02
夜が嫌いになったのは、いつの頃だったろう。夜が怖いと感じるようになったのは、いつの頃だったろう。夜に独りで居ることが怖くて仕方なくなったのは、きっと、あの日からだろう。
咲姫は咲一と共に店から帰って来て軽く仮眠を取ると、すぐに朝がやってくる。今日は店は休みであり、それは昨日伝えてある。今日ばかりは店を休まなければいけない理由があって、今日ばかりは、いつも通りの自分で居られる自信がなかった。
ゆっくりとベッドから起き上がりながら、咲姫は寝る前に用意していた服へと手を伸ばす。そこにあるのは黒を基調とした着物で、毎年、この日しか着ない服。
――今年もこの服を着る日が来てしまったのだと思い知ればそっと目を伏せる。
だんだんと重くなっていく身体を無理矢理に動かして着替え始めながら、頭の中では別のことを考える。
10年前の今日、誰よりも大切で、かけがえのない人を失った。失った原因は今も分かってはいないが、それに関わっている人だけは良く知っている。彼自身が認めているのだから、嘘はないのだろうと確信出来ている。
そして失ったのは咲一も同じで、彼もまた、この日が来ることを恐れているだろうとさえ思う。独りじゃないから、この日、こうして立っていられる。服を着替えることが出来て、涙を流さずに、前を向いて歩ける。そうしなければ咲一が心配してしまうから。
「……咲斗の準備は、済んだかしら?」
一緒に住んでいる訳ではなく、隣同士の部屋であるのだが基本行き来は自由で互いの部屋で泊まり合うことも日常茶飯事だ。今日は準備もあるということから別々の自分の部屋で仮眠を取ったのだが、咲姫は自分の着替えを済ませてから隣の部屋の方へと視線を向けて呟く。
ホストとしての源氏名ではなく、本名で名前を零しながらゆっくりと歩きながら寝室を出て、自分の部屋まで来ていないことを確認してからそのまま、部屋を出て隣の部屋の玄関の扉を鍵を開けて開く。
「咲斗? 起きているかしら?」
「ああ……、咲姫。もう準備は済んだのですか?」
「ええ、朝食は摂っていないけれど……。あなたはまだのようね」
「もう終わりますよ。後少し待っていただけますか?」
「そこまで急いでいる訳でもないのだし、構わないわ」
玄関先から声を掛けると、黒のスーツを身に纏っている咲斗がリビングから顔を出す。その様子を見て微笑みを浮かべながら、中途半端であることに気付けばぽつりと零せば、咲斗は苦笑を浮かべながら言い返す。その言葉には小さく笑みを零しながら咲姫は部屋へと上がっていく。
それを確認して咲斗はリビングへと戻って行き、咲姫もその後を追うようにリビングへと入ってソファーに座ろうとしたのだが、その前にふと目に留まったものがあり、思わずその場で足を止めてしまう。
――リビングのテーブルの上に置かれていたのは、シンプルな写真立て。写真立ての中に収められている写真は、自分も、今も保管してある写真。
映っているのは自分にとっても、咲斗にとっても、大切な人達の姿で。そして、もう逢うことすら出来ない人達の姿。それを改めて実感するから普段はこの写真を表に出すことはなく、奥深くに閉まっているはずなのに、咲斗はどうしてこれを取り出してきたのだろうか。
今日に、限って。否、今日だからこそ、引っ張り出してきたと取ってもいいかも知れない。
彼は、この日から一歩踏み出そうとしているのかも知れない。それは片割れの自分にとっては喜ばしいことで、素直に受け止めてもいい。ただ、それに倣うように自分も前に進むことは、出来ずにいた。
「お待たせしました、咲姫。……咲姫? そんなところに立って、どうしました?」
「……写真立てを見て、驚いたの。あなたがその写真を出すなんて、思わなかったから」
「ああ……、そうですね。私も、思いませんでした。今もこの写真を見るのは、胸が締め付けられますから」
「……」
――それなのにどうして、という言葉を飲み込んで咲姫はただ、微かに微笑みを浮かべて返すだけに留めた。
もしも、今も彼らがこの世界に居て。今も隣で笑っていてくれたのであれば、きっと今の居場所に自分という存在は居なかっただろう。『ノクターン』という場所に自分の姿はなく、あそこで働く人達と知りあうこともなく、幸せに浸って今も過ごしていたのかも知れない。
そうだったらどれほど良かっただろう。たまにそう思うときもあるけど、今過ごす時間もかけがえのないものであるのも確かで。
出逢った誰もが心の奥深くに傷を抱えていた。自分と同じように、或いは自分よりも深く、深く。そんな彼らが生きていける場所でありたいと思うのも、また事実で。
幸せだと思う。あの店で過ごす時間は、とてもとても、幸せな時間だと思える。多くの優しさに満ち溢れて、一握りの愛情がそこにはあって。あの場所があるから、そして今、共にいる片割れが居るから今もこうして笑っていられるのだと思う。
「……咲姫?」
「え? あ……、そろそろ行きましょう、咲斗」
「ええ。ですが時間的に少々早くありませんか?」
「その方がいいと思うのよ。……もしかしたら、会うかも知れないでしょう?」
咲姫は誰に、とは言わなかったが咲斗にはその意味が伝わったのか僅かに苦笑を浮かべて納得したように頷く。彼女の会いたくない人が今日、あの場所に行かないという選択肢を選ぶことはしない。自分達が良く知っているあの人であれば、尚更。
もう一人も思い付くが、彼らと今まで時間的に会った事はないので大丈夫だろう。
