一
拝啓、母、父、姉。
最近いかがお過ごしでしょうか? 先日の七夕はとても良く晴れていましたね。織姫と彦星がとても綺麗に輝いていたのを覚えています。そちらも短冊などは書かれたましたか?
それはさておき、大学で一人暮らしを始めて早三ヶ月、後一週間もすれば夏休みです。夏休みには一度実家に帰ろうと思います。
今回珍しく手紙という物を書いているのですが、その理由は至極単純です。一つは私が今置かれている変な状況を自分自身まとめたいということ、二つは家族の皆様からの意見を聞きたいということです。
さて、何から書いたものでしょうか。まずは全ての始まりから話すことにしましょう。……
五月二十四日、木曜日。
「あなたを幸せにさせてください」
そう口を開いたのは快晴の空のように青いワンピースを着た黒髪のショートカットの女性。スレンダーな体系をしており、歳の頃は十七歳から二十歳ほどだろうか。何を考えているか分からない無表情を顔に張り付かせていた。
彼女の言葉を聴いた青年、佐野幸喜は何度かまばたきをした。『え、何?』と、思っていたからだ。
佐野には彼女に会った覚えがまったく無かった。午前しかない講義を終え、現在彼が一人暮らしをしているアパート『セセラギ荘』の202号室に帰宅したところ、玄関の前に彼女が立っていたのだ。
「宗教の勧誘か何かですか?」
二十二世紀初頭、科学技術がそれなりの発展を見せたのにも関わらず、宗教はいまだ衰えを見せないで世界中に存在している。佐野が通っている大学でもカルト集団や宗教勧誘に気をつけろと度々喚起されていた。
「違います。私にあなたを幸せにさせてください」
即答だった。どうやら宗教勧誘の類とは違うらしい。しかし、突然こんな怪しさ満載の言葉を言われたとしても困るだけで、下手な宗教勧誘よりも不気味である。
「とりあえず幸せは間に合っているのでお引取りお願いします」
「分かりました。では、失礼します」
彼女は律儀に頭を下げた。そして頭を上げ、佐野に背を向けて階段を下っていた。
階段を下る音が佐野の耳に届く。彼にはそれをどこか遠い物のように感じられた。彼は眼鏡のフレームを少し押し上げ、一言呟いた。
「え? 誰?」
五月二十五日、金曜日。
午後八時、大学での授業も終え、佐野は自転車を走らせ、セセラギ荘へ帰ってきた。
さっさと飯食って風呂入って寝るか、そのようなことを考えつつ自転車を置き、右手で鍵をいじりながら、佐野が階段を上った。
すると、階段を上り切った彼の瞳に昨日と同じ青いワンピースを着た女性が昨日と同じ様に彼の部屋の前で立っているのが映った。
佐野の体は硬直し、呼吸を一瞬忘れた。唐突に背に氷を押し当てられたかのようで、背筋に悪寒が走った。彼はまさか二日続けて訪ねられるとは思いもしなく、昨日のことは昨日限りの非日常だと思っていたのである。
彼女は階段を上って来た佐野に気づいたようで、彼のほうへ向き直り、綺麗に頭を下げた。
「こんばんは」
「……こんばんは。あの、一体何か御用でしょうか?」
やや引き気味の言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。
「私にあなたを幸せにさせてください」
昨日とまったく同じ言葉だった。いや昨日とは違い主語がついているが、まったく同じ調子で、まったく同じ表情で、まったく同じ響きだった。まるで自動再生された動画の様だった。
佐野とすれば、二日続けてこのような意味の分からない女性に話しかけられ、しかも意味の分からないお願いをされ、彼の高々二十年弱の経験では判断を付けられず、ただただ困惑した。
しかし、そんな若輩者の経験でも分かることがある。このような人間と話すのは止した方が良いということだ。
「……すいませんが、事情も素性も知らない相手に幸せにして欲しくはありません。それに、昨日も言いましたが、幸せなら間に合っています。帰ってください」
彼女は数秒ほど何かを考え込むように沈黙し、その後ゆっくりと首を縦に振った。
「分かりました。では、失礼します」
彼女は佐野に深くお辞儀をした後、彼の右側を通って階段を下っていった。
その背を見届けて、佐野は少々の薄気味悪さを感じつつ、ドアを心なし早く開け、自分の部屋に入った。
五月二十六日、土曜日。
佐野はゆっくりとまぶたを開けた。枕の近くに置いた彼の折りたたみ式の黒い携帯電話を開き、時間を見てみると十時二分。土日は大学での授業は無いため、目覚ましもかけずに彼は惰眠をむさぼったのである、ああ素晴らしきかな駄目人間生活。
彼は欠伸を出しつつベットから起き上がり、寝巻きであるジャージ姿のまま洗面所に向かった。ついでに今日の予定について考えてみたが、本日というかこの一週間清々しいほどに予定と呼ばれる物は無い。せいぜい実験のレポートを仕上げることぐらいである。
顔を洗い終え、大学生だというのにさしたる予定が無いことに多少の空しさを覚えつつ、佐野は冷蔵庫から昨日彼が作った肉じゃがと、同じく冷蔵庫に入れておいた冷ご飯を取り出し、電子レンジに入れた。腹が減っては戦が出来ぬ。
「……眠いな」
暇な大学生が欠伸を数回するうちに電子レンジが甲高い音を上げる。
未だ覚醒仕切らない頭を動かしながら佐野は電子レンジから料理を取り出し、ベット近くに置かれた机にそれらを置き、椅子に腰かけた。