしまうのだ。
そう信じたいと思ってしまうのだ。
佐野が黙っていると、幸が唐突に口を開いた。
「……何かあったのですか?」
疑問系だったが、確信を持った響きだった。
「……何でそう思うんだ?」
佐野は逆に聞き返してみた。幸が何を感じ取り、そのような事を思ったのかを知りたかったからだ。出来るだけ、彼女から言葉を話させたかったのだ。
幸は一度頷いてこう切り出した。
「……何処か上の空だったように感じられるからです。今日初めて出会った時や、この喫茶店に向かっている時、また、この喫茶店に入ってから八回黙って何か考えているようでした」
「……」
佐野は何も言わなかったが、幸はそのまま言葉を続けた。
「普段、考え事などがある日なら、あなたは訪ねてきた私にそう言って私を帰らせていました。ですが、今日のあなたは私を帰らせず、むしろ私と話すたびに何か考え事をしているように感じられました」
そこで一息入れて、幸は佐野にこう言った。
「……私に関係する事で何かありましたか?」
この場で上手誤魔化す方法を数秒ほど佐野は考えたが、思いつかなかった。ここまで確信を持って自分に問い掛けてくる相手の意思を上手く逸らす事など、佐野のような若輩者が出来る事では無い。
「……言い逃れするのは無理そうか」
佐野は諦めたように息を吐いた。
幸が真っ直ぐに佐野の事を見つめている。
彼はその視線に頬を軽く掻きながら、言葉を吐いた。
「そうだな。幸、ここ最近お前関連で色々あった」
「……聞いてもよろしいですか?」
幸は視線を逸らさず、真っ直ぐに佐野の事を見ている。
その視線を受け止めながら、佐野は答えた。
「……いや、教えない」
幸は目をやや伏せ、
「……分かりました」
そう言って、その場で頭を下げた。
「私の事で要らぬ苦労をかけ、申し訳ありません」
彼女がこのように謝る事を佐野は予想していた。けれど、佐野は出来る事なら、
その予想ははずれてもらいたかったのだ。
どの様に反応するのか決まっていたとしても、イレギュラーな反応を佐野は期待していた。
佐野は幸に彼の事では無く彼女自身の事を考えて貰いたかった。たとえ、それが彼女には出来ない事だとしても、彼女には彼女自身のために行動してもらいたかった。そう考える事はそこまでおかしい事だろうか?
「……あ」
と、この瞬間、佐野は気付いた。
「……はは」
こんなにも自分は幸の事を考えている事を改めて佐野は自覚した。
佐野は正直になる事にした。
佐野はその場で大きく息を吸って、長くため息を吐いた。その顔は自嘲気味の笑みである。
これから先苦労すると分かっている。
賢くない選択であると分かっている。
自分でなくとも良いと分かっている。
それでも佐野は、幸の在り方に干渉する事にした。
あれから十数分後、適当にとりとめのない無価値な会話が良い具合に終わった。
そのまま沈黙が訪れ、黙っている幸に、佐野は再び会話を切り出す。
「幸、今から俺がする質問に正直に答えろよ」
「はい」
彼は一息入れて、言葉を続けた。
「……幸、幸せになりたいか?」
「いえ、私以外の誰かが幸せであってもらいたいです」
即答だった。それがまた、幸らしいと佐野は思った。
佐野は続けて質問した。
「それじゃあさ、幸、お前は不幸になりたいのか?」
「それで、誰かが幸せになるのでしたら」
佐野は小さく笑った。
「そうだな。幸、お前はそういうヤツだな」
「はい」
佐野はもう一度一息入れて、
「幸、次の土曜日朝六時に俺の家に来てくれ」
そう言った。
彼女の返事は決まっている。
「分かりました」