玄関に向かって歩き出している咲姫の後ろ姿を見ながら、何と声を掛ければいいか分からなかった咲斗はただ、黙ってその後ろを着いていくことにした。
朝早い事もあってか人通りは少なく、車の数も少ない。咲斗が運転する車はスムーズに目的地へと向かい、その場所へと着く。
――着いたのは、墓地。駐車場に車を止めると咲姫はゆっくりと墓地へと視線を向けて、その瞳は悲しげに揺れる。その様子を見て取れた咲斗は、声を掛けることはせずにぽん、と軽く肩に手を置く。
「私は水を汲んできますから、先に行っててもらえますか?」
「……ええ」
あらかじめ買っておいた花を手に持ちながら、水を汲みに行った咲斗の後ろ姿を見届けてから咲姫は重い足取りで歩き出す。
10年間、欠かさずに来ている場所だから忘れるはずもなく、迷うことなく、ある一つの墓の前へと立つ。
――墓石の書かれている家名は、沖家。
「久しぶり、ね。……今年も、来たわ」
咲姫は花を腕に抱えたまま、空いている手を伸ばしてそっと墓石に手を伸ばして触れながら震えそうになる声を堪えながら、小さな声で呟く。
ここに眠る一人の人を、愛しいと思うようになったのは極々自然のことだった。好きになっても苦しいだけの日々だったけど、それでも名前を呼んでもらえるだけで幸せだった。笑顔を見れるだけで、心が満たされた。愛しき恋人であり、果たされることのなかった結婚の約束をした人。
自分の左手の薬指には、未だに外せずにいる婚約指輪が嵌ったままだった。この指輪を外せれば、前に進むことが出来るのだろうか、そんなことさえ考える。
愛する幸せも愛される幸せも、全部あの人に教えて貰った。それと同時に愛する人を失う悲しみも、知った。――だから、恋が出来ずにいる、10年経った、今でも。
思い出せるあの人はいつも優しくて笑顔で、でもそれは自分だけじゃなくて、他の人にもだった。それでも良かった。特別だって、何度も言ってくれたし、何度も行動で示してくれた。だから、疑うことなく信じることが出来た。苦しくても辛くても、信じ続けることが出来た。
「……あなたを、夢で見るたびに……わたしは、言葉で言い表せないぐらい、悲しく、なるの……」
――だから深く眠りたくない。だから夜に独りで居たくない。夜に眠れば、夢を見るから。あなたの、夢を。
「君はまだ、彼を愛しているんだね? 咲姫」
「……っ!?」
ふと後ろに誰かがいることが分かったものの、咲斗だと思っていた咲姫は振り向かずにいたのだが聞こえてきた声は想像とは違った声で。でも、良く知る人物の声であったので咲姫は言葉を返す事が出来ずに息を飲み込む。
少し後方に立っているのは、咲斗と同じように黒いスーツで身を纏っており、どこか雰囲気が二人と似ている男性。――咲姫と咲斗の実兄である、聖護院 榊だった。
榊であることは嫌でも分かった咲姫は振りむけずにおり、その理由が分かっている榊は何も言わずにどこか哀しげに苦笑を浮かべるだけ。今以上に近付くこともしなければ、遠ざかることもせずに距離を測りながら、その場に立っていた。
「何で、ここ、に……」
「君達と同じ理由だよ。……本当なら来るべきではないのかも知れないけれど、私は来なければいけないから」
「……」
掠れている小さな声でも聞き取った榊は、問われたことに関しては当たり前のことのように答える。こういう答えが来ると分かっていた咲姫はそれ以上は何も言わずに、動くこともせずにその場で止まっていた。
その様子を見ていた榊は、今すぐにでも駆け寄って抱きしめてしまいそうになる自分を必死になって抑えていた。
一度でも振り返ってくれたのであれば、伝えたい全てを伝えられるかも知れないのに。憎悪の視線だって構わないから一度でも、自分をその瞳の中に入れてくれたのであれば躊躇いもなく、全てを打ち明けてしまうというのに。
彼女は決して自分という存在を瞳の中に入れることはしない。その理由は誰よりも自分が良く知っているし、こうなるようにしたのも、紛れもなく自分だ。
彼女や彼が傷付く結果になって、自分すらも傷付けることになって、大切な人を失う結果になることを知った上で行動したこと。それが罪だと言うのであれば、甘んじて受ける覚悟もある。
「咲姫。……前に進む勇気は、持てないのかい?」
「……あなたには、関係無い、わ」
「そうだね、関係ないかも知れない。でも、私は……――」
「咲姫! ……兄さん、貴方も、来ていたのですね」
「咲斗、か。……線香をあげに来たんだけど、今は止めておくよ。また、ね」
伝えてしまいたい言葉を全て飲み込んで、榊は名前を呼びながらゆっくりと言葉を紡ぐと咲姫は、変わらず掠れた声で途切れがちに答えを返す。
どんな答えが返ってくるかは想像がついていた榊は苦笑を浮かべて更に言葉を続けようとしたのだが、その時に、後ろから声が聞こえる。その声が、どこか刺々しく咎めるような声であったことに気付いた榊は、ふと寂しげに微笑みを浮かべてから咲姫に背を向けて歩き出す。
その途中で咲斗と擦れ違うのだが、視線を合わせることもなく、そのまま擦れ違う。それを確認してから咲斗は汲んできた水を零さないように慌てて咲姫へと駆け寄っていく。
「咲姫!」
「……咲斗……」
「大丈夫ですか? 兄さんに何か言われませんでしたか?」
「……大丈夫よ。……大丈夫」
水が入った桶を置き、咲斗は心配そうに声を掛ければ、咲姫は安心させるように、そっと僅かにだけ微笑んで、ただ大丈夫と何度も繰り返した。
大丈夫そうには見えなかったがそれ以上問い掛けることも出来なかった咲斗は、ただ、ただ、ぎゅっと咲姫の手を握るのだった。